これまでの「今日のコラム」(2009年 8月分)

8月1日(土)  <宇宙飛行士・・・>
宇宙飛行士、若田光一さんが昨夜(日本時間pm11:45)宇宙ステーションから地球に帰還した。宇宙ステーションでの滞在期間は4ヶ月半、迎えのスペースシャトルエンデバーは5回も打ち上げ延期になったが、若田さんはそんなことは全く関せずシャトルが着陸した数時間後(日本時間今朝早朝)記者会見をする元気さだった。・・何しろ孫娘が将来宇宙飛行士になるのが夢といっているのでいろいろと教えられる。「宇宙飛行士一覧」も孫娘から見せてもらったのだが意外な発見がいくつもあった。これまでの全宇宙飛行士の氏名、国籍、実績などが掲載されている資料だが、宇宙飛行士の国籍が37カ国に及ぶことを初めて知った。アメリカやロシア(旧ソ連)以外はいわゆる先進国の人間が宇宙を体験しているのかと思うとそうではない。例えば一人の宇宙飛行士の実績がある国はキューバ、チェコ、ポーランド、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、シリア、アフガニスタン・・という具合。日本人では、秋山(ソ連のソユーズに乗ったTBS社員だ)、毛利、向井、若田、土井、野口、星出・・と人数が多い。若田さんの場合、日本人として宇宙での最長滞在記録を達成するなど注目されたがその内通常の任務を遂行する宇宙飛行士はニュースにもならないかも知れない。8歳の孫娘が宇宙飛行士になったとしても、その時代には名前は記憶されそうもない・・。

8月2日(日)  <久しぶりの大作「バベルの塔」・・・>
久しぶりの大作「バベルの塔」(陶芸)が完成した。完成と言っても本体の焼成が終了したところで、これから頭頂部を結合して内部の仕掛けを創り上げる「工作仕事」が控えている。昨日から今日の昼前に陶芸教室へ行ってバベルの塔を受け取って来ると決めていたためだろうか、昨夜は出来上がったバベルの塔に仕掛けを施す夢を何度も見てしまった。予定通りに今日、雨の中を陶芸教室から重いバベルの塔・本体(今日の表紙に掲載)を両手に持って一歩一歩踏みしめるように歩いて家まで持ち帰った。改めて見るバベルの塔・本体は陶芸独特の"想定外”はいくつもあるが先ずは無事に焼成できたことを感謝すべきだろう。旧約聖書にでてくる”天まで届く巨大な塔(未完成)”である「バベルの塔」についてはこのコラムで何度も取り上げた<アイデイァ段階=2/24,25コラム=ここ、制作開始段階=4/24コラム=ここ、5/13=ここ>。こうしてようやく内部の仕掛け作りに入れるところまできた。旧約聖書のバベルの塔は神の怒りに触れて未完成となるが、この陶芸バベルの塔は果たして完成できるだろうか。

 8/3掲載分
8月3日(月)  <”正しい美術の鑑賞法”・・・>
”正しい美術の鑑賞法”といった教科書本を知人宅で拾い読みして余りに自分の考えと違うので驚いた。その本の序では次のようなことが書いてあった。最近の美術教育は自分で描き、制作する美術を目指して感性や創造力を開拓しようとするが皆が作者になるのではないので実技よりも美術の鑑賞法を教えるべきである。そして正しい鑑賞法によって制作者ではない大多数も美術を楽しむことができる・・。本ではその後、歴史的な名品とされる美術品のどこがいいのかを逐一解説している。このような権威ある解釈を学ぶ教養としての美術は確かにいつの時代にも存在する。しかし、構図、遠近法、色遣い、筆使いなどの権威を破壊して近代絵画が生まれたように、いつも教科書にないものを求めて発展したのが美術の歴史でもある。「学んで捨てろ」という言葉があるが、初めに学ぶことは必要だとしてもその後学んだことを捨てて自分流を見つけるのが創造である。自分で創造してみると他のものに対する鑑賞の仕方も変わる。権威にしたがった教養だけで満足するのでなく、やはり実際に自分で創作をする方が鑑賞もより楽しくなるのは間違いない。
「今日の表紙」にはバベルの塔(陶芸)に 頭頂部を取り付けた写真を掲載した。

