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第55 回定期・慈善演奏会では、J.S. バッハとその弟子・アルトニコルとホミリウスの音楽を取り上げます。スコラが前回バッハを歌ったのは2010年第52回定期のマタイ受難曲でした。その後、第53回ではビクトリアとドイツロマン派、第54回ではパーセルとシャルパンティエをとりあげ、バロック音楽の幅の広さや豊かさを実感してきました。
今回のインタビューでは、一般的には「音楽の父」と称され、「巨匠」のイメージでとらえられることの多いJ.S. バッハや、その弟子たちの実像や音楽について伺います。

☆ J.S. バッハは、巨匠? --- バッハの実像

——バッハといえば、なんといっても偉大な作曲家というイメージがありますし、息子たちも含め、多くの弟子がいたと聞くと、その生活は、きらびやかな感じを受けます。実際はどうだったのでしょうか。

実はバッハは、当時はそれほど有名人だったわけではありません。同時代の作曲家としては、テレマン(注1)のほうが遙かに高く評価されており、カンタータだけで3000曲、バッハの10倍以上作曲しています。これは、市の参事会など作曲を依頼する側、音楽家や演奏家などを雇う側(注2)が評価したということですね。その他にも、トマス教会でバッハの前任のカントールだったクーナウ(Johann Kuhnau, 1660-1722)は、現在はあまり知られていませんが、素晴らしい曲を書いています。

注1. Georg Philipp Telemann, 1681-1767:ハンブルグで活躍。テレマンの場合はコレギウム・ムジクムからの評価が高く、多くの作品を残した。
注2. 当時のドイツでは、宮廷が宮廷音楽家を、市議会や参事会が教会カントールやオルガニスト・町楽師を雇っていた。

バッハは職業生活の点では、決して恵まれておらず、作品をいろいろなところに提出し、雇ってもらえるところを探すなど、就職活動をしています。最初はケーテンやワイマールなどの町に行っていますし、ドレスデンの宮廷に仕事もらいに行って断られたこともありますね。そういう意味では苦労人ではあると思います。1723年のトマス教会のカントールへの就任も、招聘されたのではなく、いわゆる就職・求職活動をして、オーディションを受けて採用されました。その時に提出したのが、カンタータ22番と23番ですね。就任時には、毎週カンタータを書く、なんらかの行事の際にはそのための曲を書くなどの契約を結んでおり、自由な作曲生活という点では、制約がありました。これらの契約上の条件や賃金は、それほど良くなかったはずです。賃金交渉している資料も残っていますし、トマス教会の給料明細などの資料からも、特に恵まれているわけではないことがわかっています。ですから、ものすごい高給取りで、当時から神様みたいに扱われたり、弟子が門前列をなすという状況ではありませんでした。

——J.S.バッハのお父さんも音楽家ですよね。バッハ家って地位が低かったんですか?

いわゆる普通の職業音楽家です。父親も宮廷の音楽家じゃないですし、バッハ自身も大きな都市のカントールとかやっていたわけじゃないですからね。

——そういう意味では、ライプツィヒという町がどのくらいの町だったのか、ということも関係しますね。バッハの時代は、ライプツィヒは三十年戦争の混乱を抜けて、商都として発展しつつある新興の都市でした。もうすこし北のハンザ同盟の町か、そうでなければイタリアに近い南ドイツの方が町としても成熟していて、人も集まるし文化的にも中心になっていました。

音楽としてもそうですね。ライプツィヒは、今となってはバロック音楽の聖地みたいになっていますが、当時は事情が違っていたでしょうね。

——教会のカントールの社会的地位はどうでしょうか。

音楽家としては、宮廷音楽家がいわゆる上流階級で、次が教会のカントール、その次にオルガニストということになります。でも、カントールとオルガニストは兼任が多いです。

——毎週カンタータを書き続けると聞くと、職人さんというイメージが近いのかしら。
——そうでしょうか・・・バッハは、自分の作ったメロディーの中で気に入ったものを繰り返し使っていますね(注3)。あれも、自分の曲に自信というか、思い入れがないとできないことだと思います。決して書き散らしたわけではないという感じがします。その意味では、職人というよりアーティストなのかなと。

