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ざっくばらん ゆき子のおしゃべりコーナー
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2002年1月24日

その1わたしの京都・1つの終り

晩秋の京都に行ってきた。日曜日の午前中 東京発のひかりは団体客,グループ客でいっぱい。賑やかな女性の声で全く 静寂とは程遠い。思えば,ここから すでに京都の混雑ブリは始まっていたわけだ。
楽しみにしていたお目当てのお弁当も「満席です」と断られ,それでも頑張って「最後の輝きをみせていた東福寺のもみじ」をラッシュアワーの電車のような人ごみの中で拝顔。
そして,もう時刻は夕暮れどき。「そうだ,あの白川のほとりだったら,夜になっても 風情があるし,,,」と思いたって京阪に乗った。
この祇園の繩手通りは,わたしにとって 胸のキュンとする一角である。白川という小さな疎水が流れていて,そのほとりには「かにかくに 祇園は恋し寝る夜も枕の下を水の流るる」と歌った吉井 勇の碑がある。
「この歌はね,,,」と教えてくれたのは,遠い昔,もう20年以上も前,,その人は大学の先輩。お互い仕事の都合をつけて 何度か 京都で会ったことがあった。そしてこの白川のほとりの小さな旅篭「清水房」を紹介してくれたのも この先輩だった。
たぶん 全部で5室くらいしかない,かってお茶屋だったという趣をそのまま残した宿。京都より大阪の仕事が多かったわたしは,それでも大阪の仕事の後に1泊か2泊して,,ひとりで京都を歩き回った。 夜は 疊の上で十分に手足を伸ばして,,,朝 絶品とうなりたくなる女将の「かぶら蒸し」を食べたものだった。ところが,鴨川が埋めたてられ京阪電車が地下に潜って,このわたしの大好きな「清水房」と鴨川の間に道路ができてしまった。もう10年?くらいになるかなあ。以前は 部屋のすぐ軒下に川とはいえないいくらいの水が流れていて,その脇をのどかな京阪電車が通っていたのだった。さらにその電車の向こうに鴨川がゆっくりと静かに流れていた。

1度だけ,この道路ができてから 泊ったことがある。そして それ以後2度と泊ることはなかった。案の定,部屋のすぐソバを走る大型トラックの車の音で眠れなかったのだ。とても好きだったのに,今だって好きなのに決してその人に近づかない憧れの人のように わたしは何時もひっそりと「清水房」の小さな看板を見るだけで「ああ まだ やってるんだ」とほっとしていた。同時に
「泊らなくなってごめんなさい,女将さん」という後ろめたさを持ちつづけていた。
この小さな旅篭が商いをやめていた。遠くない将来,建物そのものも消滅するだろう。いつものようにそっと,遠くから 目を凝らしてみると玄関の格子戸に何か 赤い紙がはってあるようだ。近づいてみると「水道 使用止め」の張り紙だった。格子戸はもう誰も入れないようにカギがしてある。あらためて,奥の黒々とした宿の建物を見た。すべての窓には木戸が閉められていて,明かに人の気配が消えて半年はたっている。「女将さんは どうしたんだろう?」「あれから,わたしが行かなくなってから,,,お客はきていたのかしら?」考えてもしかたがないことに,,,思いを巡らす。

こうやって 1つ わたしの京都が終わった。はじめて泊ったのは,たぶん26才頃。40才頃に伺ったのが,,最後かもしれない。それ以後 京都にくる度
「わたしは あなた(清水房)の姿をみていたのよ」
翌朝,仕事の前に早起きをして 八瀬の蓮花寺に向かう。
あまりの紅葉の美しさに泣きたくなるほどだった。
帰り,住職の奥さんから告げられた。
「先代の住職は今年のお正月で三回忌をおえました,95才でしたから」
蓮花寺の庭の由来を独特の語り口でお話してくれた方だった。

なんという偶然か。清水房と蓮花寺の住職と。
わたしの大好きなもの,が2つも,,,。
「ゆく川の水は絶えずして,,,」  なぜか脈絡なく,この一文が わたしの頭の中でリフレインしていた。


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