これまでの「今日のコラム」(2012年 9月分)

9月1日(土)  < 天災は忘れた頃にくる・・・>
「天災は忘れた頃にくる」という。寺田寅彦(1878〜1935)がこの言葉を残したとされるが、著書の中にはこの文言は見つからないそうだ。今から89年前、1923年(大正12年)の9月1日正午頃に発生した関東大震災の話を当時女学生だった母からよく聞かされた。母の父親(1879年生まれ)は寅彦とも交流のあった学者で後年寺田寅彦全集を祖父から譲り受けたので私も寅彦には特別の親しみがあり大いに影響も受けた。さて今日は関東大震災にちなんで「防災の日」。最近は忘れるどころか最悪のケースをシミュレーションするなど過剰と思えるほどの心配ぶりだ。先日のテレビでは富士山が大噴火した場合、東京近辺にも大量の火山灰が降り注ぎ大停電となる(火力発電が停止)と怖がっていた。富士山だってわずか300年前に噴火してお休みしているだけだから可能性はある。1000年周期の大地震が発生することを考えると天災はいつきてもおかしくはない。しかし、一方で来るぞ来るぞと言っていると、直ぐに100年、200年が経過してしまうこともある。忘れないで心配ばかりしていると逆にそう簡単に来てくれるものでもないか・・。
9月2日(日)  < 今日の表紙に「滝と花器と」・・・>
今日の表紙に「滝と花器と」(陶芸)を掲載した。 8月29日に焼成が完了した陶芸作品に工作を加えて何とか自分で納得のいく作品に仕上げるように奮闘してきた成果である(8/29コラム参照=ここ)。手を加えたのは内部に小型水ポンプを装着し上部から水流(滝)が流れるようにしたこと、LEDランプを二個取り付けて滝や水面を照明するようにしたこと、LEDランプ装着用のスペースに扉を付けたこと(右の斜め上部)など。苦心したことは滝の水をただ水面に落とすだけでなく”水の膜状”にして音もなく流れるようにしたこと。写真ではとても表しきれないけれども、二本の細いステンレス棒にガイドされた水の膜が音もなく水面に潜り、小さな渦を巻いている状態に仕上がった時には我ながら感動してしばらく「渦」に見とれてしまった。滝の渦巻に気がついてくれる人がいればうれしい・・。陶芸コーナー(=ここ)には表紙と別の写真も掲載した。花を活けるときには写真右側の口を使う。内部には別体の花器がはめ込まれている。

9月3日(月)  < お寺に着いた途端に突然大粒の雨・・・>
お寺に着いた途端に突然大粒の雨が降り始め、あっと言う間にどしゃ降りとなった。山門の下でしばし雨宿りをして小降りなったところでお墓参り。昨日は息子の月命日であったが来られなかったので今日の墓参となった。墓前にはまた缶ビールが二つ。いつもながら息子の友人のお供えがうれしい。雨がお墓の掃除をしてくれたので直ぐに火のついたお線香をあげる。この時にはもう雨は止みお線香も消えることはない。お寺を後にする頃には青空がみえ陽もでてきた。・・「天の恵み」というが、にわか雨でも通り雨でもまさに「恵みの雨」である。この夏、東京・関東地区にはほとんど雨が降らず農作物もピンチだった。どしゃ降りの雨に遭遇すると天の凄さ、自然の偉大さに圧倒される。もし、これだけの水量をポンプで散布するとすればどれだけの水源が必要か・・。人間業では到底及ばない「水やり」のためには、現代でもやはり神頼みの雨乞いしかない・・。
 
2012-09-03 雨の九品仏浄真寺(東京・世田谷区)

9月4日(火)  < 人の創りだすものは・・・>
人の創りだすものは様々な人の影響を受けた産物であろう。どんな独創的な芸術家であっても同時代の仲間や、人が残した歴史の影響を色濃く反映する。先日見た「ドビュッシー=音楽と美術/印象派と象徴派のあいだで」という展覧会(@ブリヂストン美術館、10/14まで、案内=ここ)では、相互に影響し合う音楽家と画家たちに焦点を当てていた。美術展であるけれども中心にフランスの作曲家、ドビュッシー(1862〜1918)をおく。19世紀後半、当時の新進画家、モネ、ドガ、セザンヌなどが権威ある評論家からは"印象派”と揶揄されながら新たな表現様式を創り上げたのと同じように若きドビュッシーが印象主義音楽と呼ばれるのに抵抗しながら独自の音楽をつくりだす。ドビュッシーが新進の画家、文学者、舞台芸術家ら(それに従来の西洋音楽にはないガムランなど)と交流しながらインスピレーションを得る様が目に浮かんだ。・・自分の興味の範囲に制限をつけないことが今必要かも知れない・・。
「今日の写真」は妻と妻の友人に連れられて行った浅草橋で撮影。アクセサリー部品専門の店であるパーツを購入したが写真はこの界隈で多い人形店の一つ。
2012-09-04@浅草橋

