2017年11月1日
1.ロシアン・ショック!!
「今はまだ話せない、なぜって まだ血が流れていてその傷口をふさいでいるところだから、、、」
実は今年の夏6月末からロシアに行ってきました。いつのもわたしなら、即HP上に写真や旅のエピソードを載せるのですが、それができませんでした。
ごく少数の友人にロシア旅行の件を伝えておいたので、旅の後「どうだった?ロシアは」と質問を受けました。冒頭の言葉はそのときの、わたしの返答です。
20代からいろいろ旅をしてきて、今回のような事件にあったのは生まれて初めてのことでした。大きな事件、トラブルが次から次へと起こり、まるでジェットコースターに乗っているような気分でした。
「忘れてしまいたい」という気持ちと、「伝えたい、書きたい」という気持ちが交錯してすぐには書けませんでした。秋になり、心の中の血も止まりました。
いくつかの、エピソードを紹介します。まさにそれはロシアン・ショック!!の連続でした。
@まるで難民キャップのようなモスクワ空港
A期せずして体験したモスクワの地下鉄と寝台列車
B血の上の教会にて
C地獄に仏
D誰も謝らない!?
ESさんの存在(総括)
@まるで難民キャップのようなモスクワ空港
今にして思えば、この旅のスタートから大きな“つまづき”があったのですが、そのときはまだ気づかなったのですね。「乗り継ぎ時間も3時間の余裕があるから」と呑気に構えていたのですが、なんと!!モスクワからサンクトペテルブルグの乗り継ぎ便に、乗り遅れてしまったのです。モスクワ空港の混乱・混沌の中で、時間の経過と共に、私も旅の同行者の友人Sさんもだんだんと顔つきが変わってきました。
まずロシアへの最初の入国ですから、パスポートコントロールへ。ここからすでにすさまじい喧噪です。ラインがあるのかないのか?でもいかめしい空港?職員が「外国人はこっちへ並べ」とかなりうるさい!?ロシア人のラインはすいすい進んでも、外国人ラインはその3倍くらい時間がかかっていました。もう荷物はとっくの前に出ていて、それを探すのにも一苦労しました。
そして、これからがもっと大変でした。まず空港内がやたら広い、英語の表記がない、英語を話せる人がいない。すべてがないないづくし。大きなトランクをもちながら私たち2人はまさに右往左往状態でした。
「ここだ」と思って長いラインに並んで、ようやくカウンターの職員にトランジットの件、チケット発券の件を訊いても「ここは違う、他のラインに並べ」とそっけない。こんなことが2・3回あって、時間は容赦なく過ぎていったのです。
―わたしたちが外国人だから??実はそうではないのです。わたしたちの周辺のロシア人さえも、空港?職員の応対の悪さ、非効率なシステムに、みな一応に腹をたてて殺気立っていました。そんな状態ですから、割り込みなどもザラ。ヒステリックな女性、大声で恫喝するようなやくざのような男性、それらを非難する人々。もしかしたら、これって難民キャンプ!?と錯覚するような状況だったのです。
こういう中に会って、忘れられないエピソードが1つあります。もう、乗り継ぎの飛行機には間に合わないことがクリアになった時、「<せめて、乗り継ぎ便に遅れたので今日中には行けないこと>をサンクトペテルブルグのホテルに連絡したほうがいいんじゃない!?」と同行のSさんへ伝えました。「そうなんですよね。でも現在、私の携帯は通じないので、、、。そうだー さっきから気になってみていたんですが、私たちの前のあの男性、、、ね。英語ができるようなので、私たちの事情を話して彼からホテルに連絡してもらえるように、頼んでみましょうか」となり、即 実行。
そしたら、彼は笑顔で快諾、この件は解決できました。彼自身も同じように長い長いラインに並んでいたひとりです。小1時間くらい、一緒にいたことになりますから、なんとなく彼も<この東洋人の女性2人組は?>と気になっていたのかもしれません。そう、長い時間(たぶん1−2時間)ラインに並んでいると、その一緒に並んでいる人々(ほとんどがロシア人!?)と、“共感”する感覚が芽生えてくるんですね。「全く、しょうがないわね、どうなっているの!?」という共通の思い・怒り・苛立ちが、仲間意識を作り出してくれたようでした。
その後、急展開があって 満足に彼にお礼も言えずにラインを離れてしまったことが今でも心残りです。
A期せずして体験したモスクワの地下鉄と寝台列車
モスクワからサンクトペテルブルグまで、思いがけず「寝台列車」で移動することになりました。予定していたモスクワからサンクトぺテルブルグまでの飛行機に乗り遅れてしまいました。それからの選択肢は3つ。その1−頑張ってその日のうちに移動する飛行機のチケットをゲットする。その2−ダメなら、飛行場近くに泊って明日朝の飛行機のチケットをゲットする。その3−いっそ、モスクワ市内まで移動して電車で移動する。
