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ざっくばらん ゆき子のおしゃべりコーナー
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2021年1月1日

4.<紹介します・私の友人>ーその11 倉石愛子さん


  愛子さんと初めて会ったのは、もう10数年前のこと。中国へのパックツアーで、出会いました。まだお互い若かったですね。中国の中でも僻地?に行くツアーで、武陵源・王村(中国映画の名作・芙蓉鎮の舞台)などマイナーな地域へのツアーでした。愛子さんとの出会いで “年をとってからでも、真の友達はできる”ということを実感できました。   ここ数年、病気がちだったわたしを親身になって支えてくれた“姉”のような存在です。 今回、中国・中国語との関わり合いを書いていただき、改めて「そうだったのか」と目から鱗―という気がしました。

(平井 ゆき子 記)  


 

 

中国語と私


2020年12月9日

倉石愛子

〜もくじ〜

1 初めての中国
2 なぜ、中国語を学ぼうとしたのか
3 中国の友人――― 周さんのこと
4 帰国してからも、学びは続いたー
  1) 生徒として
  2) 中国語通訳ガイド試験に挑戦
  3) 中国語の教師 そして日本語の教師も
5 そして今

 
・・・・・・・・・・・


1 初めての中国

 

 1985年4月 中国上海での生活が始まりました。
 一足先に商社・上海勤務となった夫から 上海での生活の大変さは聞いておりましたが、それも楽しみと機上の人となりました。
“間もなく上海虹橋空港に着陸です。”とのアナウンスについに上海に着いたとベルトをしっかりと締めなおしました。外を見ますと機体は草ぼうぼうの原っぱの中にある滑走路をガタンゴトンと揺れながら 突然ドンと止まりました。

 ここが憧れの上海? 中国の経済の中心・上海? ちょっと戸惑いを覚えました。でこぼこ道の虹橋路を車に乗って、フランス風建築の香りのするホテルにチェックイン。
好”(こんにちは)  “謝謝”(ありがとう) ?再見”(さようなら) だけはしっかりと覚えて意気揚々と来たのに、人の話が何もわかりません。ホテルの受付係に 英語で尋ねてもチンプンカンプンです。

何とかなる。さあ上海生活が始まった。でも、心細い出発でした。

 

<これは 現代の上海、1985年ごろは、、、、>

 

 

2 なぜ、中国語を学ぼうとしたのか

 

 小学生の子どもたちは 午前中日本人補習校、午後は上海現地校に通学。前から上海にいらしていた方々にお世話になりました。
 しかし、問題は下の息子の現地の幼稚園でした。誰も知り合いはおらず、送迎の度に先生が何かおっしゃるがさっぱりわからない。英語も通じない、身振り手振りでもダメ。どうしよう?と思った時に 先生にメモ帳を出して中国語を書いていただいたらちょっとだけなんとなくわかりました。
 「これはーー私が中国語を勉強しなければならない。」と決心した瞬間です。

 1985年9月新学期より上海交通大学の留学生向け中国語クラスに入学。
(上海交通大学は 江沢民元国家主席の学んだ大学です。)
倉石武四郎さん(実は夫の縁戚にあたる人です)の編んだ中国語辞典と教科書、ノートを手に週3回バスに乗って休まず通いました。大学の守衛さんに久しぶりに学生に戻ったような気分で学生証を見せて校内に入るのが嬉しかったですね。

 授業は 基礎からで発音、簡単な日常会話から始まりました。丁寧に繰り返し、声を出させての実践的な授業でした。ここで1988年帰国するまで学びました。
 先生方とはその後もやり取りが続きました。

 

<上海交通大学・90周年記念で いただいたお皿です>

 

 

3 上海の友人――― 周中輝さんのこと

 

 上海の夫の会社の運転手である周さんはとても暖かな方で、家族同士でお付き合いさせていただきました。なかなか手に入らないお米や上海蟹をたくさん買ってきてくださったこともあります。
 周さんにも同世代のお子さんがいたので、我が家の子どもたちをとても可愛がっていただき、お宅におじゃましたり、お食事を共にしたり、動物園に連れて行ってくださったり、本当にお世話になりました。

 

<わたし・周さんの娘さん・周さんの奥さん・ゆき子さん>

 

 帰国後も中国への旅はいつも上海から始め、その度に周さんに会うのが習慣になりました。一度平井さんと私とで上海旅行に行った時には 古(昔の街)を案内していただき、上海ではNO.1のレストランに周さんのご家族と一緒にお食事にも招いてくださいました。
 周さんが日本にいらした時には10日ほど我が家をねぐらに 近場をご一緒させていただきました。今でも週2〜3回チャットメールをやり取りしています。
 こんなに現地の方と長いお付き合いをしているのは、夫の会社でもあまり例がないことのようです。