8月4日(火)  <”行列のできる店”・・・>
”行列のできる店”といわれる食事処がある。ほとんどがリピーターか評判を聞いて訪れた客に違いない。私は特に予定をせずに不案内のところで外食する時には経験的に客が多いところを選ぶ。満員の店の隣がガラガラである場合空いているからといって隣に行くと大抵はハズレである。庶民の感覚は実に鋭く店を評価するのにはいつも感心させられる。食事が美味しくても値段が高い店には行列はできない。美味しいものは金をだせばいくらでも食べられる。庶民は値段と味とのバランスで評価する。面白いのは10年、20年を経ると評価がガラリと変わるところだ。私の家の側にもフカヒレ料理で有名な中華料理店があって時々訪れていたが2〜3年前に改装を機として大幅値上げをした。それ以降、この店には足を向けたことはない。また30年も前に恵比寿のラーメン屋でラーメンを食べたときの不味かったことを覚えていて以来一度もそのラーメン屋には行ったことがないが、最近は何と行列ができている。どうも料理人が変わったようだ。料理人が変わったり経営者が変わると良くもなるし悪くもなる。一方で味は最高級で値段もそこそこであるのに繁盛しない店も知っている。食事処のやりくりも決して楽ではなさそうだ。

8月5日(水)  <今日はマリリン・モンローの祥月命日・・・>
今日はマリリン・モンローの祥月命日。1962年8月5日に亡くなったとき彼女は36歳であった。当時私は20歳過ぎの大学生でモンローの映画は何度か見た覚えもあるが、それにしても若く亡くなったものである。ふと昨年同じ36歳で亡くなった飯島愛ちゃんのことを思い出した。マリリン・モンローといえば映画以外で、元プロ野球のスター選手であったジョー・デイマジオと結婚したことでも評判になった。映画スターとして知られるようになる前には一度16歳で結婚して20歳で離婚。2回目の結婚がジョー・デイマジオだった。ヤンキースのナンバーワンプレーヤーとして活躍したジョー・デイマジオと新婚旅行で日本を訪れて大フィーバーを起こしたが、この結婚は9ヶ月で破綻した。その次の結婚相手が劇作家のアーサー・ミラーであった。アーサー・ミラーが”私の頭脳と彼女の美貌が備わったこどもができるのが楽しみ”と言ったと伝えられて、アーサー・ミラーの肉体・容貌と彼女の頭脳を持ったこどもが産まれたらどうするのだろうと他人事ながら心配したことを思い出す。この結婚は6年間続いたが1961年に離婚。その1年後に謎の死を遂げる。睡眠薬による自殺か薬の飲み過ぎか、謀殺説まで含めて真相は分からない。最期の一年間そして死後の葬儀などを元夫であるデイマジオが面倒を見たという美談が残る。それにしても1926年(昭和ならば元年だ)生まれのマリリン・モンローは生存していれば83歳だ。マリリン・モンローは若き美しい姿のみを永遠に残した。

8月6日(木)  <久しぶりに「夢十夜」・・・>
久しぶりに「夢十夜」をインターネットで読んだ。夏目漱石の小説「夢十夜」の第一夜は「こんな夢を見た」ではじまる。第十夜まで続く夢の世界は怪談を思わせる趣向もあり夏に相応しい。そう思って調べてみると、この小説は101年前、1908年(明治41年)の真夏、7月25日から8月5日に新聞に連載されたとあった。第一夜の夢:「腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う・・」。そして、死ぬ間際に「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と頼まれる。夢の最後は真っ白な百合が現れて”「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた”で終わる<インターネットでの夢十夜=ここ=>。漱石がこの時にどんな想像をしたか知れないけれども、漱石がこの小説を書いたまさに百年後の今「夢十夜」を読んでいる「現実」に身震いがする。

8月7日(金)  <奈良の大仏・・・>
奈良の大仏の「お身ぬぐい」が今日東大寺大仏殿で行われたと報じられている。大仏さん、つまり盧舎那仏坐像の埃を落とす年に一回の大掃除、写真で見ると埃を払う僧侶の身の丈が大仏の瞼(まぶた)から額の中央ほどである。坐像の高さで約15mある大仏を初めて見たのは小学校の修学旅行で奈良を訪れたときであった。その後何度か見る機会に恵まれたが、その都度見方や感じ方が違ってくることに気がつく。国宝の盧舎那仏像を仏像として鑑賞するのも楽しいが最近はこのような巨大鋳造物を造り上げた技術にも感心する。大仏の鋳造を開始したのが747年(天平18年)、2年後の749年に鋳造が完了。最終的な完成は752年とされる。青銅(ブロンズ)でこれだけのものを鋳込むためには鋳造以前の準備にまた膨大な時間と技術的な検討を要するのは言うまでもない。集中した政治権力、まとまり、若い理想などがそろってはじめて達成できた国家的な大プロジェクトであっただろう。一方で、”大仏などに金をかけるなら米をよこせ”の要求もあったに違いないが・・。それにしても世界中の歴史遺産は<イタリアやフランスは勿論のこと中国やロシアでも>大権力者が当時は浪費とも思われる大建造物を造り上げたものが大部分である。現代人は幸いに(?)新たな歴史遺産をつくることには関与せず、ただただ過去の歴史遺産に感心している・・。