もちろん、はじめは<その1>を目指していました。が、時間の経過と共に「この混沌としたモスクワ空港脱出」のほうが、よりよい方法に思えてきたのです。
英語が通じない、チケットの購入が難しい、、、その焦りがどんどん大きくなってきました。
そして、なんとガイドブックを片手に市内まで移動。その後、またまた苦労はしたのですが飛行場の喧騒よりはまだましの鉄道のチケット売り場で<その日の最後の寝台車の指定券>を手にすることができたのです。
おそらく映画などで見たことがある人も多いでしょう。まさに期せずして、この電車に乗るために、モスクワの地下鉄にも乗ることができました。さすが、寒い国ですね。歴史を感じさせる地下鉄構内でした。地下もすごく深い、そしてエスカレーターのスピードがメチャ早いのです。構内の天井や壁は素晴らしい壁画がありました。さながら美術館のようでした。しかし、残念ながら地下鉄構内は撮影禁止区域。地下鉄構内を大きなトランクをひきずって右往左往、私はこの時始めて「ロシアに来たんだ」と実感したのでした。
真夜中近く23:00頃に寝台車は出発。わたしたち2人は2段ベッドの上、下はロシア人の若者(すこしだけ、英語が通じてホッ!!)と大柄のロシア人のオジサンでした。
しばらく下の2人はボソボソと話していましたが、いつのまにか、、、静かに。私たちも成田を出て以来、数10時間ぶりに足を延ばして眠りにつきました。
B血の上の教会にて
早朝、5;00頃だったでしょうか。サンクトペテルブルグに到着。ホームに降り立ったら、たった一人のタクシードライバーが呼び込み中。静かな朝の町を通り抜けて、予約したホテルに無事にたどり着くことができました。
こじんまりした小さなホテル、何よりも部屋の窓を開けたら川を挟んで、日本の国旗が見えるではありませんか。サンクトペテルブルグの日本領事館のすぐそば、ときいてはいたものの、こんなに直ぐそばとは!!−これが この後の大きなプラスになろうとは。
旅の始まりのそのときは夢にも思いませんでした。
忘れもしません。7月1日の朝、それまでの2日間サンクトペテルブルグの郊外の見どころを観光したので「今日からは市内を歩こう」と張り切ってホテルを出発しました。友人のSさんはそれまでも「ロシアは結構危険です、絶対にリックサックは前に抱えてくださいね」と何度も念を押してくれました。気を付けなければという意識はもちろんありました。が、どこかでそれまで、いろいろな困難な状況をなんとか切り抜けてきたーという自信?安ど感?隙?油断?があったのですね。ホテルから徒歩10分の最も有名な観光地<血の上の教会>が見えてきたとき、事件!!が起こりました。
おそらく時間としてはものの3分くらいだったと思います。
2人のロシア人の男、土産物店の売り子でした。まずちょっと先を歩いていたSさんに執拗に話しかけ、手にした何かを売りつけようとしたのです。上手に彼らを振り払ってSさんは先へ歩いていきました。
そして、次のターゲットはこの私でした。同じように正面から、横から2人がかりで売りつけようとせめてきました。「いらない。いらない」と手で振り払って、歩き始めて何か?違和感を覚えたのです。暑かったので首に巻いていたマフラーを外して背中のリュックにしまおうとしたときです。リュックの口がアングリとあいているのに気がつきました。
「しまった!、やられた!!」と気づいたものの、声が出ません。「Sさん!!」と前をいく友人に叫ぶのが精一杯でした。「あのときの平井さんの顔は真っ青でした」と後になって聴かされました。
領事館に行って事の成り行きを説明したら「それはまさしくプロの手口ですね。正面・横の他に、後ろにも仲間がいて気をそらしている間に、リュックからすり取ったんですね」ということでした。第3の男がいたなんて、全く気づきませんでした。
C地獄に仏
なんということでしょう!!嘆いても始まらないのですが、盗られたものは<パスポート・現金・クレジットカード・キャッシュカード>。いつもだったら、分散して持っているのに、この時に限ってー。「血の上の教会に入るときは、リュックからこれらの入ったポシェットを肩から下げよう」と思っていたのでした。そのポシェットごと、そっくりリュックからすり取られてしまったのでした。
「とにかくホテルに帰りましょう」というSさんの提案で、混乱した頭で部屋に戻りました。まずやるべきことは?−クレジットカードの差し止めを連絡することだー わかっていても、なぜか電話がうまく通じません。通じてもどこの国へ?かかったのかー英語も?ロシア語か?まあ、こちらが動転しているせいもあったのですが、時差の関係・言葉の障害・連絡先のあいましさで、、完全に差し止めができないまま、とにかく目の前の領事館へ行くことにしたのです。