9月5日(水)  < 少々夏ばて気味なのか・・・>
少々夏ばて気味なのか制作意欲が湧かないので、このところDVDを見たり本を読んだりしている。ふと気がつくといずれもかなり以前の作品ばかりに親しんだ。DVDで借りた「タンポポ」は1958年公開の伊丹十三、脚本・監督の映画。伊丹十三さんが亡くなってからもう10数年経つ。奥さまの宮本信子さんが「タンポポ」では主演。他に山崎努、別所広司など懐かしい顔がみられた。それにしてもみな若い!ちなみに、このような新作でない古い映画のDVDは今の時期(9/17まで)「蔦谷書店」で無料で貸し出してくれるので有り難い。遠藤周作(1923〜1996)の「深い河」という本を読み始めたら、これも止まらなくなった。この本は1993年発表の小説だ。映画でも小説でも今見たり読んだりしても全く違和感がないのには驚く。作者がこの世にいなくても作品は今生きている多くの人に感動を与えてくれる。
2012-08-05  花には生き物が寄ってくる

9月6日(木)  <ディスカウントスーパーマーケット・・・>
ディスカウントスーパーマーケットと称する巨大スーパーに妻のお供でいった。妻が一生懸命買うものを選定しているとき、私は家の近所のスーパーでは気にもしない「食品の名前」を見て遊んでいた。先ず、「鮮魚」のコーナーの英語名は「Sea Food 」。これは英語の方がピッタリして、魚以外のものもあるのに日本語は「海鮮」ではなく「鮮魚」だ。肉のコーナーでは「精肉」=「Meat 」。まあ、「肉」とせずに「精肉」とした方が高級感がでるかも知れない。「惣菜」は何というか。「そうざい」は普通主食と共に食べる料理、「おかず」(副食)のことだが、ここの「惣菜」コーナーにはお弁当やおにぎりなどもある。そして英語名が「Deli 」。ここまでくると、なるほどと感心してしまう。このスーパーは米国の「Wal-Mart 」(世界最大のスーパー)を手本にしているそうだが、英語圏のスーパーの呼び名に習ったのだろうか。もっとも日本語の「鮮魚」や「精肉」にしても案内がなくても見れば分かる。どうでもいいことだが、今度別のスーパーに行ったときには「食品の名前」に注目してみようか・・。

9月7日(金)  <捜し物は一番ありそうな場所・・・>
捜し物は一番ありそうな場所にある。表紙に掲載している陶芸作品「滝と花器と」を動画で撮影しYou Tubeに登録しようとすると「パスワード」が分からない。コンピュータに関連したログイン名、パスワードなどは専用のノートに記録しているが、You Tubeのものは見つからない。別にメモを残しているはずと、机の引き出しの中を大整理したが分からない。半分あきらめかけたところで、ふとパソコンの根元を見るとメモ用紙がある。そう、目の前50cmのところに8桁のパスワードがしっかりメモされていた。これで動画を登録したもの=ここ=。水流(滝)が膜状になって水面に落ちるところは計画通りに成功した。LEDランプは右側の扉の部分から装着している。花器の部分は動画でも紹介しきれなかったので追って写真で掲載したい。
2012-09-07@目黒川緑道、左=キバナ(黄花)コスモス、右=花虎の尾

