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ざっくばらん ゆき子のおしゃべりコーナー
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2014年1月1日

5.衝撃をうけた現代史の中の人物


 その1 杉原地畝     


 もともと名前だけは知っていた。第2次世界大戦のさなか、東ヨーロッパの小国リトアニアの日本領事館にいた外交官である。当時のソ連を経てアメリカへ脱出しようとするユダヤ人6000人のビザを発行した。
現在 私が教えているB大学でこの杉原地畝のドキメンタリー映画の上映と外務省の方の講演会があった。わたしが興味をもったのは、「なぜ危険を冒してまでこのような行動をとったのか」ということと杉原の戦後の姿だった。彼は自分の行動を生涯、声高に人に話さなかった。しかし、助けられたユダヤ人のなぜ?という質問に対して「人間として正しいことをやっただけだ」と答えている。


 外務省の方のお話では、外務省の資料室に当時繰り返し状況を述べ、ビザ発行の許可を求める杉原の電報が残されているということだ。もちろんこれに対して、その時の日本政府は許可しなかった。にもかかわらず、彼は自己の判断でリトアニアを去るその日までビザを書き続けていたのだ。戦後、彼は外務省から辞職を迫られた。それが彼の行動に対する懲罰的なものかどうか、記録には残っていない。晩年の杉原に対してお孫さんが「気難しい、口数の少ない御祖父さんだった」とドキメンタリーの中で語っていた。



その2 ハンナ・アーレント


 新聞の映画評でこの女性の名前を初めて知った。ある日、ふとパソコンを見て<岩波ホール>をたどってみたら「午前中がほぼいつも満員、当日の指定券を売り出すと30分で売り切れる」とあった。時計をみたら、なんとか間に合いそうだ。タクシーで乗り付けてその日の初回の上映を見ることができた。見渡すと観客は60代70代の中高年男女ばかり!!


 ハンナ・アーレントは第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出してアメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人である。若かりしときにドイツの大学でヤスパースやハイデッガーから哲学を学んだ。1951年にアメリカ国籍を取得して以後大学で哲学の教鞭をとった。彼女を有名にしたのは1961年イスラエルでアドルフ・アイヒマン裁判を傍聴してそのレポートをニューヨーカー誌に連載したことである。その集約したものは「イエルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告」となり、現代ではホロコースト研究の最重要文献のひとつである。
アーレントの思想を一言で表現することはできない。しかし次の内容は私にも、鋭くそしてストーンと胸に落ちてきた。


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「陳腐さ」は「凡庸さ」といってもいい。ユダヤ人大量虐殺の被告アイヒマンの言動や膨大な資料にあたったアーレントの行きついた言葉だった。
ナチズムが猛威を振るった15年間、暴力と殺人を実行した者は異常な人間でもなく特別な悪人でもなく、ごくふつうのどこにでもいる人間、陳腐で凡庸な市民たちだったのだ。
悪の根源は凡庸であるからこそ、いかなる体制の下でも繰り返し芽を出すだろう。誰もがアイヒマンでありえたし、あなたもまたアイヒマンであったかもしれないのだ。
<映画「ハンナ・アーレント」のプログラムより>

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映画「ハンナ・アーレント」オフィシャルサイト




<追記>
このHP作成をサポートしてくれている若い友人S・Yさんから原稿のやりとりしている最中、次のメールがきました。

「杉原地畝とハンナ・アーレントの原稿はたいへん考えさせられるものでした。
あらためて二人の人物に触れ、何度も鳥肌が立ちました。
ごく普通の人間が、地畝にもなりうるし、アイヒマンにもなりうる。
まだうまく言葉になりませんが、両者の違いのひとつに、“自分で考える”ことが関係しているのではないかと思いました。まだもう少し考えてみます。」

このように、私の文章を読んでくれる後輩がいることーー それが私自身にも大きな励みになっています。



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