2019年11月1日
5.<紹介します・私の友人> その5-飯塚 洸子さん
1)リタイヤ後の日々
●スペイン語を学ぶ
60歳の定年までビジネスピープルを生業としていた私にとって地域という言葉は身近になかった。
実家で親と一緒の時は親まかせ、45歳で独立してからも多忙な時間をオフィスで過ごし、帰宅は常に9時を回る日々(よく働いたものだ!)、遅い時はタクシーを使い、周囲の状況など全く興味もなく、まさに世にいうお父さん状態だった。
60歳で晴れてリタイヤ、なんとも晴れ晴れと快適な日々の始まりだった。ボケないように何か頭脳を使う事をと考え、近くの慶応外国語学校のスペイン語科へ夕方から2年も通った。
続けたいところだったが、老眼に加え、教室の照明が暗く、教科書の細かな字が見え難い、それでも毎回拡大コピーで挑んだが、クラスが上がると共にネイティブに近い若者が増え、ついにこの辺でと退却した。とは言え、今でも英語とは異なりスペイン語は実にチャーミングな言語で離れがたい。
●父の介護
リタイヤ前から区の手話講習会で手話を習い、時には聾者について近隣の小学校へ手話を教えにも行った。聾者とのかかわりが深くなるにつれ、彼らの抱える社会的差別や不自由さ等々に気が重くなり、ちょうど一人暮らしの父の介護を理由に遠のいた。
今でも当時の聾者に出会うとアワアワして手話がでてこない〜、お恥ずかしい限りだ。
大田区に一人住む父を現役のころから毎週日曜日に訪ね、月曜の朝実家から出勤していた。リタイヤと共に父とのかかわりはダントツに増え、同居をしない心苦しさを毎週通う事で納得させていたようだ。
その父も2年余のケアホーム入居を経て見送り、平均3日は青葉台の父を訪ねて看取ったのでその後の後悔は全くなかった。
父は白寿の日から3日で安らかに母のもとに旅立った。そのとき、これからは自分の事だけ考えれば誰に遠慮もいらない正真正銘の自分の人生なのだと実感した。
2)地域が身近に
きっかけは何と言っても港区が創設したチャレンジコミュニティ大学への入学だろう。
2007年4月に第一期生として60歳以上の区民60名が週1日3時間、一年間、明治学院大学で多彩な授業を受ける事になった。これは港区初の試みで修了後は地域活動のリーダーの育成を促す画期的なプロジェクトで負担金は入学時の2万円のみで区が財政面、大学が校舎と教授陣を担うもので、既に13年も続いている。
明治学院大は自宅から歩いて15分と便利で、学生気分に戻って大学で授業を受ける新たな挑戦でもあった。今まで顔も知らない60名が一年間共に現役教授から様々な講義を聞き、行政の抱える諸問題にも関心が芽生え、当然1年後には不思議な共感が育まれた。今でも毎月一回は集い、情報の交換などする仲間になり、区内に修了生が年々増え、各所活躍している。
3)具体的な地域活動
数年経過後、「仲間の集う居場所作り」を考え、高輪地区支所内の空きスペースを交渉の結果自主的カフェのオープンにこぎつけ、「コミュニティカフェ」を月に2回オープンしている。毎回、地域やクラブの仲間30余名が集い、コーヒーを飲みながら楽しく情報交換をしている。
このカフェの運営が7年目を迎え、私の地域貢献(Do for others)といえる。ボランティア活動は必ず誰か中心となる人間が必要だが、大半は「ボランティア=好きな時出来る活動」と認識される事が多く、この運営はなかなかにハードでいかに継続させるかが重要となる。
毎回必ず来る地域のお年寄り、「ここに来れば、だれか話し相手がいるから」と楽しそうにコーヒーを飲んで帰る。目下の課題はそろそろ後輩にバトンタッチしたい、というところだ。時々愚痴る私に「出来る事、頼まれる事があるうちが花」と言う人がいるが、はたしてどうなるだろう?
4)新しい試み
今やポピュラーとなった「フードバンク」だが、10年前に私はピースボートの南回り一周に参加した。その船内講座で「セカンドハーベスト・ジャパン」のチャールズ代表の話を聞く機会があり、初めて聞く食品の無駄をなくす活動がその後もずっと頭の片隅に残った。
カフェを主催する仲間とまずは区内の子供食堂の実態を聞き、その後「フードバンクって?」の講演会を企画した。自分たちに出来るフードロス活動に向け、浅草橋にある「セカンドハーベスト・ジャパン」の見学にも行き、10年ぶりでチャールズに会い、詳しいシステムを聞いた。
港区はこのフードドライブの取り組みがなく、行政に働きかけをしつつ、自分たちで集めて持ち込むプロジェクトを6月にスタートさせ、傍ら行政へのアッピールもしてきた。
結果、10月から各総合支所で受け入れが決まり、遂にここまで来たと仲間と達成感を味わっている。
暫くはキャッチルレーズにした「もったいない」を「有難う」へで、仲間と出来る限り継続して行きたいと思っている。
5)日々の生活 茶道
20歳半ばから今日まで(ロンドン勤務で5年ほど中断)裏千家の茶道を趣味としている。 永く続けられたのは茶道の多種多彩なこともさることながら、歴史的な部分に大いに惹かれたからだ。
千利休と秀吉の確執,嫉妬?に始まり、明治から昭和初期までの財界人たちの茶への関心をみても、茶道はやはり男の趣味・たしなみだと思える。狭い茶室での「ここだけの話」に日本経済や世界が動いた事も多々あったと聞く。
今日は男性の姿はほんのちらほらで、茶会に行けば女性ばかりで実に姦しく、茶道教室の先生もほぼ女性である。一説によれば戦後未亡人が多くなり生活の為に昔たしなんだ茶道を教える事で子育てをし、生活を支えてきた方々が多かったと聞く。
78歳になった今も週一回は着物を着てお茶の稽古に通い、ほっとしたひと時を大切にしている。だが、足腰にトラブルが出ればその限りではなく、同時に筋トレに励む日々である。
<平井ゆき子からの追記>
洸子さんはこのHPでも度々紹介しているSSSネットワークのお仲間です。将来共同墓地に一緒に入るいわば墓友です。このネットワークの創世記から参画していて、親しいメンバーから<姐さん>と呼ばれて一目置かれている存在。高尾山歩きに合流していただいています。歩きながら<最近見た映画や読んだ本など>おしゃべりしながら、洸子さんからの楽しい刺激のシャワーを浴びています。
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