9月8日(土)  <死ぬまでにしたい10のこと・・・>
「死ぬまでにしたい10のこと」というDVDを借りてきて見た<9/5のコラム(=ここ)で書いたが、いま蔦谷書店で古い映画のDVDを無料で借りることができる>。この映画は10年ほど前に制作されたスペイン・カナダ合作映画で脚本・監督はスペイン生まれの女性、イザベル・コイシェ。小さな子供二人をかかえる若い女性(夫は失業中)が突然ガンで余命二三ヶ月と宣告されたあと「死ぬまでにしたい10のこと」をノートにリストアップして実行するストーリーだ(あらすじ・解説=ここ)。余命三ヶ月と宣告されて「死ぬまでに何をやりたいか」は人それぞれであろう。年齢や周囲の条件でも変わる。私の周辺でみれば(リタイアした人が多いが)一人の人間として「やりたいこと」のある人は清々しい。しかし、健康な身体を持って「死ぬまでにしたいこと」を”想定”するのは生きている意味を見直すいい機会にはなるが、実際にこのような事態になったときには「脚本」では到底及ばないほど深刻で無念さを伴う。映画と同じようにガンを宣告されて3年前に38歳で逝った息子のことを思い出してしまった。死ぬまでにしたいことは10やそこらではなかったはずなのに、何もできず、何もしてやれなかった・・。
2012-09-08 @北沢川緑道にて<陶芸の帰り道>

9月9日(日)  <一期一会と言うけれど・・・>
一期一会(いちごいちえ)と言うけれど、人は生まれてから死ぬまでの期間(一期)に何人と話を交わすだろう。その中で感化されたり心酔する人は何人いるだろう。いずれにしても実際に接触できる人数は極めて少ない。一方で、人は周囲の人の考え方に大きく影響される。接する人の価値観をそのまま受け入れてしまうと、一般的多数派である、経歴や出世で人を計る人、金銭を全てのベースとする人、権力の大小や知名度で人を判断する人になりかねない。もし真に他人のために尽くす人や人間的に立派な人と交流を持てば価値観が変わり、その人の人生も変わるかも知れない。世の中には本当に「エライ人」も多い(”偉い”の定義が難しいが)。普段会話をする人と別世界の人(偉いかどうかは別で)と交流できるのはやはり「本」であろうか(今は本に相当するネット情報もある)。本には今生きている人だけでなく、これまで生きた人々の英知が凝縮されている。本によって世界が十倍、百倍に広がるのは間違いない。

9月10日(月)  <撫子の 暑さ忘るる・・・>
「撫子の 暑さ忘るる 野菊かな」。芭蕉のこの句にふさわしい「今日の写真」を撮りたいとカメラを持って散歩にでかけた。撫子(なでしこ)は秋の七草の一つであるが真夏に開花する。今年は女子サッカーの「なでしこジャパン」がオリンピックで正に暑く活躍したので、芭蕉の句が何か象徴的で面白い。ところが、いつもの公園では撫子も野菊も見つけることができなかった。都会では思う草花にはそう簡単にお目にかかれない。その代わりに、できるだけ秋らしいものを心して撮影したのが下の写真。・・今日の午前中は厳しい残暑の中いつになくハードなテニスで汗を流した。健康な身体に感謝。「古希過ぎて 暑さ忘るる テニスかな」。もう一つ、「ロンドン(五輪)の 暑さが続く マイテニス」。
 
2012-09-10@中目黒公園(東京・目黒区)

9月11日(火)  <森林浴は免疫力を・・・>
森林浴は免疫力を高めるというテレビ番組に影響されたのか、久しぶりに自然教育園(=ここ)に行った。確かに公園の花壇を見ながら歩くより、巨大な樹木に囲まれた薄暗い小道を散策する方がはるかにリフレッシュした気分になる。実は都会の一角の小さな「森」だから本当に森林の効果があるか分からないけれども非日常をより強く感じるのは間違いない。今日、ここで秋の七草がどれほど見つけられるか注意して園内を廻った。結局、ハギ、フジバカマ、女郎花、尾花(ススキ)を見つけたけれど、キキョウは花が咲いていなかったし、クズ、ナデシコは見つからず。秋の七草はまた別の機会として、今日は”森林らしい”写真を二枚掲載してみる(下)。意外だったのは、下の写真の池にはまだ水があるが一部の池は干上がっていたこと。東京も水不足。森林は雨を待っている。
 
2012-09-11 @自然教育園(東京・港区)