8月8日(土)  <ホットドックを食べながら・・・>
ホットドックを食べながら「ホットドッグ」とは奇妙な呼び名だ、語源は何だろうと疑問を持った。土曜日のテニスの順番をとってからファーストキッチンで一人朝食を取り始めた時の話で待ち時間がたっぷりあったので自分で考えてみたけれども面白そうなストーリーは思いつかない。結局家に帰ってインターネットで語源を調べてみた。諸説あるようだが主流は以下と解釈した。アメリカではソーセージのことを俗称でドッグと呼ぶ。これはフランクフルトソーセージがその細長い形状から胴長の犬、ダックスフントに似ていることからダックスフント・ソーセージと呼ばれたことに始まる。熱い「ダックスフント・ソーセージ」を細長いパンではさんだサンドイッチは大評判になり”HotDachshundはいかが!”と売られているところで、Dachshundという難しい単語でなくを"HotDog"に変わっていった。・・Hot Dogを調べていると、別の意味がまた興味深かった。辞書にはHot Dogの別の意味として「(米口語)そのとおり、すてき<賛成や喜びの気持ちを表す>」とある(研究社英和)。一方、Wikipediaでは「有能だが自己顕示欲の強い人物の喩えとしてやや皮肉っぽく用いられることがある。これは、ホットドッグに用いられるソーセージは常にバンの全長より長く、両端が外にはみ出していることが通例であることに由来する」と解説されている。研究社の意味も実は”あなたのいうことは他人より少しはみ出していて賛成”と皮肉っぽいニュアンスがあるのだろうか。

8月9日(日)  <裁判員制度・・・>
裁判員制度が施行された最初の裁判が先週行われた。裁判の進行状況が現場から逐一報道されたので普段は縁のない裁判の経緯や判決を知ることとなった。それにしても殺人者に対する罰が何と軽いことか、そして被告に対する弁護が何と優しいことか。先週のケースでは判決は懲役15年、被害者と加害者がちょっとしたトラブルがあったことで加害者を弁護するがそんなことで人間一人を殺す理由になるものかと思う。この場合は加害者は年寄りだが20歳の若者であると人を殺して35歳で社会に復帰することになる。一方、今日のニュースではノリピーこと酒井法子が覚醒剤取締法違反で逮捕された。こちらの方は例によってマスコミから袋だたきにあっているので逆に弁護したくなる。確かに法律違反ではあるが他人を傷付けたのでもなく勿論殺したのでもないのにこの騒ぎだ。殺人者の刑罰の軽さを見てくると彼女の場合は周囲はもっと温かく見守って再起させてもいいのではないか。・・あれやこれやで私は裁判員になれないと自覚した。

8月10日(月)  <現物合わせ・・・>
「現物合わせ」の工作を続けている。表紙に写真を掲載している陶芸作品「バベルの塔」に内蔵する"仕掛け”作りである。「現物合わせ」とは既に出来上がっている実物の寸法に合わせて関連する部品を製作する手法。普通の量産の場合はこんなことはやらない。木工でも鉄工でも例えば容器のボルト穴の寸法を標準の寸法で完成させ同時に蓋の穴を単独で加工してもぴったりと合体させる事ができる。ところが今回の陶芸の場合穴のピッチや穴径など規則性はないし焼成時の収縮もありどう仕上がっているか分からないので、それに合わせるには相手合わせ=現物合わせしかやりようがない。「バベルの塔」の内部には予め仕掛けを取り付けるためのボルト穴が開けてあり、付属させる部品はサイズや位置、高さ、幅など全て現物合わせという訳である。現物合わせのは手間はかかるが世界でただ一つのモノが出来上がる。・・ところで教育の分野でも現物合わせのやり方がある。平均的なレベルを保つ意味では効率的で画一的な義務教育が施行される。けれども人間の適正は千差万別で同じ素材ではない。いま世界の舞台で活躍する日本人を思い浮かべると、その人に最も合致した「現物合わせ」的な学習をした人ばかりにみえる。規格教育のみからは標準品ができあがる。逆に規格教育ではハズレの人もその人の特性に合わせたものを学べば最大限に個性を発揮できるだろう。「現物合わせ」を疎か(おろそか)にしてはならない。
8月11日(火)  <”内蔵装置”・・・>
”内蔵装置”は「バベルの塔」(陶芸)には不要かも知れないと悩む。それでも出来上がった「内蔵装置部分」の写真を「今日の表紙」に掲載した。昨日のコラムに書いたように、焼き物で制作した「バベルの塔」に対して「現物合わせ」で造り上げた"仕掛け”が今日掲載した装置である。螺旋状の棒を持った中央部の部品は鋼球を上部に持ち上げるためのリフト装置。板の裏にあるシンクロモーターで駆動される。隣には明かり(電灯)も取り付けた。この装置は塔の内部に組み込むと外部からは一切見ることができないので、あえて「今日の作品」として掲載した。今回の陶芸では「バベルの塔」の形状からヒントを得て、塔の最上部から鋼球が転がり落ちる構造体を作った。螺旋状の城壁を転がりながら途中で左右に道が分岐するようにして7層の城壁を最下部まで落ちるまで経路は128通りある。冒頭に”不要かも知れない”と書いたが、鋼球を手で転がすだけで球の通る通路を見ていると結構面白い。これを自動的にリフトで持ち上げると自分で転がす快感がなくなる。更に、陶芸作品として「バベルの塔」を鑑賞してもらうには「球」も余計かも知れない。装置が面白いと陶芸の方には関心を持たれないという経験を何度もした。「バベルの塔」は既に"仕掛け付き”で進んでいる。内蔵装置はいいとして陶芸を見てもらう工夫もしたい・・。


