2010年9月1日
3. 2組の“父と娘”
真夏の京都に行った。もう何十回と旅している京都で始めて「1日観光バス」に乗ってみた。あまりの暑さで自分で行動するという回路が停止になったから。そこで対照的な2組の親子を観察した。2組とも「父と娘」たぶん、どっちも実の親子と思う。「お父さん」と40がらみの娘からよびかけられていた男性は70代の半ばか。
一人はおとなしい男性。最初はバスのわたしの隣の席に座っていた。前列の席に娘が二人。けたたましい、にぎやかな娘たちだった。ガイドさんが「たぶん、もうお客様は来ませんから、あいている席はご自由にお使いください」といったとたん、さっさと自分たちは空いている席に移動して「お父さんもモタモタしないで、空いている席に移りなさいよ」と促す。それでもわたしの隣の男性は動かないので、通路側にいたわたしが「あのーわたしが 後ろへ移ります」と一番後ろの座席に動いた。その間、“お父さん”は 終始無言。
まともだなあーと思ったのは最初の観光スポットでこのにぎやかな娘の一人が「先ほどは席を移っていただいて、ありがとうございました」と、挨拶してくれたこと。
二人目は一番後ろから2つ目の座席にいた男性。つまり、わたしが座った座席のすぐ前にいた。驚いたのは、2人分の座席を独占したのをいいことにこの座席の窓側に寄りかかって、通路側に自分の足を投げ出してブラブラさせて座っていたのだ。つまり、その真夏の汗臭いソックスの足はちょうど私の目の前にあったのだ。
ここで ちょっと意外だったこと、否 意外を通り越して腹立たしく思ったのはその光景でも何も言わない娘の存在。その女性は通路を隔てたすぐそばの席に座っていた。わたしが娘だったら「お父さん、みっともないから 恥ずかしいから そんな格好やめて!!」と言っただろうにと思った。こちらの“お父さん”は関西弁で娘にもざっくばらんに話しかけていた。この娘はむしろ、おとなしいといっていい。必要以上に話もしない。バスが移動している間、常に携帯電話を触っていた。
今 年上の友人たち(みんな70歳近いのだが)と読書会をしていて「老いのかたち」(黒井千次 著・中公新書)を読んでいる。中でも「衰えを受け入れる気品」という一文に惹かれた。その文章はーふと見かけた人の姿が目の奥に留まり、いつまでも消えないことがある。−という書き出しで始まっている。喫茶店で、公園で見かけた二人の老人の気品ある姿を抑制した文章で描いている。
いつかこういう老人になれるのかー他人事ではではなく、わが身を振り返る年齢になったのだ。しかし、まだどうやらわたしは“お父さん”よりその場の“娘”のふるまいのほうに、強い関心をもってしまっているのだ。
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