蕎麦の唄 鳥取・島根・岡山・広島・山口・徳島・香川・愛媛・高知 鳥取/安来節(安来市) 安来千軒 名の出たところ 原本剣菱 お小夜(さよ)そば (アラエッサッサー) 原本剣菱とは明治中期まで酒造業を営んでいた原本家が赤崎屋の屋号で、清酒剣菱を作っていた。 お小夜ソバとは明治の初め松江藩安来お茶屋跡にあった蕎麦屋。 美人の上、安来節がうまかった為有名になった。 岡山/臼挽唄(吉備郡) 三握り一把(たば)に蕎麦一升 挽いて粉にして粉八合 団子にすれは六十三 三つは嬶(かかあ)の味きき団子 三握り一把は蕎麦を刈るとき手で三つかみを一把といい、さらに3把立てたものをソバニュウといった。 団子はこの場合は蕎麦団子である。 広島/松阪(祝儀唄)比婆郡高野町 蕎麦屋の娘の蕎麦打つ手もと ストンストンと打ち広め 向こう通るは誰かもしらぬ ちょいと寄りなされ蕎麦あがれ あなた加薬でわしゃ蕎麦で 転び合うたが縁者もの 新潟松阪ともいい新潟が発祥。江戸時代、北前船または陸路により移入され、安芸・備後で 広く歌われた。 山口/木遣唄 吉敷郡阿知須町 ハーエー目出度いものは蕎麦の花ヤーエ (ヤットコセー ヨーイヤナ) 花咲き実がのり三角(みかど)たつ 木石などを運ぶときに歌われた。旧藩時代に米を常食できたのは特権階級の間だけで、一般庶民は 蕎麦粉や麦粉が主食の一部をなしていたという。 実かのりは、主に穀物を稔るのに用いられる。 徳島/粉挽唄 臼よ早よ回(ま)え 早よ回うてしまえ 外には殿御が 待ちござる 臼のしゃくり挽きゃ 荒い粉がおりる あすのお客にはもられまい しゃくり挽きは、臼のヤリ木(挽き木)を乱暴に手元にグイット強くひくこと。そうすると臼の回転が ムラになり、粉が荒くなる。 四国の秘境祖谷(いや)は、元暦二年(1185)二月、屋島の戦いに敗れた平国盛一族郎党の 落人部落とつたえられている。 農地の少ない山間では粟・黍・稗・蕎麦が昔の主食だったため、粉挽きは婦女子に課せられた 主の仕事の一つに違いない。 せめて粉挽唄でも歌わないことには、重い石臼を回す辛い労働に耐えられなかったであろう。 香川/素麺掛唄 讃岐仏生山は 素麺所 空が曇れば 出来ぬ所作(しょさ) 仏生山は高松から約四粁のところにある。 寛永十九年(1642)、松平頼重は常陸下館から讃岐十二万石に転封、高松に入部した。 初代藩主は万一に備えて仏生山に第二の出城を築き、兵糧を確保するため高松城下の素麺業者を 強制的に門前町に移住させた。中略 所作は仕事の意。「雨が降るとて仏生山やまの御銀杏の葉が裏返す」とある通り、仏生山の素麺業者 は天候に敏感で、銀杏の葉が裏返しになれば雨が降ることを生活の知恵で知った。 愛媛/亥(い)の子唄(祝儀唄) めでたいなー めでたいなー そばほど目出度いものはない みかどよかどに花が咲く 五合蒔いた蕎麦が一もと二もとあるように エーイトセ エトエトエーイトーヤ 南宇和郡一本町で歌われた歌詞。 愛媛県の亥の子唄は、種類の多いことで全国屈指といわれている。 本県の亥の子唄の詞章は、縁起を祝う祝儀唄が多く含まれていることも、特徴の一つと言えよう。 高知/土佐踊唄(盆踊唄) り ん 扇の手6章 りんのうつりかなつかしや にほひこがるる殿はいとし 君とわれとはみはかの鏡でみてとった よしやうき名は君故よ みはかの鏡でみてとった おれが子候孫で候 まこと子なれば親にとへ みはかの鏡でみてとった あさの中にも寝てみたが 麻はものいはねば名がたたん みはかの鏡でみてとった そばのなかにも寝てみたが 蕎麦はさむらひかどらしい みはかの鏡でみてとった 磯の細石(こまいし)なみ馴れて しゅらしゅら こがるる殿はいとし みはかの鏡でみてとった 安芸郡奈半利(なはり)町・田野町・安田町で歌われた。 「山踊り」ともいい、四十八番の一つ。 北海道・青森・岩手・宮城・秋田・山形 栃木・茨城・群馬・千葉・神奈川 新潟・富山・石川・福井・山梨・長野・岐阜・静岡・愛知 三重・滋賀・兵庫・奈良・和歌山 佐賀・長崎・熊本・大分・鹿児島 蕎麦噺目次 |