8月12日(水)  <一日一善・・・>
一日一善という言葉を最近聞かなくなった。どうしてだろうと考えてみると思い当たることがある。30数年前にテレビで毎日おじいさんが現れて「一日一善!」といって叫ぶコマーシャルが長期間続いたことがある。おじいさんとは競艇の創設者であり戦前、戦後を通じて隠然たる政治力を持った右翼系の大物、笹川良一氏であった。笹川良一=一日一善のおじいさんのイメージが出来上がってしまったので、その後「一日一善」をあえて持ち出すのに抵抗を感じる人が多かったに違いない。それにしても今また「一日一善」はもっと普及させてよいのでないか。特にこれからの高齢化社会でお年寄りに一日一善の考えが浸透すると社会が住みよくなるのでないかと思う。「一善」とは自分のためでなく他人のために行うことである。本来人間は自分のためよりも他人のために行動しようとする方が力(エネルギー)がでる。他人の喜ぶこと、社会が喜ぶことをお年寄りが実行すれば社会が明るくなると同時にお年寄りも元気になるはずだ。大した"善”はいらない。ゴミを拾う、近所の人に挨拶をする、声を出して感謝する、できれば相手を勇気づける・・などやる気になれば誰でもできるだろう。けれども「一日一善!」と説教すれば笹川コマーシャルのように敬遠されるところが問題だ。先ずはささやかでも自分でできることを実行するのみか・・。

8月13日(木)  <犬も扇風機を喜ぶ・・・>
犬も扇風機を喜ぶことを発見した・・。いつものように我が家の老犬アール(コーギー犬)を車椅子で散歩に連れて行った後、夕飯を与えて水もたっぷり飲ました。そして部屋で私が扇風機を浴びながらパソコンを始めるとドアの側にいたアールはヒイヒイと悲しそうな声をだす。そこで扇風機をアールの方に向けてやると気持ちよさそうにして眠り始めた。犬も扇風機は好きなのでないか。アールと私はこの夏、同じ部屋に寝ている。昨夜はやはりヒイヒイ泣いて夜中に何度も起こされた。水を与えても飲まないので、外まで連れて行って排泄させようとしたが無駄足だった。何を訴えようとしているのか分からずガマン比べをしてその内眠りについた。今夜もし同じことを訴えたら扇風機を回してやろうか。・・毎日蒸し暑い日が続く・・。
8月14日(金)  <山城新伍さん・・・>
山城新伍さんが亡くなったという記事をみた。山城新伍さんは私より二つ年上、ほぼ同年代であるがもっと若くして亡くなる人はいくらでもいるので驚かない。それより70歳にして特別養護老人ホームで死去したところが痛ましい。糖尿病(一部では痴呆症も)を患っていたと伝えられる。元夫人の女優花園ひろみさんとは二度結婚し二度離婚したという経験を持つ。一人娘とも絶縁しているので喪主は弟さんとか・・。山城新伍さんといっても白馬童子の主演で人気になった時代のことを私は知らない。専らテレビのバラエテイー番組での歯切れの良い語り口が印象に残る。誰に遠慮することなく言いたいことを言ったけれども自分の身内をも味方にできなかったのはよくあるパターンではある。家庭とは無縁であっても恐らくは我が人生悔いなしと思って逝ったに違いない。合掌・・。