バッハは、自分のメロディーを、良い意味で使い回していますし、そのようにして構成した楽曲を献呈したりしています。もともとのカンタータのメロディーのテキストを変えて、テーマだけ残して変更して、とか、ちょっと楽器の編成をいじって華やかに聞こえるようにかえたものとか。沢山ありますよね。そういう意味では、一曲に対する思いは様々でしょうね。それだけ自分が昔作ったカンタータに思い入れがあるのかもしれませんし、思い入れのあるものは転用して残しているのかもしれないです。

いずれにしても、バッハのメロディー転用術は、素晴らしい。クーナウのメロディーを使いオーケストレーションしたモテットも書いていますが、素敵な曲です。

このメロディーの転用が、職人としての側面を表しているのか、それともアーティストとしての面なのかは、解釈が必要でしょうし、曲によっても違うかもしれません。まあ、いずれにしても、根っからの職人だったら仕事を放りだして(注4)旅に出たりしないでしょうね。でも実際にはブクステフーデのところに行っています。飛行機なんてない時代にちょっと行って帰ってくるっていう距離じゃないですね。といっても、礼拝で奏楽をする義務感みたいな感覚はあったと思います。

注3. 例えば、1730年台後半の作曲とされる小ミサでは、カンタータのメロディーがたくさん転用されている。第50回演奏会で取り上げたカンタータ179番(siehe zu)とG-durミサもそのひとつ。また、h-mollミサのGloriaはカンタータ197番、Crutifixはカンタータ12番のメロディーを転用しています。その他にも、宮廷のソプラノ歌手であった2番目の妻アンナ・マクダレーナ(Anna Magdalena Bach, 1701-60旧姓ヴィルケWilcke)のために、カンタータから、彼女が練習しやすいように、組み合わせたり作り替えるなどしてまとめた曲集がある。
注4. アルンシュタット新教会(現在のバッハ教会)オルガニスト時代に、当時リューベック(バルト海に面した北ドイツの都市)で絶大な支持を受けていたブクステフーデ(Dieterich Buxtehude, 1637-1707:リューベックのマリア教会オルガニスト)の音楽に触れるため、4週間の休暇を申請し、実際には4か月リューベックに留まった。勉強だけでなくアルンシュタットの政治的混乱、聖歌隊との不和などから逃れる目的もあった。

 

(コラムー1)バッハは、子だくさん?

J.S.バッハは、生涯で二人の女性と結婚し、20人の子供をもうけたと言われています。その中で成人したのは、5人の息子と4人の娘。当時の基準から見て多いかどうかは、はっきりしませんが、二度目の妻は19年間に13人の子供を生んだ記録が残っています。バッハ家では、J.S.バッハの前後2世紀半の間に、約60人の音楽家を、輩出したことから、遺伝学的な研究の対称とされたこともあります。もちろん、全員が音楽家として大成したわけではなく、息子たちの中で、音楽家として有名なのは、以下の三人。ちなみに、アルトニコルは、二番目の妻との娘(エリザベート・ユリアーネ・フリーデリカ)と結婚しています。また、現在は大バッハといえばJ.S.バッハですが、J.S.バッハの死後、大バッハと呼ばれていたのは息子のC.P.E.バッハだったそうです。
○ヴィルヘルム・フリーデマン(1710-84)ハレのバッハ。父の自筆譜を散逸。
○カール・フィルップ・エマヌエルC.P.E.(1714-88)ベルリンのバッハ。
○ヨハン・クリスチャン(1735-82)末子 ロンドンのバッハ。モーツァルト少年と親交があった。
息子以外の弟子の中には、今回の二人の他にも、ゴルトベルク変奏曲の名前の由来となったJ.G.ゴルトベルク(1727-56)、J.T.クレープス(1690-1762)とJ.L.クレープス(1713-80)親子、相続の結果バラバラになってしまったバッハの楽譜をベルリンに集結させようとしたJ.P.キルンベルガー(1721-83)らがいます。また、H.N.ゲルバー(1702-75)のようにその息子が音楽辞典を編纂してバッハの授業の様子を伝えている人もいます。

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バッハ家の系図。中央少し右にJohann Sebastianがいます。人数が多すぎて……文字が小さくなって読みにくいですが…

 

☆バッハの音楽 : 時代性と先進性

——ということは巨匠のイメージは後世の人が作り上げたものということになりますか。

「作り上げた」ものかどうかはすごく難しい問題です。実際、バッハの音楽は良くできてます。もしかすると、バッハの曲が後の時代の人や現代人に訴える要素をもっていたということなのかもしれません。当時の普通の人、例えば参事会のメンバーとか音楽をやってない人にはうけなかった、理解されなかったけれど、後の時代に、実際に音にしてみると「おお~」って思う部分が多いということなのかもしれません。