9月12日(水)  <Deep River・・・>
「Deep River」という黒人霊歌の歌詞を諳(そら)んじている。”Deep river, my home is over Jordan, Deep river, Lord ,・・”。いつどうして覚えたのか記憶にないのは、私の年代ならば誰でもが耳にするほどポピュラーであったということだろう。遠藤周作の小説「深い河」を読み終えて「Deep River」の歌を口ずさんでいた。小説はクリスチャンの遠藤周作らしい宗教を考えさせる名作であると思えた。またインドへの旅の中で展開する物語は数ヶ月インドに滞在した経験のある私には細かい表現にも毎度うなずくものばかりだった。この小説は遠藤周作が黒人霊歌「「Deep River」を聴いて閃きを得たものと知って納得。黒人霊歌(Negro Spiritual)はアフリカから奴隷船でアメリカ新大陸に連れてこられた黒人とキリスト教が絡み合った独特の歌である。インターネットではSPレコード時代のマリアン・アンダーソン(1897〜1993、ここ)の「Deep River」を聴くことができる(=ここ)。ところで現代の「Deep River」は宇多田ヒカル作詞、作曲の歌。こちらの「「Deep River」もすばらしい(You Tube=ここ)。宇多田ヒカルも黒人霊歌を聴き遠藤周作を読んでいると確信した。

9月13日(木)  <「今日の作品」欄に「8年前の作品」・・・>
「今日の作品」欄に「8年前の作品」を掲載するのは気が引けたが、思い切って表紙に登場させた。これは古い作品をYou Tubeの動画で紹介しようと思いついたからである。私の陶芸作品は動きのあるものが多い。以前は個人のホームページに動画を掲載することなどできなかったが今はYou Tubeに登録すれば直ぐに動画が見られる<今回の動画=ここ>。 動画に適する陶芸作品を探していると古い作品に気合いが入ったものが多い。今日表紙に掲載した「噴水」作品は2004年10月の制作で、下部には容易に手に入らぬ超小型ポンプを装着している(2004-10月3日コラム=ここ=参照)。その後は安易に魚水槽用のポンプしか使用していないが、このミニポンプはいま見ても画期的だ。それにしても古い作品を見ると今の方が陶芸の技術は少しは進歩したかも知れないが、作品の面白さ、新規性は以前の方が上かも知れない。これからの陶芸にはもっと大胆に新しいアイデイアを盛り込めと自らを叱咤する。


9月14日(金)  <「椿の実」(ペンと水彩)・・・>
「椿の実」(ペンと水彩)を「今日の作品」(表紙)に掲載した。木偏に春を並べた「椿(つばき)」は文字通り春に花を咲かせて俳句では春の季語だが、寒椿は冬の季語。それが「椿の実」となると秋の季語になるという。大きく膨らんだ実だけをみると冬から春にかけて華やかに咲いた椿の花は想像できないが、ツバキの語源になったといわれる「艶葉木(つやばき)」や「厚葉木」の通り分厚く艶のある葉は秋になっても変わりがない。今回スケッチをした「椿の実」は榛名の山(群馬県)からお土産にいただいたもの。この実が三つに割れると中にいくつもの種がある。椿油の材料となる実(種)は意外に大きい。我が家の側に椿ではなく山茶花(さざんか)の木があることを思い出して、今の時期ほとんど気にすることはなかった山茶花を見にいった。確かに椿ほどではないが小さな実がいくつもできていてうれしくなった。

9月15日(土)  <黛敏郎作曲・・・>
黛敏郎作曲「独奏チェロのための”BUNRAKU"」の演奏などを楽しく聴く機会があったが、曲目解説がまた興味深かった(昨晩の演奏会=海野幹雄チェロリサイタル、@銀座王子ホール)。黛敏郎(1929〜1997)の解説に、「政治への関心も強く、1958年には、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、永六輔ら若手文化人と共に”若い日本の会”を結成」とある。当時、黛敏郎は29歳、今は黛敏郎だけが故人だが他は皆存命だ(他には今は故人の江藤淳、寺山修司らも参加)。結成当時の年齢を見ると、石原慎太郎26歳(現在79歳)、大江健三郎23歳(現在77歳)、谷川俊太郎27歳(現在80歳)、永六輔25歳(現在79歳)。その後はそれぞれに政治信条が異なり左に右にバラバラの道を歩むが、当時はとにかくも若い。いまや「文化人」という言葉も死語で分野の違う若者たちが「日本の会」を結成する兆しもない。現在の流動的な政治の中で注目される「維新の会」橋下徹さんにしても43歳。「若い日本の会」ならば大長老である。オリンピックでは好結果を継続するためには若手が成長してベテランに取って代わることが必須。人間の生命維持の基本は古いものが新しいものに入れ替わる「新陳代謝」。政治の分野でも、もっともっと若手のアピールが欲しいが・・。
2012-09-15北沢川緑道にて<黄花コスモスも終わりに近い>