8月15日(土)  <炎天の 地上花あり・・・>
「炎天の 地上花あり 百日紅」(高浜虚子)。「百日紅」は「サルスベリ」と読む。猿も滑ってしまうほどにスベスベした樹皮の「サルスベリ」に「百日紅」の漢字が当てられるのは夏の時期に比較的長期間紅色の花を咲かせるからという。いずれにしても「サルスベリ」は猛暑の中で元気よく咲き誇る。今日訪れた九品仏浄真寺(東京世田谷区)でも本堂の脇に大きなサルスベリがピンクの花を咲かせていた。このサルスベリの樹の直ぐ側に湿地(人工的な池)があり、これもまた真夏の植物である鷺草(サギソウ)の白い花を見つけた。白鷺が羽根を広げた形にみえる可憐な白い花が群生している様はやはりこの季節でないと見ることができない。後で調べるとサギソウは世田谷区の「区の花」になっている。サギソウの花言葉は「無垢」、「夢でもあなたを想う」、「芯の強さ」とか。・・この日真夏に美しく咲く百日紅と鷺草の花がいっとき猛暑を忘れさせてくれた。<下の「今日の写真」に掲載した鷺草は特別に拡大写真のパートを作ってみた>
 
2009-08-15@九品仏浄真寺<百日紅>        <鷺草>拡大版=ここ

8月16日(日)  <スーパー楕円皿・・・>
「スーパー楕円皿2(陶芸)」を今日の表紙に掲載した。今日久しぶりに陶芸教室に顔をだすと新しい「スーパー楕円皿」が二枚出来上がっており、その内の一つを掲載したものである。このところ陶芸作品といっても"バベルの塔”の仕掛け工作を家でやっているので陶芸教室とは疎遠になっていたが、教室に行くと刺激を受けてやはり自分でも粘土をこねる陶芸をやりたくなる。さて今日の「スーパー楕円皿」でもいろいろと学習をした。スーパー楕円皿の形状や模様は7月14日に掲載したもの(7/14コラム参照=ここ=)と同じである。線の模様は白萩という釉薬をスポイトで描き、釉薬が乾燥した後その部分だけを蝋抜きをする。そして皿全体を次の釉薬に浸すと模様の部分には後の釉薬がかからず模様が浮き出ることとなる。この皿の場合、後の釉薬はイラホを使った。イラホは通常茶系であるが、この皿の内側には分厚く釉薬が残ったためにねずみ色が強くでた。私はこの色調は嫌いではないが想定した茶系とはかなりズレがあった。釉薬でも織部とか天目などはむしろ厚めの方が色が明瞭にでる。思い通りの色調を得るには釉薬の種類によって厚さをコントロールしなければならない。
でもこの皿は出来上がったこのままの姿でいい・・。

8月17日(月)  <クスノキは残った・・・>
クスノキは残った・・。毎日犬の散歩でクスノキの巨木を見る度にそう思う。朝の6時半頃にアール(コーギー犬)を車椅子に乗せてゆっくりと朝の散歩に出るのであるが、最近はクスノキの下で一休みすることが習慣になった。そこで巨木を見上げて深呼吸してから帰途につく。以前クスノキの写真付きでこのクスノキのことをコラムを書いた覚えがあるので調べると4月29日のコラムだった(=ここ)。樟脳の原料にもなるクスノキは太古から日本の森林に自生する植物でなく人里近くに多くみられる外来種でないかともいわれる。神社林では樹齢千年以上のクスノキの大木もあるそうだ。毎日訪れるクスノキは今は東京の都心、旧山手通りのヒルサイドテラスとデンマーク大使館の間にある。このクスノキの樹齢は分からないが、少なくとも江戸時代からは続いていると思われる。江戸の末期のこの辺りは何もない野原で狐狸の世界。その後、明治、大正、昭和そして平成と徐々に開発されていく様をクスノキは絶えず見続けてきたことになる。その間よく伐採を免れたものだがクスノキが残って幸いなのは人間の方だろう。このクスノキはいまやかけがえのない自然遺産である。
2009-08-17クスノキ@東京・代官山

8月18日(火)  <セミの死骸・・・>
セミの死骸が急に目に付くようになった。私の家は東京・渋谷区の半住宅街にあるが朝夕の犬の散歩あるいはが外出する際に道路上にセミ(蝉)の死骸をよくみかける。蟻が死骸にとりついていることもあれば羽がもぎりとられて転がっていることもある。都会では虫や鳥、動物の死骸を見かけることは普通ほとんどない。そのためセミの死骸は特に強烈な印象を与える。私はセミの死骸から仏陀の「捨身飼虎」の話を連想した。ブッダが飢えに苦しむ虎のために自らの身体を与えたように仏心の強いセミたちは死後の身体を他の動物のために差し出している・・。仏心があるかどうかはさておき、セミの死骸をこの時期に特別目にする理由はそう複雑ではなさそうだ。一つは私自身、今年の夏にはアール(犬)の散歩の時に前後の道路を目を皿のようにして注意していること。車椅子で移動する犬がウンチを落とすことがあるので道路に少しでも黒い異物があると一つ一つ確かめる。それにしてもセミの死骸が多いことは事実。これはセミの死期が夏の短い期間に集中していることとセミの絶対数の多さであろう。セミは夏に成虫になって2〜3週間から一ヶ月すると全て死に絶える(以前は1週間という説もあったがそれほど短くはない。また寿命という意味では幼虫の時期を入れると十分に長い)。大量のセミが大声で鳴き始めて、次に一斉に死ぬのであるから死骸が目立つのは当然ではある。このような動物は他にいないのでないか。以前(2007年9月7日コラム=ここ)17年とか13年毎に大量発生する素数セミのことを書いたことがあるが、セミの世界も知れば知るほど奥が深い。<セミのお勧めサイト=ここ
「今日の表紙」は「スーパー楕円皿」(陶芸)の 続き。主釉薬は織部を使用したもの。


