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ざっくばらん ゆき子のおしゃべりコーナー
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2019年11月1日

4.<紹介します・私の友人> その4-脇坂 盛雄さん

今回は、私の少し年下の男性と年上の女性の友人に執筆をお願いしました。
どちらも、多忙な方々なので 年に何回かお目にかかるというお付き合いです。

お二人は日本のトップ企業といわれる大企業に入社して、定年まで勤めました。その後どのような思いで、人生の次のステージを送っているのかー 大変 興味深い内容を書いてくれました。お二人のビビッドな日常生活がうかがえます。

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60歳、これからの人生をどうするか!

脇坂盛雄

 

 

1.これまでの人生


大きな選択肢は三つあった。


・一つ目;就職時

 大学の教授より、「研究室に助手として残ってくれたら、博士号を取らせる」との誘いがあったが、断った。大学の研究でやっていく自信がなかった(⇒自分でガラスの天井を設けていた&未知よりも安全度の高い道を選択)。

 しかし、オイルショック後の就職難で大学院まででていたが、就職した製薬会社の工場の検査部に配属になった。

 会社の人事からは「脇坂君は、工場の検査部で医薬品を研究して欲しい」とのことで検査部に配属になった。研究開発と違う部門だった。(これを会社は約束違反と思ったのか、翌年の採用からは生産部門での採用をスタートさせた)

 

 

 実は、つくばに研究所ができるので、その時に研究所に異動させる予定で採用されたのだが、検査部の部長が検査部に私を引き留めたのだった。数年後に研究所が私を希望したが、同じくこの部長がこれを拒否した。このいきさつは、私自身は知らなかったが、後に研究所の人から教えてもらった。

 仕事は苦手な分析だった。大学7年間で学んだことは何も役立てることはなく、大学受験で勉強した化学が役立った。大学院では有機合成の研究室だったので、ここにいては新薬を合成するという目的が実現できない。しかし、会社を飛び出して転職する冒険まではしなかった。

 

 

 

・二つ目;MBA留学

工場長から社内公募のMBAを受験してみないか?と言われた。英語は苦手だったので、返事を保留していたら、「なぜ保留している。受けるように」とのことで、受けることにした。受験が認められると英語のセミナー(TOEFL)を受けられるので、英語の勉強になるかと思った。受験生は7人で生産から2人参加した。 実は、生産のもう一人が、工場長に「MBAは管理、営業の人が受けられるが、これから生産もグローバル化が必要なので、ぜひ生産からも受けさせて欲しい」とお願いしていて、それで工場長が人事に話をつけていたのだった。

 受験生は7人。英語は下から1〜2番手。多くは受験準備をしていた。
面接で、「なぜ、ブラックマンデーで株価の暴落は起きたと思うかね?」と面接官の中で一番上位の専務から質問された。実は学生時代から、日経新聞を読んでいて、就職しても読んでいた。様々な原因が言われていた。その中で一番 賛同できる原因を返答した。その時に、他にも知っていますよとアピールするために「株価の自動売買プログラムが原因など言われていますが、結局、株価が高すぎたと思います」と返答した。そうしたら、専務が「私もそう思います」と。

 

 

 この時、ひょっとしたら合格するリスクもあるかもと感じた。合格したが、英語の点数が低すぎて、学校から入学許可が来ない。アメリカの大学からは、「I regret to inform・・・」の文字のレターばかり。 夏のサマー(米国大学のサマーの英語研修)に行った時点でも入学できず、サマーから留学せずに帰って来るリスクも大きかった。前代未聞だが英語の勉強と体験できたから良いと思うようになっていた。幸い、2大学から入学許可が来た。

 ⇒英語が苦手だったので、MBAに入学できる自信はなかったが、英語の勉強になると思ってやっていたが、その結果 合格した。

 

・三つ目 米国で働くチャンスを

 人事から「米国の新しい工場を建設するが、その時の担当者にならないか?」と声がかかった。その時に私は自らぜひやりたいと言わずに「人事に任せます」と返答した。

 生産から同時にMBAに行ったもう一人にも人事が声をかけた。彼は「ぜひ、やりたい!」と答え、結果、その人が行った。これはその後の出世にも影響したようだ。

 

2.60歳の選択(お金&肩書より優先したかったこと)

 定年が60歳で、その後は雇用継続で役職なし、お給料も半減以下だった。 しかし、私が59歳の時に定年が65歳まで延長になり役職は継続&お給料もほとんど減らない制度に変更になった。

 当時、部長&理事だったので、その仕事の継続とお給料は魅力だったが、それまでの経験(医薬品の品質保証30年)を他社の多くの人に伝えたいとの思いが強くなっていた。

 大学で化学/有機合成で研究開発を望んだが、会社で品質管理/品質保証を30年経験した。この経験と知識を伝えたいとの気持ちが強くなった。そこで、60歳で退職した。退職後の仕事の見込みはなかったが、初めてリスクテイクの選択を行った。

 自分の経験をHPに掲載。半年後からHPを見てセミナー講師や執筆の依頼などが来た。今はコンサル先が6社、かつセミナー会社の依頼でこれまで240回のセミナーを実施してきた。

 

 


 退職後の実績(5年半の積み重ね);


・セミナー240回 × 12人 ≒ 2,800人
・講演 80回 × 20人   = 1,600人   
・無料の講演 30回 × 40人 =  1,200人
           合計 = 5,600人
・執筆・・・40件
(発行部数6,000部の雑誌にこれまで8回掲載)
(メルマガ部数6,000と10,000にそれぞれ8回掲載)
・本(150ページ)の執筆(200冊ほど販売)
・通信講座(3か月コース) 5回(延べ100人)
・無料のメール相談   300通ほど
⇒退職した時の目的「多くの人に自分の知識と経験を伝えたい」は、かなり達成したかと思う。

 

 


 まとめてみるとこれまでの人生・キャリアの中でいろいろな選択をしてきたたが、リスクの低い選択肢をしてきたなと思う。もしかしたら、60歳の選択が初めてリスクの高い選択肢だったかもしれない。リスクの低い選択をしてきたとの認識がリスクの高い選択につながったと思う。

http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/

 

<平井ゆき子からの追記>

彼とはもうかれこれ30年の付き合いになります。初めて会ったのは、文京区のボランティア活動の交流会でした。折に触れ、とてもインパクトのあるアドバイスをもらいます。「年齢の違う友達は大切です。同じ世代の人とばかり付き合っていたら、そのうちみなさん死んでしまいますから」「友達でありたいと願うなら、無理をしてでも会う時間をつくることです。顔を見て話すことが一番重要です」など。これらは肝に銘じて実践しています、私。



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