——バッハの音楽のどういう点が後の時代の人に訴えたのでしょうか。

これは、なかなか難しい問題ですが、バッハは、彼自身の思っている事を、音符に表すこと、音だけでなく見た目で楽譜に上手く残すことが出来る人ですね。マタイ受難曲でも一部を赤インクで書いたり、言葉と音符を上手く工夫して十字架を楽譜上に作ったりしてますよね。あるいは、パッサカリア(注5)では修辞学で自分の名前がBachだから14回繰り返すとか。そういう意味ではすごく頭が良い人だったのでしょう。もしかすると、当時に受け入れられなかった理由は、頭が良過ぎたのかも知れないですね。バッハが表現しようとしたことが、すごく崇高過ぎてというか、感じたものがでかすぎて、実際の作曲の際には更に大きいものを作ろうとし、全てを詰め込んだ結果、当時にはその曲が大き過ぎ、複雑過ぎたのかもしれませんね。

注5. passacaglia(伊):バロック時代によく使われた形式。荘重な3拍子で固執低音といわれる4小節か8小節の短い旋律が繰り返され、上声部で変奏が行われる。シャコンヌと同一視されることがある。

——楽器が未発達だったとか?

そうですね。あと、テクニックの問題もあると思います。

——普通のミサにh-mollミサは使えないですよね。

実際、使っていません。彼はh-mollを仕上げていません。時代の違う作品をくっつけただけで、KyrieとかGloriaは王に献呈しようとしてうまくいかなかったものです。晩年の作品と言われていますが演奏する機会がなかっただけです。その中でもSanctusをすべて3で作っていますね。オーボエも三本要る訳だし、ヴァイオリン・ヴァイオリン・ヴィオラもそうだし、歌も自筆譜だとSSS/ATBの組み合わせで三声ずつになってるなど、数字に拘ってるところがあるみたいですね。あとは調号の使い方もそうです。受難曲だったら♯(クロイツ記号)の使い方とかにも、こだわりが見て取れます。これらのことを、バッハは全部感覚的に作れていたのだと思うんですよね。

——全てを感覚に従って作っていて、それを後世の人が見たら「仕掛け」が浮かび上がってきたっていうことになりますか?

そういうのもあると思いますよ。バッハが本当にそこまで考えて作ったか分かりませんけど。こういう話をすると雅明さん(注6)は絶対にバッハは考えていたと言いますね。意図してそういう風に作っているって。でも、そうじゃない可能性も勿論あると思うのですよ。

注6. 言わずとしれたBCJの音楽監督、鈴木雅明氏。日本人初のバッハメダルおめでとうございます。

——当時の人にはそのあたりは通じていたのでしょうか。

私は理解されてはいなかったと思っています。彼自身が、カンタータの演奏をしていた時の演奏者っていうのは、教会の聖歌隊で子供ですし、それだけのテクニックは持ち合わせていないはずです。バッハが表現しようとして、楽譜に盛り込んだ内容を再現する能力をもった人たちではなかったということです。その他にも、曲に対応しうる環境は無かったと思いますよ

——再現芸術の宿命ですね。でも、分かる人が誰もいなかったのですか?

いないわけではなかったと思う。そうでなかったら雇われていません。ただし正当な評価を出来る人がどれだけいたかは、大きな疑問を感じます。

——今回のJesu meine Freudeが何故シンメトリーに作られているのかというのが気になっています。

普通に勉強するときにはシンメトリーって習いますね。ですが、私はあまりそう思っていません。内容的にはシンメトリーにはなっていませんし、見かけだけだと思います。本当にシンメトリーというなら、Gute Nachtの扱いがよくわかりません。意味もなく加えてはいないと思います。あえてバランスをくずすために入れたのだと、私は考えてます。あれだけ四声ですからね。ベースがいない、コンティヌオがいない訳ですからね。そういう考え方もある訳です。

——他の曲にもそういう傾向はありますか?構造分析みたいなことすると私達でも目に入ること結構ありますね。バッハは本当に意図して型にはめるのが好きだったのか、それともはまりそうだけどちょっと違うという風にしたい人だったのか、どうなんでしょう。