9月16日(日)  <サンマは買って食べるべし・・・>
サンマは買って食べるべし。うっかりと「目黒のさんま祭」にでかけてしまった。目黒駅東口近辺(品川区)で先週日曜日(9日)に開催された「目黒のさんま祭り」に続いて、今日、目黒区で「目黒のさんま祭」が行われた。会場がいつも散歩する目黒川沿いなので少し遠いが妻とウォーキングをかねて出発。会場付近にオープンの40〜50分前に着いたが既に長蛇の列(数百メートル、千人以上か)。気仙沼から5000匹のサンマが運ばれて無料で提供されるというサンマ待ち行列には即ダメをだした。その代わり久しぶりに目黒の「大鳥神社」にお参り。帰途、またサンマ会場近辺を通り「ずんだ餅」(秋田角田市の名物)を土産に買って帰った。それにしても「さんま祭」会場に入るだけも拒否されて疎外感が尾を引いた。サンマをいただく訳でもないのに、時間が過ぎても主催者一同が延々と「式典」を続けて一般の人が会場に入ることも、見学させることもさせない。この日、立川志の輔、糸井重里さんらが会場にきたという。「ほぼ日刊イトイ新聞」(糸井重里のHP)では丸一日、「目黒のさんま祭をテキスト中継」した(=ここ)。大量のサンマを気仙沼から運ぶ経緯など貴重なレポートもあるが、見学することもできなかった身としては、大盛況のお祭りにはしゃいでいる姿が何か白けてみえてしまう。祭りに過度の期待をしてはいけない。
2012-09-16 目黒・大鳥神社

9月17日(月)  <置かれた場所で咲きなさい・・・>
「置かれた場所で咲きなさい」。これは今日、敬老の日にNHKテレビで紹介されていた85歳のシスター、渡辺和子さんのベストセラー本のタイトルだ。たまたまその前に教育テレビ(宗教の時間)で渡辺和子さんのインタビュー番組を見たところだったので連日の拝顔。渡辺和子さんは18歳でキリスト教の洗礼を受け、36歳の若さでノートルダム清心女子大学(岡山)の学長になったお方で、現在は理事長。マザー・テレサが来日した際(1984)通訳を務めるなど多方面で活躍された。<ちなみに、シスターは生涯独身で身も心も神に捧げる厳しい戒律の世界にいる>。さて冒頭の著作を読んだわけではないが紹介された言葉の経緯が興味深かった。シスター自身が悩み苦しんでいる時に先輩の神父から教えられた言葉で以後生涯のモットーにしたという。元の言葉は「Bloom where God has planted you.」<一般には、God が重すぎる場合、Bloom where you are planted.とすることもあるようだ>。あれこれ不平を言わず今いるところで最善を尽くす教えであろう。花を咲かせるとしても大輪の花とは限らず野に咲く可憐な花もまたいい。私は「咲きなさい」だけではない、その先の言葉が好きだ。どうしても咲けないときは無理に咲かなくてよい。次に咲く花がより大きく美しくなるために根を下へ下へと降ろしなさい・・。
今日の写真(下)は夏の名残のヒマワリと秋を待ちきれないキキョウ。それぞれの場所で元気に咲いている。東京の空も怪しげ。秋風ぞ吹く。
 
2012-09-17 @中目黒公園          右は別所坂児童遊園より

9月18日(火)  <人のやることには・・・>
人のやることには明らかにリズムがある。今は余り聞かなくなったが、一昔前には「バイオリズム」と言った。上り調子、下り調子、やる気のあるとき失せたとき、次々にアイデイアが閃くとき停滞するとき・・。「今日の作品」に掲載した「壁掛け型一輪挿し」(陶芸)は昔の作品ではなく最近出来上がった作品。そう、一年ほど前に制作した陶芸「花器付き壁掛け」(=ここ)とほとんど同じ形状の作品だ(今回の名前は一輪挿しとした)。今はこのようなリピート作品でもいいやと割り切る気分で最近は無理をせず成り行きに任せる。同じような作品を繰り返して制作することで、色々と教えられることも多い。どのような形にしても自分で思うように制作を続けられることに感謝しよう・・。<この作品には鋼球が扉の箇所から澄んだ音を立てながら階段を転がり落ちて最期に右隅に戻るオマケの仕掛けがある>
「今日の写真」(下)には「トクサ(砥草、木賊)」を掲載した(左)。子供の頃、この小さな竹のような草でよく遊んだ記憶があるが、名前は知らなかった。表皮がザラザラしていて(煮て乾燥した後)紙ヤスリのように研磨の用途にできるから「砥草(トクサ」)の名があると知ったのは最近だ。右の写真は「トラノオ」の一種か。
2012-09-18 トクサとトラノオ
 