8月19日(水)  <モノクロの世界・・・>
モノクロの世界もまたいいものだと悦に入っている。パソコン画面の背景を白黒写真に変えたのである。アップルパソコンのできあいの背景写真であるがこれまで自然、植物、アブストラクトなどカラーものを使ってきたが今回モノクロ写真にしてみると気分が一新する。色がない分、構図や濃淡に敏感になるしカラー以上に画像を細部にわたって鑑賞するようになった。ところで犬が見ているのはモノクロの世界だと昔聞いたことがあったが、最近は単色(モノクロ)ではなく三色(紫、青、黄色)は識別するというのが定説らしい(学説はしばしば変わる!)。少なくとも犬にとっては色を知覚する能力はそれほど重要でなかった。その代わり動体視力は数百メートル先の動きを識別するすばらしい目を持っている。人間や猿などの霊長類は色彩が豊富な果物などを食料にしていた関係で色彩を感知する能力が発達したとされるように全ての動物は生存に必要な知覚能力が備わったと見るべきなのだろう。モノクロ写真に見るように色がなくても美しい世界が広がる。一方で人間は色が見えることを幸いなこととして色に対する感動がなければ色彩感覚は退化するかも知れない。

8月20日(木)  <47年前の楽器仲間・・・>
47年前の楽器仲間が集まった。大学で機械工学を学びながら楽器を持ち寄って合奏を楽しんだ8人のグループがあった。8人の内、クラリネット、フルート、トランペットを担当していた3人は既にこの世にいないため今回5人が集まったのである。私ともう一人のバイオリン担当がどうしてこのグループに参加したのか話題になったが誰もはっきり思い出せなかった。私自身、なぜグループに加わったか全く記憶にない。それでも演奏場として順に家庭を訪問した際にそれぞれの親(母親あるいは父親)から受けた親切だけは皆が鮮明に覚えていた。一方でそれぞれの家は今ではほとんど昔の姿はないという。売却後整地されたとか、建て替えられた、転居したなどで以前の面影は見られないのである。私の家についても平屋建ての応接間(今はない)で遊んだと言われて初めて当時の家を思い出した。・・昔の思い出に浸る趣味はないが、次世代の人に記憶されるには親切にすることが一番のようである・・。
8月21日(金)  <恐竜ロボット・プレオ・・・>
恐竜ロボット・プレオを孫娘が持っているので見せてもらった。”見せてもらった”と言うより”遊ばせてもらった”というべきかも知れない。プレオ(pleo)はアメリカのUgobe社が開発した恐竜の赤ちゃんの形をしたいわば癒し系のロボットだ。生後一週間の恐竜をモデルにした恐竜が赤ちゃんの時期から青年期まで学習しながら成長する。38個のセンサーを搭載して周囲の環境に応じて反応する。接し方で性格も変化するし感情表現も変わるから生きている動物を扱うような緊張感がある。これまでは「癒し系ロボット」など余り評価していなかったがこれは実に良くできている。相手が欲しい老人にもこの種の癒しロボットは十分満足を与えるのでないか。インターネット・YouTubeでPLEOの動画をいくつも見ることができる(例えば=ここ=)。プレオはこんなにすばらしいのに今年の4月に製造元のUgobeが破産手続きを開始したと報じられた。製品の質と経営は別なのか・・。それでも幸いプレオの販売は続けられているようだ。