明らかにヨハネ受難曲はシンメトリーにしようと思ってますよね。しかもシンメトリーを入れ子構造に作っています。カンタータに関しては、例えば1725年か26年かにコラールカンタータを作り出すんですね。必ずどこかのパートにコラールがあるという。それが、一時期中断します。おそらく、通しで書きたかったんだけど書けなかった。その分を晩年(1741年か42年)に書いています。それによって、コラールカンタータとして有名なコラールを網羅したことになるんですね。そういうことはすごく考えています。決して作品を書き散らしていたわけではなくて意図的にやっているとしか考えられないですね。感覚的な部分と、その裏付けとして計画的に書くっていう両面を持ち合わせていたと思います。そういう意味でも、先ほどの職人仕事人としての面と、アーティストとしての面のような、あるいはこの二つの要素には括れない多様な側面をもっていると思います。

あと、Jesu meine Freudeは何でアルトだけ歌い続けさせるのかっていうのが不思議!他のパートには必ず一曲は休みがあるのにアルトだけはずっと休みがないですね。どうしてだと思いますか?みなさんも考えてみてくださいね。

 

☆対照的な二人の弟子・・・アルトニコルとホミリウス

——お話の中から、現在の私達がもっている華麗な音楽一家の長、あるいはたくさんの弟子を抱えた巨匠としてのイメージが、実像とはかけ離れていたことは、だんだん分かって来ました。とはいうものの、バッハの弟子たちって、たくさんいますよね。弟子たちは何をしていたのでしょうか。

一言で弟子といっても、息子たちを含め、「習っただけ」の人や、アシスタントのようなことをしていた人などその関わりは様々です。どこまでを弟子とするのか、またバッハ自身が弟子だと思っている人がどれだけいたかということでも、変わってきますね。

弟子たちの仕事としては、楽譜の清書があります。当時、弟子として勉強すると言うことは、パート譜やスコアを写すことでしたから。また、当時の楽譜は弟子が写したものしか残っていません。当然写し間違いもあり、その写し間違いが誰のものなのかも研究の結果わかっているものもあります。

—でも、写すっていうことは写経でもそうですが、書いてあることをそのまま写さなければいけないものでしょう、判断することなんてあるかしら。あっ、あの汚い(笑)字や音符の楽譜では「これは何の音なんだろう」とか迷うことはありますね。

そうです。それで、「これはバッハが間違って書いた」って判断して直す人もいるわけです。それをさらに現代人が、出版する際にも修正していきますので、校訂報告が付されていくことになります。
そのような写本づくりや清書などの作業を主としてやっていたのが弟子や息子たちです。娘婿にもなったアルトニコルは、バッハの妻であるアンナ・マグダレーナと一緒にクラヴィーア曲集2巻を編集するなど、いろいろ携わっていたはずです。

この点では、同じ弟子でもホミリウスとアルトニコルではバッハとの関わり方が全く違います。
アルトニコルの場合は、弟子というよりアシスタントみたいな感覚でしょうか。バッハに愛されていますね。身内(娘婿)だし。バッハは、死ぬ間際に最後に作曲したコラールを口述筆記で楽譜にしてほしくてアルトニコルを呼んで楽譜にさせと伝えられています。その意味でも、バッハとの距離感はすごく近いのだと思います。

それに対して、ホミリウスの方は、「鍵盤の運指などを習いに来た」ということでしょうね。何年か習ってドレスデンに帰ってしまいますから。ホミリウスはドレスデンで、J.G.シュテープナー(注7)に習っていて、バッハの所に移ってきましたが、作曲家として、特に声楽関係で、当時すでに評価されていました。聖十字架教会の聖歌隊のために書いた曲が評価され、当時の新聞などに批評が掲載されています。その後、1742年には、ドレスデンの聖母教会のオルガニストの地位を得てドレスデンに帰っています。さらに1755年には聖十字架教会のカントールに就任しました。また、ホミリウスが活躍したドレスデンは、宮廷がカトリックで、当時のドイツの中では異色の都市ですね。その中で、ホミリウスは改宗すれば宮廷音楽家のチャンスだってあったにもかかわらず、ルター派を貫いています。

注7. J.G. Stubner:ドレスデン聖アンナ教会オルガニスト

一般的には、ホミリウスという作曲家がバッハの弟子であるという認識を持っている人はそれほど多くないと思います。バッハとの関係は、情報として一面に出てくるというより、よくよく調べていくと、ああ、バッハに習っていたことがあったんだ、という感覚です。

