第4回 ヨーロッパ音楽研修旅行
Vielen Dank! Unser Freund! その3
5/5 ブレスラウからウィーンへ
寸言
ポーランド、チェコと、旧共産国の農地は荒れていた。人影もなく、あまり手が入っていないことが見てとれた。
あちこちで操業していない工場が廃墟になっていた。人影もなく煙突から煙がでていなかった。
田園風景の美しさはドイツと変わらないし、前回のハンガリーのような失業者の群れは見なかったが・・・。
自由化から10数年。社会主義ってなんだったんだろう。人の心が荒廃していなければ良いのだが・・・(Y.S.)
ウィーンに向けてチェコを通過する
8時10分バスで出発。今日はウィーンまで400キロとのことだ。菜の花畑、小麦畑、牧草地、荒地が交互に現れる平原をバスは行く。雑木林の中に小さな集落が点在している。電信柱が所々に立っているが電線が切れて垂れ下がったままになっているものもある。チェコとの国境では係官と迷彩服を着た兵隊がバスに乗り込んで来て皆のパスポートを集めて持って行く。ヨーロッパ人の乗った車はパスポートを見せるだけで通って行くが、我々は先ずポーランドでチェック、チェコで又チェックとなかなか終わらない。やっと出発。チェコは工場が多く発電所の煙突のような建物もある。今までより土地の起伏が大きい。山の上に赤いとんがり屋根の修道院らしい建物が見える。又めずらしく頂上付近に岩壁のある山が見える。スイスの山のようだ。
12時10分、チェコのサービスエリアでチェコ風昼ご飯 。スープとソーセージとパンをとる。ソーセージはひき肉を腸に詰めただけの素朴なものだが、焼き立てでジューシーで美味しい。皿にソーセージがゴロンと横たわりマスタードとケチャップついているだけというのも面白い。一人450円位だった。3時オーストリアとの国境に着く。又待たされるのかと思ったらフリーパス!!ウィーン迄あと74キロだ。
ウィーンに入る
4時45分旧ドナウ、新ドナウ川にかかる橋を渡る。市内を1周してからペンション・バロネッセに到着。4階建ての堂々としたペンションだ。らせん階段の真中の空間を利用したエレベーターがかわいらしい。6時30分それぞれ夜の街へ食事をしに行く。運転手・ロルフさんと食事をしてイムスハウゼンから2000キロのバス旅行の労をねぎらう。安全運転で乗り心地も良く、これぞまさにプロという運転だった。明日からのウィーン散策が楽しみだ。(記録者:Y.I.)
ウィーンで最初の夕食
5/6 ウィーン二日目
ノイブルク修道院で古写本の講義を受ける
ウィーン二日目の朝、郊外にあるノイブルク修道院(Kloster Neuburg)をカインツバウアー先生の案内で訪ねた。先生はここでグレゴリオ聖歌について教え、また、街中のショッテンキルヒェの音楽監督もしている。橋本先生とは旧知の間柄だ。
市電でショッテントーアまで行き、地下鉄に乗り換えて郊外に出る。地下鉄は直ぐに地上に出ると、ドナウ川沿いを走っている。貴族の館として建てられた美しくも壮大な建物が目指す修道院。その多くの空間を古文書図書館に充てている。カインツバウアー先生は我々のために、12世紀頃から17世紀頃までの羊皮紙の祈祷書を何冊も研究室にあらかじめ持ち込んで置いてくださった。年代の異なる祈祷書から同じ聖歌を選んで解説してくださる。記譜法の違い、歌い方の違い・・・自分で歌って聞かせて、その違いを実感させてくださる。なんと素晴らしいひと時だったことか!!この手の古文書は普通は手を触れさせてくれないものだが、ここでは素手で触れてみるように言われた!