8月22日(土)  <秋葉原・・・>
秋葉原を久しぶりに訪れた。目的は陶芸の付属部品用の特殊なスウィッチを探しにいったのだが直ぐに気に入ったものを見つけて手に入れることができた。その後、部品街をゆっくりと見て回った。部品を扱う店も時代を反映するので店頭に並んでいる部品を見ると最新の技術レベルが分かる。例えば、CCDカメラ(ChargeCoupled Devise=電荷結合素子)の類は一昔前と比べると格段に種類が増えている。防犯カメラから超小型CCDカメラ、パソコン装着用など見ていて飽きないが携帯電話用のCCDを考えると超小型も当然といえる。ところで秋葉原はいま再開発の真っ最中である。数年後にどのような姿になるか注目するところ。その際にもし「部品街」が生き続けなければアキバの魅力はなくなる。今既に駅前(電気街の反対側)にビッグカメラが進出しているが、ビッグカメラ、ヨドバシ、ヤマダ電機が並んだとしても秋葉原に行く意味はない。それならば新宿でも渋谷でも間に合う。電気部品は秋葉原の独壇場であったが、将来の強敵はネット販売であるかも知れない。いずれにしても、ここしかないマニアックな商品(部品)を扱い、ここが一番安い、ここにいるだけで楽しい・・そんな秋葉原となって欲しい。

8月23日(日)  <男か女かを判定・・・>
男か女かを判定することなど簡単だと思うとこれは大間違いである。今ベルリンで開催されている世界陸上、女子800mで優勝したキャスター・セメーニャ選手(南アフリカ)の性的疑惑が浮上し国際陸連が医学的な調査を開始するとの報道は改めて性別判定の微妙さ、むつかしさを教えてくれる。とにかく外見だけでは男女を決められないというから始末が悪い。染色体と呼ばれる遺伝情報を担う物質(塩基性の色素で染色されるので昔この名が付けられた)で男女が区別されるとされたが、これも単純にはいかないようだ。女性の染色体はXXで細胞を顕微鏡でみるとXは赤く光るから、これが20〜30%あれば女性の証明になるとか、男性のXY染色体のYがあると蛍光染料で染色された細胞は紫外線を受けると青白く光るので女性はこれがでなければよいとされるが、何ともボーダーラインが不明確だ。もちろん大部分の場合は単純に判定できるであろうが、性には両性具有とか性転換とか男女の境目が微妙なケースが存在するので分からなくなる。XYの染色体に更に女性分のXが加わりXXYの染色体組み合わせとなった場合見かけ・特性は女性だがYがあるため男性と判定されることもあるとか。オリンピックに関しては性の手術を受けた場合でも条件付きで出場を認めているという。記録を競うスポーツでなければ男でも女でもどうでもいいのであるが・・。

8月24日(月)  <夕方猛烈な雷雨・・・>
夕方猛烈な雷雨が一時間ほど続いた。今日は昼前には天気が良かったので洗濯物や布団類を干したまま外出していたが、午後、外出先から戻って直ぐに干し物を取り込んだので間一髪でセーフ。久しぶりに聞く雷鳴そして稲妻は都会の真ん中でも圧倒的な自然の力を思い知らせてくれる。恐怖よりもむしろ大スペクタルを見ているような清々しさを感じる。「雷鳴に パソコンを切り 汗を拭く」のが私の具体的な行動であったが、今も昔も変わらぬ季節モノだけに、先人の俳句も多い。「稲妻や うっかりひょんとした顔へ」と詠んだのは一茶。また、「あの雲は 稲妻を待つ たよりかな」(芭蕉)、「稲妻に こぼるる音や 竹の露」(蕪村)。更に最近の人の俳句で次のような句を見つけた:「いつしかに次の稲妻待つ心」。今日の雷雨でもこんな心情になった。

8月25日(火)  <東京タワーの展望台・・・>
東京タワーの展望台にのぼった。東京タワーができたのは1958年(昭和33年)12月。私が初めて東京タワーに登ったのは中学の頃の友人が上京して来たときで、確かタワー完成の一年後であった。その後、展望台までいったことはないので今日は50年振りということになる。地上120mの展望台から更に100m上の特別展望台までいったのは今日が初めてである。それにしても地上220m余の特別展望台からは少しは他のビル群を見下ろす感覚になるが展望台の高さ(120m)であると他のビルと同等に感じる。以前のようにずば抜けた高さを感じないのがむしろ驚きであった。電波塔としての東京タワー(高さ約333m)は現在墨田区押上に建設中の「東京スカイツリー」(高さ610m、2012年完成予定)に取って代わられる事になっているが、その後の東京タワーはどうなるのだろう<ちなみに東京スカイツリーの特別展望台は高さ450mとか>。いずれにしても今日の東京タワーは年齢の衰えは微塵も見せず観光客でにぎわっていた。
 