——そうすると、ホミリウスはバッハから何を習ったのか、いや、何を得たのでしょうか。

それはすごく技術的なことが多いのじゃないかな。曲想の作り方ではなくて作曲技法とか対位法の使い方、鍵盤奏者としての運指の方法や弾き方とか、今なら教科書を使って勉強するようなことを習ったのがホミリウスで、感覚的なことを習ったのがアルトニコル。当時は教科書とかもそんなにしっかりしたものがあったわけじゃないですから。ちなみに、アルトニコルの当時の評価は、私はよく分かりません。資料もあまり残っていないようですね。

——その意味では、ホミリウスの方が、パーソナルな関係というよりも、ある種純粋にバッハの音楽や技術から影響を受けた、それらのものを消化してその先に進んでいったと言うこともできるかもしれませんね。

 

☆二人の弟子の音楽

——練習で歌ってても、ホミリウスはきれいな曲だなって思いますが、正直、アルトニコルはあれ……?って思っちゃうところがあります。
——ホミリウスはバッハとは違う独自路線というか、とても現代的な感じがします。転調が多いところなどは、歌っているうちに無調の曲を歌っているような感じがしておもしろいですね。そういうのはバッハとぜんぜん違う感じがします。

ああ、そういうところは、バッハにはぜんぜん無いですね。私は、ホミリウスは、大股で「ざっくざっく」歩いている感じの音楽、それが転調につながるとおもいます。それに対して、アルトニコルの方が、歩幅が狭い。ちまちま小股で歩いていたのかも?

——二人に会ってみたい〜。

いずれにしてもこれまで歌ってきた回数がバッハとは、まるで違いますので、その分いろいろな解釈ができそうです。

 

(コラムー2)バッハの音楽は、ヘビメタ??

(インタビューの中では、こんな話も・・・)
バロック音楽は、音の作り方、演奏の仕方の点で、ヘビメタとの共通点を感じます。

—ジャズのセッションではなくて?

音の大きさではなく、音の多さ、プレイヤーの距離などの点です。ジャズよりヘビメタでしょう。

—時空を超えていますね。ちなみに、ラップは中世的ですよね。小節線にとらわれることなく、自由に語って大事な言葉は長く延ばしてます。

まさに聖書の朗唱のようですね。それが平行に動いて、ずれて動いて、ポリフォニーになるのでしょう。

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☆今回のプログラムとスコラの課題と今後〜

——スコラが、今回のプログラムへの取り組みから得られるもの、そして課題などをおきかせください。

まずは、一人一人が演奏会、プログラムと向き合うにあたって何かを見つけるということができると良いですね。そしてその上で、ここだけは絶対だれにも負けないで歌える、歌いたい、という気持ちがあると良い。この三人の作曲家は、いろいろな意味で繋がっている人たちなので、例えば、アルトニコルは繋がりが深い。作り方が明らかにバッハを意識している部分が多い。ホミリウスは少し違う。あるいは、バッハと違う部分が多い。和声の使い方は似ているところが多いし、作っている対象は同じ聖歌隊が多い。という形で、とにかく、違いなり、同じにおいなり、皆さん一人一人が香りを掬う、見つけることができると良いですね。

二人の対照的な弟子が、それぞれのやり方で、師匠の先に行こうとしたり、師匠にできないことをしようとしている箇所があると思います。それを、自分たちなりに、それぞれが感じ取り、ここはちょっとバッハと違うかもとか、バッハの真似をしようとして失敗してるのではとか、あるいは現代人からみて、アルトニコルやホミリウスが、バッハより受けない理由はこのあたりのこの「ださい」ところかもしれないとか、バッハだったらここはもう少しこうするとか、なぜここで止めちゃったのかしらとか……なんでも良いので、一人一人が感じることができると良いですよね。

私も自分が思ったことは言っているつもりです。それ以外にも、う~ん?と疑問を感じたり、発見したりしてください。

——見つけたら、自分の好きに解釈して歌って良いのかしら(笑)