9月19日(水)  <九品仏・山門/Mieuへの絵手紙・・・>
「九品仏・山門/Mieuへの絵手紙」(ペンと水彩)を表紙の「今日の作品」に掲載した。久しぶりの「Mieuへの絵手紙」。絵手紙に使うハガキ用紙を切らして、一ヶ月以上絵手紙を描けなかったが、今回、ハガキサイズの「和紙」を購入して早速描いたもの。他に普通の絵はがき用紙も手に入れたので当分は毎日でも描ける。「Mieuへの絵手紙」は私が絵を描き、妻が宛先面の半分に文章を書いてニューヨークに住む孫娘Mieuへだす。もう8年以上続けている・・、ということはハガキを受け取る相手だけがどんどん成長する。Mieuは今年9月マンハッタン北にある中学に入学してますます多忙のようだ。今更相手に合わせて絵手紙を進化させることもできないので、こちらの絵だけはマイペース。今回の「九品仏・山門」は九品仏・浄真寺(東京・世田谷区)の山門。息子の月命日にはほとんど欠かさず墓参りをするので、毎月一回以上この山門をくぐる。
  2012-09-19 東京でも滅多に見られない日の入りだった

9月20日(木)  <150歳ペアが勝利・・・>
150歳ペアが勝利・・。今日のテニスで私とペアを組んだ人との合計年齢が正確には154歳。それが約120歳ペアの相手に勝った。これまでペア年齢など気にしたことはなかったが、先日合唱の指揮をしている従姉から”合唱の出演者の年齢合計が6000歳!!”と聞いたのを思い出してペア年齢を数えた。テニスの場合、20歳前後の現役選手を除くと年齢にほとんど関係なく、年齢差より個人差の方が勝負を左右する。その点、プロのスポーツ選手は年齢には勝てないと言いたいところ、20歳も年下の現役選手と対等以上に争う、野球のイチロー(38歳、昨日のダブルヘッダー試合でも7安打の大活躍でヤンキース勝利に貢献している!)や、ハンマー投げの室伏広治(37歳)は無条件にすばらしい。プロのアスリートとしては他人には見えないところで猛烈に身体を鍛えているのだろう。ペア年齢というと夫婦の年齢も高齢化。いまや160歳、170歳のペアもめずらしくはない。こちらのペアの場合、何をどう鍛錬すればいいのか伺いたい・・。

9月21日(金)  <まこと お彼岸入の・・・>
「まこと お彼岸入の 彼岸花」(種田山頭火)。どういう訳か、山頭火には彼岸花を詠んだ句が多い。山頭火(1882〜1940)は、「どうしようもない私が 歩いている」、「まっすぐな道で さみしい」といったユニークな自由律俳句を数多く残した。今咲いている彼岸花は山頭火のユニークな俳句の自然版というか、実に自由奔放、どうしてこんな形状が許されるのと思わせる自然の妙味を見せてくれる。彼岸花の別名「曼珠沙華」も何か字面が花にふさわしく見える。曼珠沙華というと北原白秋が、この文字を”ひがんばな”と読ませた詩をつくり山田耕筰が作曲した歌が有名だ。昔、私は歌詞の意味も知らずにこの歌を愛唱したが、いま見ると恐ろしく、意味深長な歌(歌詞)である(歌詞例=ここ、Tou Tubeの歌=ここ/歌が素敵!)。山頭火の俳句をもう少し入れておこう:「いつまで生きる 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)咲きだした」、「なんでもない道がつづいて 曼珠沙華」、「お彼岸の お彼岸花をみ仏に」。
<明日、22日は小旅行のためコラム休みます>