 

<右側の男性が周さん>

 

 

4 帰国してからも、学びは続いたー

 

 1)生徒として 

1988年秋から神奈川県藤沢中国語教室に通い始めました。中国の成語、諺などたくさん学びました。
だんだんと中国語が面白くなり、NHK中国語会話テキストの中国語学校案内をみて中日会話学院横浜校の会話班に入学、その後通訳ガイド班にも入会しました。
クラスメートは若くバリバリと仕事をされる方が多く、大きな刺激を受けました。

 

 

 


 
 2)中国語通訳ガイド試験に挑戦

  通訳ガイド班で勉強するうちにガイド試験に挑戦することにしました。
東京まで通訳ガイド二次試験対策予備校にも通いました。2001年に晴れて、国土交通大臣、国際観光振興会の国家資格通訳案内業(今は通訳案内士)の試験に合格して 国際観光協会 協会員となりました。

 

 

 

 


 
 3)中国語の教師 そして日本語の教師も

@ 1993年から2003年まで神奈川県立津久井高校 中国語非常勤講師として教壇に立ちました。少し前から 大学のセンター試験科目に中国語が入り 神奈川県でも複数の高校で中国語の授業が始まっていました。教科書は白帝社の『高校中国語』を用い、時には中国人の吹きこんだカセットテープを使って 本物の中国語を聴かせ、耳を慣らしました。


 神奈川県高校生中国語朗読コンテストや 暗唱コンテストに出場して、生徒の向上心を養うことができたと思っています。夏休みに台湾に留学する生徒もでてきました。またハルピンで日本語を学ぶ高校生と手紙のやり取りを楽しんだり、中国に親しみを持つ生徒が出てきたのは教師冥利につきました。

 

 

 

 

A 2006年、中国 江西省万年県 万年重点中学(高等学校)で日本語を教えました。中日会話学院の推薦により、中国の大学入学試験の際に外国語の中から日本語を選択する受験生のための総まとめに1か月の集中講義をすることになったのです。
 万年県は江西省の真ん中にあり、外国人の在住者は初めてとのことで、この時 地元の公安局より1ヶ月の居留証を出していただきました。
日本語の先生も本物の日本人に会ったのは私が初めてとのことでした。生徒は日本語を書いて読めましたが、発音は難しかったようです。
真剣な学びに私も背筋を伸ばして向き合いました。  

 

 

 

 

 

 

 5 そして今

 

 中国に行きたい!!
 現在も、私は中日会話学院で学び続けております。今は中国の最新のニュースを読んだり、聞いたりしています。コロナウイルス感染症の話、感染収束後の中国、ワクチンの話から、人々の今の話題、AI、DX関係まで内容豊富です。


 なかなか語彙は覚えられませんが、授業はとても楽しみです。リモート授業が多くなり、一緒に学ぶ友と会えないのが残念です。
 コロナウイルス感染症が収束し各国で受け入れが始まりましたら、真っ先に中国、台湾に行きたいです。


エッ? 台湾?
(台湾は『流星花園』というドラマにはまったから。F4という超カッコいい男性4人組に惹かれ、何度台湾でのショーを観に行ったことやら・・・)

 

 

<一番左の男性が、わたしの大好きなケンちゃん!!>

 

 

 そして 改めて気づいたこと。「なぜ、わたしは中国語を学び続けているのか?」自分に問いかけています。

 答えはー
 日本と中国は一衣?水の間柄です。
「一衣帯水」(いちいたいすい)は中国の南北朝時代を統一した隋の文帝が南朝の陳に対して「帯ほどの狭い小川」(揚子江)を間に置いた隣国だとし、平和共存を訴えて使った言葉。 すなわち近い隣国を意味します。
2020年11月末に日本を訪問した中国の王毅外相が 適切な協力が必要な隣国を意味する「一衣帯水」という言葉を使いました。

中国(中華人民共和国)は日本の26倍の土地に漢民族と55の少数民族
計14億人余りが住んでいます。政治的、経済的には問題が山積していますが、人と人とのあいだにはとても豊かで暖かな関係を築くことができます。
中国の多くの地を旅しましたが、どこでも私たち日本人を歓待してくださり素晴らしい思い出を作って下さいました。

 もっともっと中国のことを知りたい。日本にいらした中国人に日本を紹介したい。日中の懸け橋となりたいと心から願っています。
これが私の答えです。 

 

<我が家で、中国からの留学生と夫も一緒に!>

 

 

以上



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