それがわかるようにやっていただければ(笑)、こちらはそれを採用して、どういうふうにやっていけば表現できるかを考えられますし……。

もちろん、歌で表現・主張するのには、技術が必要ですので、できなくても、言葉で言ってもらっても良いですよ。この1小節は、こう思う、このフレーズはこう思うなど、練習の時に主張してくるのでも良いし、団員同士で話しあって仲間をみつけて言ってくるのでも良いですし。それが私にとって大いなる発見であれば、私自身もうれしいし。それに対して、私の反論もでてくるかもしれません。ただ、感覚的なものから発しても、なぜそう感じたかという裏付けはほしいですよね。

 

☆バッハの音楽の多様な要素と、弟子たちのメッセージ

今回のプログラムで、バッハとその弟子たちの音楽を取り上げることにより、バッハの音楽を固定的にとらえるではなく、そのイメージを広げ、多様な要素発見する機会になると良いですね。

——バロックから古典派にかけての作曲家たちは、実は年代的には近くて、実際に交流のあった人もいます。現代の視点から眺めるとものすごく離れて、違って見える人たちや曲が、バロックとか古典派とかロマン派とかいう枠を取り払って演奏してみると、実は近いところにいるのかもしれないと思っています。あるいは、近い者どうしの間での違いを感じることができるのでは、と考えています。そんななかで、弟子たちのメッセージをどうやって発見、表現したらよいのでしょうか。弟子といっても、師の単純な模倣者、劣化コピーではなく、それぞれの特徴を感じたいです。そういう意味では、バッハにも、ホミリウスに近いものがあるし、バッハの中にも多様な要素がある。普通は、なかなか触れることが少ない弟子たちの作品をこんな音楽もあったのだよ、と提示したいと思います。

古いものもできるだけ当時のそのままの形で、取り組むことにより、現代からのアプローチだけじゃないアプローチができると思います。これは、いろいろな時代や土地や国の作曲家を取り上げるという、スコラの他の合唱団にはない選曲上の特徴を、音楽を理解し演奏する上で、活かすことにつながりますね。たとえば、前回でも、シャルパンティエにしても、当時のスタイルになるべく忠実に演奏し、それがドイツに伝わるとどうなるかという視点をもつ。それに加えて、バッハだけじゃなくて、バッハの周辺、バッハの後を追いかけようとした人たちの音楽を、とりあげることにより、より広がりをもって音楽に取り組むことができますね。そしてもちろん、それをスコラとしてどうやって表現していくのか……ですね。そのためにはまず、同じところと違うところをみつけることから始めると良いでしょう。

 

 

☆編集後記

小学生の頃音楽室では、かつらを被っていかめしい表情のJ.S.バッハが、威厳たっぷりに私達を見下ろしていました。それになんといっても、「音楽の父」ですよ、「大」バッハですよ……。でも今回、対照的な二人の弟子との関わりを通じて見えてきた実像は、なんとも人間臭いものでした。そんな人間バッハの音楽が、弟子たちの音楽を通じて継承、変容・展開され、後の音楽家や演奏家たちに、大きな影響を与えました。彼の音楽にはそれだけの力(潜勢力)があったということですね。私達の演奏が、そういう一連の大きな流れの中に(端っこの端っこだけど・・・)あると感じました。
 四回目の直撃インタビュー。メンバーの半分が入れ替わり、これまでとは違った雰囲気でしたが、とてもとても楽しい時間でした。実は、ここには書ききれないこともいっぱい。次回は是非ご一緒にいかがですか? (Ma)

 

2012年6月

 

♪バックナンバー

第1回 ♪特別企画!青木先生直撃インタビュー!!
わたしたちにしかできないマタイ受難曲とは・・・

第2回 青木先生直撃インタビュー!!
ビクトリアとドイツロマン派にスコラが挑む!

第3回 青木先生直撃インタビュー!!
フランスの香りがする音楽とは!!?

 

 

 

 

 

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新メンバーが加わり、さらに楽しさがアップしたインタビュー。バッハのイメージ変わった〜〜!

 

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ドイツ全図(ライプツィヒは中央より東側に位置)

 

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ライプツィヒ時代のバッハ家の肖像画(といわれている)。左端がバッハ(デンナー筆、1730 年)

 

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こちらは有名なバッハの肖像画

 

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ライプツィヒ、聖トマス教会。傍らに立つバッハ像は1908年に完成という

 

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マタイ受難曲の自筆譜。これを清書する弟子は、大変そう……

 

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2012年に創立800年!を数えた、トマス教会合唱団。右は現カントールのゲオルク・クリストフ・ビラー氏

 

 

 

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