2012-09-21@北沢川緑道(東京・世田谷区)にて

9月23日(日)  <今朝の朝食でとりたてのブルーベリー・・・>
今朝の朝食でとりたてのブルーベリーにヨーグルトをまぶして食べる。昨日、群馬県・榛名の山荘に泊めていただきひととき非日常を楽しんだ。ブルーベリーの収穫もうれしいが、思う存分栗拾いを体験した。軍手、トング(つまみ道具)、袋などを準備して、はじめは毬栗(イガグリ)の中をこじ開けて栗の実を集めるのが面白く夢中になっていたが、袋を満杯にしてもまだまだ栗は山のように残っているので途中から全部拾い集めるのは諦めた。それでも当分は栗ご飯が続きそうな大収穫だった。・・関東地区では今日は終日雨。東京に帰り着くと先週と打って変わって涼しい。いよいよ秋本番だ。
 
2012-09-23 栗&ブルーベリー @榛名

9月24日(月)  <陶芸教室に行くと「翼竜型香炉」が完成・・・>
陶芸教室に行くと「翼竜型香炉」が完成(=本焼成完了)していたので早速家に持ち帰り「今日の作品」としてこの表紙に掲載した。今回は一昨年(2010年8月)に制作した「翼竜型香炉」(=ここ=参照)の改良を試みた。前回のものは香炉としては翼竜の口や背中から煙を出しながら長い線香全てが連続して燃焼しきらない欠陥があった。空気の取り入れ口が不足していることと、首の内部の穴が若干変形していることなどが原因と見て、今回の作品では線香の貫通部を重点的に改善した。結果は長い線香が、竜の口から首、喉、胴体へと通して燃焼できるので、まず成功とみたい。はじめは、作品の下に白地を敷いて写真を撮ると煙が写らなかったので黒地の下敷きに変えて撮影したのが表紙の写真。胴体の内部を見せた写真は陶芸コーナー(=ここ)に掲載した。


9月25日(火)  <「何が言いたいのか」を考える・・・>
「何が言いたいのか」を考えるのが、読書や映画鑑賞、あるいは友人らとよき議論をするときの醍醐味かも知れない。最近、つづけて小説「深い河」(遠藤周作)と「氷点」(三浦綾子)という重い作品に接して、作者は何を言いたいのか考えさせられてしまった。遠藤周作も三浦綾子も共にキリスト教の信者。純真な信者が恵まれない人生を歩んだり、本人には罪もないのに不幸な目に遭う物語で、勧善懲悪と真反対の、傍若無人な人間がはびこり、善人が必ずしも報われない現実の世界をみせられる。それでも作者はその現実を許す。作者の言わんとするところを述べよと設問をだし、模範解答を示すのは小学生の国語。勿論、作者にあなたは何が言いたいのかと質問するのは愚か。一般の会話の中でも相手に「何が言いたいのか」を直接聞くような無礼を誰もやらない。小説の作者が何を言いたかったのかをそれぞれの読者の感性でとらえるのが小説のいいところだろう。ふざけたお笑い番組ばかりのテレビを消して小説の名作を読むと時間の流れ方が変わるのは確かである。
表紙に「翼竜型香炉X」(陶芸)の頭部分の拡大写真を掲載してみた。


9月26日(水)  <お客様が家にいらっしゃって・・・>
お客様が家にいらっしゃって楽しく時を過ごした。それだけでもうれしいけれども、我が家の場合、客人が来られるというだけで部屋が片付き綺麗になる。部屋の掃除は私の担当。客人と関係なしに常に部屋を片付けていればいいのだが、どういう訳かお客様に来ていただかないと綺麗にならない。反対に、部屋を綺麗にして新しく完成した陶芸作品などを飾り、自作の花器に花を活けてみても、お客様なしだと何か空しい。他人の目を気にするなとか、格好を付けるなとか、理屈で非難されてもお客様のお陰で部屋が綺麗になればその方がいい。・・家庭だけでなく外国のお客様が日本を訪れてくれるのもうれしいことだ。オリンピック招致や世界遺産登録も結構。外国のお客様が沢山日本を訪問してくれればそれだけで日本は元気になる(もしかすると綺麗にもなる)。家庭にお客様が来ていただくと元気にもなる。本当にお客様は有り難いと再認識。今更ながら感謝である。
2012-09-26

