平井ゆき子事務所


トップページ

プロフィール

現在の活動

ざっくばらん ゆき子のおしゃべりコーナー


トップページのバックナンバー


メール mailはこちらまで
yukikoh@gol.com

Copyright (C) 2006
Hirai Yukiko. All Rights Reserved.

ざっくばらん ゆき子のおしゃべりコーナー
green_line
2021年9月1日

3.<紹介します・私の友人>― その15 R・Tさん


久しぶりの再会

「平井さんに初めて会ってから22年が経ちました」と言われて、びっくり。住宅リフォーム会社の新入社員研修で出会い、我が家のマンションも何度かリフォームしてもらった。そして、ある日のこと「僕 転職します」と挨拶された。其の後も時々ごはんを食べたり保険の相談にのってもらったり、お付き合いは続いていたが、、。
最初のA社(住宅リフォーム会社)で10年勤務。現在の外資系保険会社B社ではすでに12年勤続して、営業職・マネージャー・支社長と昇進した。「もう、こちらの方が長くなりましたよ」と自信に満ちた笑顔で話してくれた。

「ぜひぜひ あなたのキャリアを書いてくれないかしら」とお願いしたら「平井さんがインタビューしてまとめてくれるなら」と快諾してくれた。
 彼の支社へお邪魔して、約100分 話を聴かせてもらった。聴いている私自身が彼から勇気づけられた。あの22年前の“生意気な若者”がこんな成熟した、45歳のビジネスマンになったのかーと、感慨にふけってしまった私だった。

(平井 ゆき子 記)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

僕のキャリア形成で実践してきたこと

外資系保険会社 R・T さん

 

 

できる支社長の顔ですね・平井 記

 

〜もくじ〜
1)一番つらかったのは最初の会社・A社の新入社員時代
2) 2年目に父の会社が倒産。これが大きな転機に
3) 僕の強みは“人の育成”
4) いい仕事をするために 実践したこと、意識していること

 

 

1)一番つらかったのは最初の会社・A社の新入社員時代

「僕の人生の谷でした」とは、本人の言葉。実家が工務店を経営していたので「長男である自分が、やがて継ぐ」という漠然とした思いで、将来役立つかもしれないと住宅リフォーム会社に就職した。ところが、1年目は雑用ばかり。DMの発送やチラシ配りばかり。
社会はそんなに甘くなく、就職を失敗してしまったんでは、、、と後悔ばかりしていました。
そんな中で、<1人役>という名のもとに、営業・設計・現場管理・事務を一貫体制で忙しく働いていました。
職人さんとの打ち合わせ・工程管理・予算管理、すべて見よう見まねで我武者羅に働いた。
仕事自体は楽しくやりがいはあったが、変な職場風土があり、所属された営業店の店長より先に帰っちゃいけない、先輩より先に帰っちゃいけないーという雰囲気があり朝8時出社、早くても23時退社という生活を3年間繰り返していたのです。
最初の3年間はプライベートで友人と会った記憶はまったくない。残業を月150時間していましたが、手取りは月収18万円位でした(汗)残業代なし、有給休暇取得不可・有給休暇買取不可、今でいうとスーパーブラック企業ですね(笑)


<大切な仕事のパートナー・職人さんとの1コマー入社して数年 2006年>

 


<仕事の同僚・職人さんとの1コマー 2006年>
 この2枚の写真から、いかにRさんが職人との関係を大切にしてきたか 伺えますね

 

 

2)2年目に父の会社が倒産。これが大きな転機に

毎日忙しく働かせて頂きやりがいはあったものの、不思議と「ここで、骨を埋めよう」とは思いませんでした。心の中では「もう、家の工務店を継ぐ必要もなくなった。ここで早く仕事を覚えて実績を作り、飛び出そう。」と思い始めていました。
『圧倒的な実績で他社に自分を高く買ってもらおう』と思っていたので、残業することを全く厭わなかったし、学ぶ時間と考えれば将来の自分のためになるとさえ思っていました。
A社では、順調にリーダー・チーフリーダー・店長と昇進しました。
(辞める時には年収860万円、そのうち200万円が賞与だったと記憶しています)

転職のきっかけですか? 2つあります。

 

<1つは心の中のこと>

僕は学生時代のゼミの友人とつきあいが今でも続いています。その当時、IBMに行った友人と飲んでいるときに「俺さあ、年収が下がってさあー1000万円切ったんだよ」と言ったんですね、これにはショックを受けました。つまり「こいつは 前は1000万円以上、もらっていたんだ」と思いました。
この時にはっきりと自分の仕事の成果と報酬が見合ってないのでは?と感じ、絶対に<年収が高くなる会社に転職してやる!!>と意識しました。

<2つめは、まさに実際的なヘッドハンティングでした>

A社のリクルート用のパンフレットに僕が掲載されたんです。「大卒〇年にして、店長になり活躍している」というもの。それを見たB社のリクルート担当の人から電話がきたんです。「あなたは、今の仕事・処遇で満足していますか?」と。

