2020年5月1日
5.<紹介します・私の友人>―その6 浅野 祐子さん
浅野さんとは出会って、もうかれこれこれ40年近くなります。彼女はメーカーの人事担当者、わたしはまだ駆け出しの人材育成コンサルタントでした。大きな目を輝かせて、まっすぐな視線で私の研修現場をいつも見守っていました。
間に彼女の東北への転勤がありましたが、途切れることなくお付き合いが続きました。今では、最高の遊び友達です。
東日本大震災のとき、東北の事業部に勤務していて壮絶な体験をしました。その体験から得た思いを綴ってくれました。(平井 ゆき子 記)
1.2011年3月11日、東日本大震災の日
例年鶴見の総持寺で震災復興を祈念する「祈りの夕べ」に参列して、2011年3月11日に思いを馳せる日にしておりました。しかし、今年は新型コロナウイルスの関係で中止されましたので、一人で色々考えてみることにしました。
@あの日
わたしは、宮城県大崎市の会社で勤務中でした。大きな地震が発生した後は自分も含め、会社にいる人達の安全確保を第一に考え行動しました。その後しばらくの間、会社に寝泊まりしながら復旧の対応に従事していました。町からは灯りが消え、夜は月と星の灯だけを頼りにする静寂な日々が続きました。
気がかりだったのは、気仙沼の実家(酒店経営・弟の家族在住)のことでした。仕事の合間をぬって電話やメールを出していましたが、 中々連絡がとれませんでした。
気仙沼の実家付近は壊滅状態であるのをニュースで知り、家族となかなか連絡が取れず、焦りました。
数日後 東京にいる甥から「実家と連絡が取れ、無事だから安心して。但し家は罹災した。」と電話があり、「弟の家族は生きてた!」と胸を撫で下ろしました。
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2019年3月の気仙沼湾岸の全景 |
初めて気仙沼入りできたのは、震災から10日目。復旧関係の方々の邪魔になるので暫く気仙沼入りしないようにとの弟からの助言があったからでした。津波と火災が起きた故郷のあまりにも変わり果てた姿に涙もでませんでした。避難所にいる高齢の方々は、戦争後と同じだと語っていました。
その後、2週間に1度位のペースで気仙沼に帰りました。勤務先の社屋は着実に復旧しておりましたが、気仙沼は遅々として進みません。この間、非常にもどかしさを感じていました。津波と火災があり、第一にしなければならないのは、遺体の収容と行方不明者の捜索であるーとわかっていても。
自衛隊、県警、消防団やボランティアの方々の支援があり少しずつではありますが、道路ができたり、瓦礫が取り除かれたりしてきました。
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2011年11月の仮設商店街の店主達の集合写真 |
A弟の思い
そんな中、実家の地区で弟も含む店主仲間から新しい動きが出てきました。
商店街復興を目指し、津波が押し寄せた商店街の一角に30店舗ほどが入居するプレハブの「仮設店舗街」を作ろうというものです。
「何もない状態で悩んだが、この場所で営業を続けることが財産だと思う」と、弟は夏の営業開始(2011年・8月)を目指していました。仮設店舗からスタートし、本格復興へ繋げることを目指していたのでしょう。
この時の気持ちを、弟は次のように寄せてくれました。
< あの日の思いは「海と生きる気仙沼」ー生まれ育った海と共に生きると 覚悟したこと。一本の樹を礎に大きな樹に成長する姿を夢に 捲土重来・・・・・南町復活を胸に誓う >
紆余曲折はありましたが、現在は自分たちが手掛けた商店街が出来上がっています。
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復興商店街の本間屋酒店。入口の右側に、一樹、大樹、礎の文字が見えます。
弟の思いを形に表すためにお酒をつくりました。
「一本の樹(一樹)を礎(礎)に、大きな樹木(大樹)にー」
ちなみに 一樹・大樹は 息子の名前(私にとって甥)です |
2.忘れてはならない体験・想い
@生かされている意味
実家の被災地の方々は、皆一様に「生かされている」と言います。ほんの少しの差で、生死を分けた体験をしているからだと思います。
実家の近所で亡くなった方々は、高齢者や幼い子供達を避難させ、安全の確保を確かめてから次に自分が避難しようという時に、引きの強かった第二波に飲み込まれてしまい命を落としました。
彼らの行為を通して感じることは、生かされている私達に自分がやり遂げたかったことを託して亡くなっていったのではないかということです。今生かされている私達がやらなければならない事は、日々の仕事や生活に対峙し、一所懸命取り組んでいくことではないかと思います。誰にでも平等に明日が来るとは限りません。だから今日を精一杯生きていく。これを痛感しております。
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2019年5月の復興商店街のイベント
(今年はできませんが、鯉のぼりを商店街につるして子供の日を祝った風景) |
A人と人との輪
気仙沼では、見ず知らずのボランティアの方々に大変お世話になりました。感染症が
叫ばれている中、被災地の方には迷惑はかけられない、自分の命は自分で守るという使命をもって、吐き気をもよおす瓦礫やヘドロの処理、洗浄を黙々と行ってくれました。
ほとんどの方が、「数ヵ月後また気仙沼にくるから、必ず復興してくださいね。」と、先をみて生きてくださいーと感じられるメッセージを残して去っていきました。
また、近所の方々は、自分達の地区はまず自分達で復興していくという合言葉で、老若男女それぞれが自分でできる最大限のことを実行していました。常日頃の緊密な地域の自治会活動が功を奏しているのではないかと思います。「本当に一人で生きているのではないんだ」と、東日本大震災を通じて実感したことはありませんでした。
生活の場での隣近所との繋がりーこれをより一層大切にしなければならないと思いました。
最後に、今私は改めて命の尊さを感じ、平凡な日々を生きることの幸せを実感しています。
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