9月27日(木)  <「褒めて育てる」・・・>
「褒めて育てる」ことが子供に有効であることは今は「脳科学」からも常識である。逆に、叱られてばかりいる子供は本能的に自分をストレスから守るために人の話を聞き流す「逃避脳」が発達する。子供の本能はつまり大人も同じ。幕末に松下村塾を開き多くの人材を世に送った吉田松陰は人を褒める名人だったと言われる。松陰は弟子たちと一緒に意見を交わしながら、後の高杉晋作、伊藤博文ら気鋭の若者たちに何が長所かを具体的に挙げて褒めたそうだ。褒められればやる気が出るのは子供に限らない。嫌なこと、不安なことがあると逃げたくなるのも子供に限らない。歳をとって、不本意ながら慣れ親しんだ仕事から引き裂かれて、誰も認めてくれない状態になると、現実から逃避したくなって脳が自衛的に萎縮するのも分かる。人間の心理はそれほどデリケート。脳を元気にするには自分も他人も「褒める」ことがいい・・。
 
2012-09-27  「インパチェンス」(赤と白)<今、庭に唯一咲いている花>

9月28日(金)  <「動物樹形図/mieuへの絵手紙」・・・>
「動物樹形図/mieuへの絵手紙」(ペン&水彩) を今日の作品として表紙に掲載した。Mieuへの絵手紙としては少々教育的過ぎるが、こちらも色々と勉強になった。樹形図は関連する部門から枝分かれして分類表示するやり方で目で見て分かり易いけれども、今は動物を脊椎動物、無脊椎動物に大きく分ける考え自体が議論のあるところらしい。脊椎動物の中でも哺乳類、霊長目ヒトさまである人間であるが、「脊椎動物の種類は動物全体の5%にも満たない」と聞くと地球上の「動物」の多様性に驚く。アリストテレスの時代には生物を「感覚と運動能力のある」動物と、そうでない植物に分類したというが、今や昔は動物の範疇になかった動物も多いし、菌類など動物か植物かの分類さえ微妙な生物もある。冒頭の樹形図では、脊椎動物を哺乳類、魚類、鳥類、両生類、爬虫類に分類、そして無脊椎動物を軟体動物、節足動物、扁形動物、環形動物、線形動物、海綿動物に分類した。それぞれに英語名を付けるのに苦労したが、NYに住む孫娘Mieuの方が英語名は詳しいかも知れない。


9月29日(土)  <国立新美術館で開催・・・>
国立新美術館で開催されている新制作展を見に行った。今年は毎回彫刻部門で活躍されていた知人の渡辺隆根さんが8月に病死されたので特別な思いで展示作品をみた。渡辺さんは昨年3月に98歳で亡くなった日本近代彫刻の先駆者であった佐藤忠良さんの弟子筋にあたり、これからもまだまだ仕事のできる年齢であった(享年73歳)。私は新制作の彫刻の中では渡辺さんのシンプルな抽象作品が特に好きだった。作品は人を語る。渡辺さんも純粋で清廉な人柄だった。天は何故このような人に限って早く召されるのか・・。渡辺さんの追悼作が二点屋外に展示されていたので写真を撮った(下)。写真左の作品は「切り込まれた形・洞」(1997作、高さ130cm)、右の作品は「生きものの海」(1969作、長さ120cm)。
 
2012-09-29 渡辺隆根さんの作品  @国立新美術館
9月30日(日)  <「森の長城プロジェクト」・・・>
「森の長城プロジェクト」を知って応援したくなった。このプロジェクトは昨年の東日本大震災の被災地でいまだに大量に処理されていない震災瓦礫(ガレキ)の上に盛土をして植林し森を育てて「森の防波堤」を築くという計画。青森県から福島県に及ぶ総延長300kmに、巾30〜100m、高さ10〜15mのガレキを埋め込んだ森の防波堤を創り上げるという壮大なプロジェクトだ<プロジェクトの紹介サイト=ここ>。プロジェクトの理事長には細川護煕さん(元首相、陶芸家)がおさまっていて、糸井重里氏らと対談しているサイトも面白い=ここ。現役の政治家やお役人が的確な復興ビジョンを示せないところで、もっと大勢の人にこのプロジェクトのことを知らせたい。それにしても一般の人の寄付だけで推進するには限界がある。やはり国家的プロジェクトとして予算を付ける方策がないものか・・。

2012-09-30 台風17号の来襲までは12時間の猶予があり平穏な東京(新宿)

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