左: カインツバウアー先生、右:羊皮紙の祈祷書
修道院の広大、広壮な院内を見学する
研究室でのゼミナールの後、広大で複雑に廊下がめぐる本館のあちらこちらを案内していただいた。現在補修中のチャペルは十分に見ることができず残念。敷地の一隅にある古い小礼拝堂は見ごたえがあった。 幾世紀にも亘って実用されている書庫、チャペル、祭具、シンボルなどが強い力で迫ってくる修道院だ。 (記録者:J.I.)
ウィーンの二日目
緑一杯のドイツから、戦争の名残を残すポーランドを経て、文化の薫風漂うウィーンに入ったスコラの旅行も終盤を迎える。二日目の朝、シュテファン寺院を見に行きたいと、ペンションの受付で路面電車の24時間パスを購入し、9時10分頃出掛けた。Universitäte Strasseを歩いて、Rat Hausまで行き、路面電車を4、5駅乗ってOper Hausに出た。先ず、翌日観劇することにしているオペラ「魔笛」の予約券交換の場所を見にいったのだ。それから、ALBERTINA美術館の「ゴヤからピカソまで」の看板に惹かれて入ってみる。中央の白作りの階段を上ると、廊下が左右に分かれて四角く手前に戻るようになっていて、とても豪華な気分。こんな階段をさっさっと足の長い貴公子が上ってきて、手には手袋をして扇子を持った裾長のドレスの貴婦人の元に駈けつける・・・なんて図を想像してワクワクした。
ウィーンの街並、美術館・・・
ウィーンの街並みは、建物と道路とが少しカーブしたようになっていて、ロンドンの街並みを思い出した。18、19世紀にはこんな所を馬車が行き来していたのだ。そう言えば、時々観光用の馬車がひずめの音をたてて通っていた。日本でも此の頃、浅草や鎌倉などで見かけるが・・・
一度宿に戻り休養をしたが、朝買った24時間チケット、せめてもう一度くらいは使わなくてはと、路面電車に乗って再度出掛けた。しかし、この後はあんまり楽しくないことになってしまった。と言うのは、電車と乗る方向を間違えて、どう見ても中心からどんどん離れて行っているのが分かり、不安になって反対向きの電車に乗り換えて、すごすごと戻ってこなければならなかったからだ。ウィーンは、東京と較べたらそれ程大きくなくて、良く調べて行動を開始すればこんなに、迷ったりしなかっただろう。そんな訳で、シュテファン寺院を見る希望は消えたのだった。
ウィーンが何故明るく感じるのかと思ったら、「それはね。空が広いからよ」と言った人がいる。そーだあ。あのなんとも言えないスケールの大きな建物は、それ程高さは高くなくて、青い空がひろーく広がっていたのだ。(記録者:R.H.)
5/7 ウィーン三日目
辻強盗に遭遇!
自由行動の日の朝、ウィーン国立歌劇場(Oper) でのオペラ『魔笛』のチケットをネットで購入した3人+1人は、Eメールチケットを本券に替えてもらうべく、先ずOperまで行くことにする。ウィーンにも少し慣れ、足取りも軽くショッテントア近くまでやってきた。これからとんでもないことが待ち受けているとも知らずに・・・
少し赤毛のひょろっとした青年がカメラを手に近づいて来た。青年は写真を撮ってくれないかと身振りで示し、私達を通り沿いの大きな石造りの建物のL字型の凹みの前に誘った。もっと景色の良い場所があるのになぜ?の疑問が頭をよぎったとたん、降って湧いたようにソフト帽をかぶりダークスーツに身を包んだ大男が二人、目の前に現れた。
取調べ?