ここで、まさに<地獄に仏>といえる人Tさんに会うことができました。開口一番「クレジットカードは、もう止めましたね」と念を押されました。「いえ、それが、、、」と口ごもったら「それが、まず最初にやるべきことです。今、ここから わたしが電話します。ただし、最終的にはご本人である平井さんがやってくださいね」とキッパリと言い渡されました。
ようやく通じたカード会社の応対者と私のやりとりです。「本日の何時ごろ盗られたのですか?」−「現地時間、7/1の朝10時過ぎです」「このまま電話をきらないで お待ちくださいね。――― すでにサンクペテルブルグで10:15から 支払いが発生しています。1回目―万円、2回目――円、 3回目○十万円です」− しめて80万円ほど、30分くらいの間にカードが使われていたのです。私は絶句!!「すぐに支払停止にしてください」とお願いしました。
領事館で出会ったTさんは、本当にプロでした。きちんとこちらの状況を訊きだしてそれからやるべきことを簡潔に説明してくれました。「できるだけ速やか帰国するための手続きを行います。まずはこちらで信頼のおける通訳を紹介しますので、この方と警察に行ってポリスレポートを作成してもらってください。その後 写真を撮って、また領事館へ帰ってきてください」
間もなくして、通訳の日本人女性と落ち合って彼女の車で警察そして仮パスポート作成のための写真を撮りに行きました。この女性Mさんも、誠に優しく穏やかに接してくれました。「わたしは病院と警察に行くときに、領事館から呼ばれるんです」というだけあって、トラブルへの対応能力は抜群でした。警察へ行ったときは、窓口の警察官へものすごい剣幕でまくしたてていました。結果、無事にポリスレポートをゲットできました。
「わたしは世界中をしっているわけではありませんが、このサンクトペテルブルグはパリよりも美しい街だと思っています。どうか、このことでくれぐれも平井さんがサンクトペテルブルグを嫌いにならないでくださいね」とお別れするときに語っていました。この言葉は、彼女の本心でしょう。忘れられない言葉です。
D誰も謝らない!?
領事館でのお二人の日本人には本当にお世話になりました。そして「くれぐれも、今回の件でご自身を責めないでくださいね。実は2週間前も平井さん以上に旅のエキスパートの男性が同じ手口で被害にあっています。どんなに用心していても、この国のその道のプロにはかないません。ちょうど、昨日までサッカーのワールド大会予選があって警察は戒厳令をひいたようにすごい取締でした。スリのプロもさすがに動けない状態でした。今日からそれが解除になったので、泥棒も、、手ぐすねをひいて、狙っていたんですよ」と慰められました。
でも、イチバンびっくりしたこと。この領事館で出会ったお二人以外から、つまりロシア人から謝られた記憶がありません。謝るどころか、こちらが犯罪者になったような気分になりました。ホテルの従業員、警察の人々、空港関係者、、、「盗まれたあなたが悪い!!」 ともちろん、言われたわけではありません。が、そんな気分に落ち込んでしまって私でした。
特に帰国便に乗るまで、モスクワ空港では搭乗券の発券、そしていくつかのゲートのチエック、最後の出国のパスポートコントロールまで、ハラハラドキドキの連続でした。こちらが悪いことをしたわけではないのに、あたかも釈明のような英語を繰り返し繰り返し、頭の中で反芻していました。
おそらく、日本だったらどうでしょう!?「今回は大変でしたね、どうぞ 気持ちをおとさずに旅を続けてくださいね」など、声をかける人はいるでしょうね、きっと。
「これが文化の違いなんだなあ、そしてこういう違いを感じることこそが旅の醍醐味だなあ」と今になって、思うのです。
日本に到着して入国審査のとき、日本の空港職員から「あら、なくしてしまったんですか?大変でしたね」と微笑みかけられました。なんだか、それだけで「日本はいいなあ」とホットしてしまいました。
ESさんの存在(総括)
今、改めて振り返ってみると、若い同行の友人・Sさんにものすごく支えられました。
東京のモスクワ大使館へのビザの申請を皮切りに、飛行機のチケット・ホテルの手配・バレエのチケット手配など、すべてを彼女に委ねました。被害に会う前の3日間はモスクワ空港の乗り継ぎ便に遅れたものの、それ以外はわたしとSさんの強気とチャレンジ精神と行動力でクリアしてきました。が、7月1日以後は、さすがに私もパワーダウン。本音は「できることなら、今すぐ日本へ帰りたい」でした。そういうわたしに我慢強くつきあい、最後まで行動を共にしてくれました。本当に 本当にありがとう。
成田でお鮨を食べながら二人で「お疲れ様」の乾杯。そして、異口同音に「これからも旅することはやめない。絶対、リベンジしようね」と。しかし、油断は禁物です。これからも十分に注意して、かつ楽しい旅をまた実現させよう!!と誓った“懲りないふたり”だったのです。
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