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2007年1月1日
3.中国・雲南省の旅から
2006年晩秋の頃7泊8日のパックツアーに参加。
雲南省の6000Mの山並みを眺めて、3700Mあたりを4日続けて、ハイキングしてきました。
疲れた!! ただし 参加24名のうち わたしがなんと最年少でした。驚き!!でした。
やはり数名 高山病になった方がいましたが、わたしは苦しい中でも乗り切り、日頃の高尾山のせいかな、、と。
1 格差
実は 今から30年ほど前、小さなコンサルタント会社に入社したばかりの頃「会社の社員旅行」で香港と中国の広州に行ったことがあった。1970年代の後半で、景気のいいときだったから。
そのとき、一番衝撃をうけたのが香港と広州の差だった。建物・食べ物・人々の格好など。今回はその広州から飛行機で雲南省の麗江まで飛び、さらにそこからバスで数時間山奥の街まで入った。都市と田舎の差は、かって受けた衝撃と同じものだった。観光という産業が、たぶん数年のうちに田舎の風景を変えてしまうかもしれないが、格差は歴然とある。
そしてまたその格差はかっての日本もあったこと。わたしが子供の頃、感じていた東京と田舎の違いと似ている。人々の暮らしを垣間見て、妙に懐かしさ覚えた。
【写真:シャングリラの郊外 少数民族の少年と】 |
2 トイレ事情
格差の最も顕著なもの、トイレである。もちろん、私たちの泊まったホテルは問題ないが、バスでどんどん田舎道を進むにつれて、トイレもどんどん原始的になる。
「あと、2時間半はトイレがありません」と言われるといやおうなしに、済ませておこうとトイレを使うことになる。たいていが1元。(日本円で15円程度)有料といっても、そこは男女別ではあるが、3−7個の穴があいている板の部屋? しきりがあればましな方だった。
最初は参加メンバーに抵抗感があったが、しだいになれて「ここは綺麗だから ましよ」とか「最悪」とか軽く話題になるようになった。
遠い昔、大学進学のため上京して、初めて<洋式>のトイレを使って「ラクだなあ」と思った。まだ実家は、ほとんどの普通の家は<和式>だったから。
3 プロ意識を考えさせられた、ガイドさん
今回の旅のガイドは30代半ばの男性Sさん。キャリア10年というベテランといってもいいのだろう、参加メンバーは60代70代が中心、そして80代(大正生まれの男性もいた)もいて、それこそ「かゆいところに手が届く」ケアで ビックリした。
「好きでなくてはやれない」過酷な?仕事ではないかと思う。一人ひとりに目配り気配りを常にしている。
具体的には、ホテルにチェックインして各人が部屋に入ってしばらくすると必ず「問題ありませんか?」と電話がきた。「シャワーでお湯がでません」というと、すっ飛んできてくれた。「24時間営業ですから、いつでも部屋に電話ください」と言う。
当然といえば当然なのかもしれないが、見ていて正直なところ「ここまでやるか」という気分になった。
海外旅行が我々日本人にとって珍しいものではなくなってきた。と同時に「お金と時間をもっている中高年」は今後一層ものすごいお得意さまになっていく。とすれば、ますます「いたれり、つくせり」型のサービスが求められていくのだろうか?
プロ意識の権化みたいなSさんだった。
【写真:夜の食事のスナップ】 |
4 メンバーから見た“わたし”
中国の最初の夜、食事のとき参加メンバー24名の簡単な自己紹介場面があった。どうやら一番私は若いかな!?と。他は60代70代のご夫婦が中心。あとは山が好きな女性の2人組、と男性と女性の個人参加。
どうやら相当わたしは、若く?見られたらしい。その根拠は「わたしに対する言葉使い」にある、平たく言うと「口の利き方」というべきか。
<エピソードその1>
3日目の朝、お腹が痛くなった。毎日脂っこい中国料理で体が反応したのだろう。「ちっと お腹が痛くなったので、、」とうっかり口をすべらせたら、、大変な質問攻め。それは主として、親切な?おせっかいな年上のおばさまからであった。
「どういう風に?お腹が痛いの」「薬は飲んだの?」「その席は酔うから、こっちにきたら、、?」「梅干を食べて、お茶を飲みなさい。梅干は持ってる?」
ついに「もう薬を飲みましたから、私のことはほっとおいてください」と言ってしまいました。
あまりのわたしのきっぱりとした言い切りに、、、みなさんビックリした様子でした。
「はっきりと断わる」これはアサーションの原則です。
<エピソードその2>
「あんた、何か商売している人でしょ?何をしてるの?」と60代後半のおばさんに問われて、こちらがびっくり。「声が綺麗だし、何かしている人だよね」と断定されてしまいました。
ということを一人参加の女性に話したら「それはね、あなたは水商売の人と思われたのよ」という返答でした。この女性はどうやら、かって学校の先生だったようですが。そして彼女自身も内心はわたしの職業に興味深々のようすで、顔を覗き込んできました。
水商売―というのも何となく懐かしい言葉です。これも立派な仕事と私は思います。
おそらく一人で参加して、誰とも平気で話す私は、その場の女性たちから見たら<商売をしている人>に見えたのですね。
このように、「一体わたしは他の参加メンバーからさて、どう写っていたのか」と考えるとなんとなく楽しい気分になりました。
旅の最後近く、同年齢の女性と親しくなりました。その人いわく「だって、普通の専業主婦はそんなマニキュアしてないもの」と。
旅の間、わたしは大好きなアイスブルーのマニキュアをしていましたから。
【写真:3人ー6740Mの梅里雪山をながめて(展望台3000M)】 |
5 梅里雪山
意外とこの名前を知っている日本人が多いですね。
私は「そういえば、どこかで耳にしたようなー」という程度でした。
標高6000M、まだ未踏です。
1992年に、日本の京都大学の学生と中国の合同登山隊が登頂を試み、頂上500Mのところで雪崩に会い、17名全員が遭難しました。
折りしも、その姿を見ようと山の麓まで行ったとき、日本人のある一行と出会いました。
あとで ガイドさんから聞いたところによると「あの方々観光客ではなく、当時遭難した人の遺族の方々です」ということでした。毎年、慰霊のため訪れ、今年は慰霊碑をたてたそうです。そして 毎年 その村に寄付をしているということでした。
17名の遭難者のうち、14年を経た今 たった一人だけまだ遺体が見つかっていないそうです。
見上げれば、本当にすぐ手が届きそうに、その山は真っ青な青空を背に輝いていました。おそらくみんな若い学生だったのでしょう。その肉親のお気持ちを思って、胸が痛くなりました。
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