大男は財布を出せと言い、先ず一人のバッグの中身を調べた。紙幣を二つ折りにしてぎゅっとねじ込むようにバッグに男が戻したのを、しわになるのがいやで入れ直そうとしたら、すごい権幕で怒られそのままジッパーを閉めろといわれた。私服の刑事かな?でも偽警官を装う詐欺もありという記事もあったのを思い出し、尋ねると即座に二つ折りの黒い証明書入れを取り出し開いて見せた。写真とpoliz・・・の文字が読み取れた。いわれるとおりパスポートと封筒に入ったお金を見せると、紙幣をやはり二つ折りにして今度は丁寧に封筒に戻した。日本円の封筒は中身を聞いただけで手を付けなかった。他の人達も同じように調べられた。調べる役ではない方の男は、私達が私語をしたり逃げたりしないようにずっと見張っていて恐ろしかった。Don't move, Don't talkが何度も繰り返された。調べ終わると打って変わって丁寧な物腰になり、去って行ったのだった。ショックを受けながらも、やれやれ疑いは晴れたのだとほっとした。嫌なことを振り払うようにウィーン美術史館へ。名作の数々を気が済むまで堪能し、ミュージアムショップに立ち寄った。レジのところで突然「ヤラレタワ、ドル札が抜かれてる!」皆で慌ててバッグの中を調べたところ、あろうことか全員ヤラレテイタ。
あとしまつ
運が悪いことに、前日にスコラの手持ち現金を両替したばかりだった。紙幣の内、1枚を残して抜き取り小額紙幣を包む形で二つ折りにして戻したのだ。それを私達の目の前で堂々とやってのけたのだから、これはまさに掏りの仕業としか言いようが無い。あの時バッグにねじりこまれたお札をきちんと伸ばして入れ直そうとするのを、すごい権幕で阻止したのも今なら合点が行く。宿へすぐ帰って近くの警察を教えてもらった。警察署では英語の分かる署長さんが運良く居られ、調書を作成して下さった。待っている間、パソコンの画面に次々と現れる犯罪容疑者の中に犯人がいるか見てほしいと言われて見たが、みつからなかった。警察署には2時間はいたように思う。
大急ぎで宿に戻り、支度をしながら気持ちを切り替えてOperへ向かった。劇場は満員の人で溢れ、華やかな雰囲気に包まれていて、オペラも私達が受けたショックをしばし癒し忘れさせてくれる、modern versionの楽しい舞台。アンコールの回数も拍手も凄い。幕間にロビーで飲んだコーヒーはお腹に沁みわたって美味しかった。
盗られたのが大事なスコラのお金だったので、弁償するつもりで8日のウィーン最後の夕食会に臨み、そこで事件の一部始終と弁償の件を参加者の皆様に話した。橋本先生を始めとする参加者の皆様に対して口では言い尽くせない感謝の気持ちで一杯である。と同時に忘れられないのは、夕食会での事件の説明で、「私達に償わせてください、私達のプライドもありますし・・・」と言った時、橋本先生が「ときにはそのプライドも納めなければいけないことがあるのよ」とおっしゃった一言だった。自分たちのミスで負い目を作りたくないという思い上がりが、稲妻に打たれた如く打ち砕かれた一瞬であったと思う。(記録者:T.W.)