 


 

 

3)僕の強みは“人の育成”

33歳の時に転職、そして12年があっという間に過ぎていきました。
現在の会社のキャリアですか? もちろん営業職からスタートしました。でもどういう方向に進むかは自分で選択できます。どうやら僕は「人を育てる力・組織をマネジメントする能力が高い」と評価されたようで、マネージャーから支社長へとステップアップすることができました。今はお客様と会うというより、人のリクルート・部下の育成・教育が仕事の中心ですね。

 

Illustration by freepik

 

 

4)いい仕事をするために 実践したこと、意識していること

確かにA社の経験は最悪、過酷でした。が、ここで 僕は仕事をする上での最も大切なことを学びました。それは、『ひとに伝える』という事です。

<職人さんへ>

 リフォームという仕事は具体的にはそれぞれの職人さん(クロスを貼る人、電気工事をやる人、キッチン家具を取り付ける人、etc,  etc)に動いてもらわなければ成り立ちません。
お客様の要望を聞き、それを間違いなく正確にわかりやすく職人へ伝えたらいいか、工夫しました。職人は、あまり細かいことをクドクド言っても理解してくれません。かといって、彼らが作業している傍につきっきりでいるわけにもいきません。職人へやるべきこと・作業をわかりやすく伝えるために、指示書を工夫しました。A4の用紙にポイントを大きくわかりやすく簡潔かつ詳細に書くことでした。
このA4/1枚のFAXにかける時間と手間は人の3倍は使っていたと思います。
 その結果、僕の仕事を優先してやってくれる職人が増えてきました。彼らにすれば、指示がわかりやすいので、何度もやり直しをしなくて済む。仕事に無駄が生じないからです。
9時から17時までは、いわゆる通常の接客や現場管理をやり、こういう職人への指示書は夜の時間(22時以降)を使ってやりました。ある時期、ほとんど毎晩終電かタクシーで帰宅ということが続きました。

 

 

<部下へ>

また 上司として部下と数字の話をするときは、「個人の実績だけにフォーカスするだけでなく、部下の仕事が店全体の中でどういう位置づけにあり、店全体に具体的にどんな貢献できるのか」を意識して話していました。そうすることによって、単に売り上げを上げるためだけでなく自分のやるべきことがクリアになり、モチベーション高く頑張ってくれました。
僕自身にとっては新入社員時代に出会った、知識もなく雑用だけを部下に押し付ける上司が反面教師になっていた気がします。

パートタイマーとの日報のやりとりにも時間を割きました。具体的には相手が日報に3行書いてきたら、僕は必ず5行以上書くようにしました。「ここで働きたい」「この仕事をやりたい」「この人のためなら頑張ろう!」と思ってもらえるように文章、モチベーションをアップしてもらえるよう意識していました。(これも毎日かなりの時間を掛けていました)
退職後、10年以上経った今でもそのパートタイマーの方に会ったときに
「当時の日報嬉しかったです!」と言って貰えました。この言葉を聞き、あの時の時間は無駄じゃなかった!と感激しました。


<A社時代・新店舗オープン 右端が店長のRさん 2008年>

 

 

<支社長としても>

たぶん、A社で培った他者へ働きかけるノウハウは、現在のB社・支社長という仕事にも活きています。部下と接するときも、コミュニケーションの主体は相手にあるわけです。

  • 場所(二人きりなのか、みんなの前なのか?)
  • タイミング(その人にとってベストか)
  • 伝え方(どういう言葉を使ったら、相手に一番吸収してもらえるか、、、)

など、こちらがどう伝えるかではなく 相手にどう伝わるかを意識して常に相手目線で話せるようになった気はします。

実はこのコロナ禍の期間、部下はリモートワークをやっていましたが、僕自身はほぼ毎日 出社してこのデスクで仕事をしていました。部下にスムーズに働いてもらうために、僕自身が日頃 話して伝えていたことを全て文章化してパワーポイント化する、という作業を黙々と進めていました。オンライン・パソコンの奥のひとりひとりに言葉が届きますように、と、願いを込めて。

 

Illustration by freepik

 

最後に

今でも学生時代のゼミ仲間と連絡を取り合っています。
今の自分を作り上げてくれたのは、間違いなく「こいつらに負けてたまるか」という悔しさであったと思います。しかし、その悔しい!と思えるくらいの仕事への情熱は、A社の厳しい労働下であったからこそ感じられたのではないかと思います。

そのA社の新人研修で仕事のイロハ・厳しさを教えてくれた先生が『平井さん』でした。
あの頃から22年、こうして今でも縁が繋がっていることに感謝です。
A社・平井さん・現職B社 改めて人は出会いによって育まれていくものだと実感しています。 (終)

<B社・支社長2年目 創立メンバーと 2019年。今や部下38名の組織に>
すっかり、やり手の管理職らしく貫禄・すご味がでてきましたね。



<< メニューへ戻る