5/8 ウィーン四日目
ウィーンの日曜日
午前中はオペラ座の見学に行きました。日本語のガイドツアーが午後3時からしかなかったので、午前10時からの英語のガイドツアーに参加することに決めました。ツアー開始まで少し時間があったので、近くのザッハーのお店へ。お土産にザッハートルテを買いました。ケルントナー通りを少し歩いてから、時間になったのでオペラ座へ戻って見学。約40分のツアーで、ロビーや広間、客席のほか、「魔笛」を準備中の舞台裏まで見ることが出来て満足でした。見学後は音楽ショップでお買い物。オペラ座を出てからひとりお土産探しをしました。日曜日でどこもお店は閉まっていたのでホテルのショップにねらいを絞って当たってみることに。何軒かまわって素敵なお土産を買うことが出来ました。
Schottenkircheのミサに参加
午後3時からはショッテン・キルヘでミサに出席することになっていました。修道院850年の記念ミサのため、教会は既にたくさんの人でいっぱいになっていました。ミサでは、前日ノイブルクの修道院でグレゴリオ聖歌の貴重な写本を見せてくださったカインツバウアーさんが指揮する合唱団の奉唱がありました。ハインリヒ・イザーク、ハインリヒ・シュッツ、アントン・ブルックナーの曲が歌われました。配られた式文にはグレゴリオ聖歌が印刷されていたのですが、ミサに出席していた人たちが、その楽譜を見て当たり前のように歌っていて、これには驚かされました。ウィーンの人たちはみんな4線譜が読めるんですね。すごいです。私達は、お隣のご婦人に「とても綺麗なお声ね」とほめられてご満悦でした。
ミサの後、教会前の広場では、ビールとソーセージの無料のパーティーがありました。他にもジュースやケーキ、ハンバーガーなどもあって、皆思い思いに飲んで食べておしゃべりして、パーティーを楽しみました。
左:Schottenkircheのミサに参加、右:教会前の無料パーティ
旅の締めくくり…ウィーン料理で晩餐会
夕食までのしばらくの時間、ホテルに帰って休憩。夕食はウィーン料理のレストランへ行きました。お食事をいただきながら、旅行会計のお金がスリ被害に遭ったことについて、その穴埋めをどうするかが話し合われました。一緒に旅行しているのだから共同で責任を負いましょう、という意見が多く出て、参加者全員で等分に負担することになりました。ウィーン最後の夜は、皆さんの温かい思いで充実した夜となりました。 (記録者:Y.N.)
晩餐会
5/9 ウィーンから帰路
ウィーン空港へ・・・予約したタクシーが来ない!
出発準備から色々あった旅行も、最後の日になりました。何人かは仕事の関係などで、一早くウイーンを後にしていました。残る皆は、長かったような、あっという間の旅行のことを思いながら最後の晩をウイーンのホテルで過ごし、9日は最後の朝食を摂り、タクシーでウイーン空港に出発です。前日にホテルでタクシーの手配を確認していたし、空港まではそう遠くないと聞いていたので大丈夫と安心していました。
が、まだ小事件が待っていたのです。頼んでいたタクシーが3台。このタクシー、ハッキリ断定はできませんが、日本式に言ったら白タクに近い感じがします。手配師風の、顔つきとファッションはどこから見てもイタリア系そのものみたいなオヤジが(このオヤジも運転手の一人)携帯で連絡を取っているのですが、最後の一台が来ません。「どうなっているの?」と訊くと、「すぐ傍まで来ているから安心して」みたいな返事。でも、そのオヤジが、中身は分からないけれど(ドイツ語は丸で分からない!)、何度も、到着しないもう一台の運転手に電話して「どうなってんだ!?」と詰問しているような電話のトーンを聞けば、中身は分からなくても「何かあるな」と思うのが普通。
馴れない土地での、しかも日本へ帰る日。時間は相当余裕を取っておきたい。空港に着いて、即、飛行機に乗り込むような感じではなく、少し時間があって、ウイーン空港の中を散歩したり、お土産を買う時間だって欲しい。ニューヨークやパリ、ロンドンならまだしもウイーンだもんね、もしかしたら、「さすがウイーン!」と唸りたくなるような洒落た品物があるかもしれないし、と思ったり。
それでも無事に空の上に・・・
結局は、それなりの余裕をもってウイーン空港に到着し、また、思い思いの時間を過ごして機上の人になることができました。後は、フランクフルトから成田行きのフライトに乗り換えて、帰国です。満員の座席にもすっかり馴れてしまいました。でも、あの狭い旅客機が満席というのは本当に狭苦しいし、キャビンアテンダントの苦労を思ったりして、成田に着いたのでした。 (記録者:N.A.) |
ポーランドとチェコの国境
この旅最後の朝食
最後のトラブルを乗り越え(?)無事帰路に
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