2009-08-25@東京タワー          芝公園より


東京タワーの直ぐ隣(南東)には鬱蒼とした樹木がある。木々に囲まれた渓谷を降りると「もみじの滝」という滝もある。掲載した写真は森の中の祠(ほこら)から東京タワー方面を撮った。赤い影が東京タワー。
8月26日(水)  <バベルの塔用スイッチボックス・・・>
「バベルの塔用スイッチボックス」(陶芸)を今日の表紙に掲載した。陶芸作品として制作した「バベルの塔」には仕掛けがある。鋼球が頂上から転がり落ちること、128通りの経路を変化しながら球が振り出しに戻った場合リフト装置でまた頂上まで自動的に戻すこと、振り出しのコースと別にパラダイス(休息)コースの終点があること、鐘を鳴らすこと、崩壊した塔の一部を橋で渡ること、内部に明かりをつけることなどなどである。「スイッチボックス」は、このうち電源を必要とするリフト装置と照明のスイッチをまとめたもの。はじめは出来合いののon-offスイッチを付けていたが、バベルの塔本体とどうしても上手くマッチしないので粘土で専用の箱を制作することとした。手持ちの黒泥粘土を使い小物なので自分の窯で焼成し秋葉原で購入したスイッチを取り付けて完成させた。スイッチまで気を配ったのは教室の陶芸展が9月に開催されるので「バベルの塔」をみなさまに見ていただこうという動機があった。実用にもならない陶芸オブジェとか遊具はやはり人前に出して何らか感情の交流があるとやり甲斐になる。モノツクリは自己満足ならともかくしばしば満足しないで妥協する。自己妥協に陥るのを防ぐのが他人の目かも知れない。


8月27日(木)  <自動車の騒音・・・>
「自動車の騒音」という言い方を変えなければならない。最近は「自動車の最低騒音を法令で定めるべき」(英国・ロータスグループ)との意見まである。言うまでもなく電気自動車やハイブリッドカーの走行時の音が非常に静かであるので自動車が近づいてきても感知できない危険性が指摘されているのである。電気自動車などで人に接近を知らせるための騒音発生装置が真面目に研究されている。今日のニュースで中学生がどんな自動車にでも車輪に取り付けるだけで低速走行時(20km以下)に音を発生させる装置を発明したとの記事があった。細長いケースの中にコイン状の金属を入れておくと高速時は遠心力で移動しないが低速になるとカチャカチャ音がするという機構でなかなかよく考えてある(記事=ここ)。私の体験としては細道で自転車が後ろから接近してくるのが分からず危ない目に会ったことが何度もある。特に電気自転車は音もなくスピードをだしているので恐ろしい。一般の道路でもたまに電気自動車に出会うと確かにこれまでのエンジン音がないので戸惑う。「騒音」とは「・・不愉快で不必要な音」(新明解・三省堂)とあるが、もはや「自動車の騒音」と言ってはならない。自動車に必要な音が求められる時代になった。

8月28日(金)  <彼(彼女)と価値観が異なる・・・>
”彼(彼女)と価値観が異なる”といっても、同じ日本人の場合「自然観」がそれほど違いないことが多い。世界の人と付き合う場合、自然観が全く異なることは不思議ではない。自然観は宗教観につながる。本を読んでいると以下の興味深い記述があった。モーセが神から十戒を授かったとされるシナイ山(シナイ半島)には今は誰でも登ることができる(姉が登ったときの写真を見せてもらったこともある)。日の出に合わせてと登ってきた多くの巡礼者は日本人のように日の出に合わせて合掌することは決してしない。旧約聖書のヨブ記によると「わたし(ヨブ)がもし日の輝くのを見、または月の照りわたって動くのを見た時、心ひそかに迷って、手に口づけしたことがあるなら、これもさばきびとに罰せられる悪事だ。わたしは上なる神を欺いたからである」とある(31章、26節)。唯一の神以外に心を動かされる、感動することは許されない自然観、宗教観は日の出に合掌することも悪事になってしまう。同じく旧約聖書の申命記によると「・・わたし(神)の禁じる日や月やその他の天の万象を拝むことがあり、・・そのことが真実であり、・・行われていたならば・・その男子または女子を石で打ち殺されなければならない・・」(17章、3〜5節)とある。名月に感動して拝んでいると打ち殺される宗教がこの世にはあるのである。価値観の違いを理由にすると世界中の問題を解決することができないと云われる。価値観の基本となる自然観、宗教観が異なる世界中の人間とそれでも理解し合わなければならない・・。

8月29日(土)  <出処進退・・・>
出処進退の清い人が好きだ。「出処進退」の言葉通りでいえば「官職や地位にとどまること、辞めて退くこと」、「身の処し方」であるが、意味としては”退き際”が美しいかどうかを見たい。ところが出処進退を自分で判断する立場になると人は本性が現れてしまう。一生辞めることのない社長がいるかと思えば、"引退する”といっても人事権を握った会長に留まる御仁もいる。首相まで務めた人が引退後も政界で隠然たる影響力を行使するのも実は退きたくない本性がみえて醜い。出処進退の英訳を「one'snext course of action」とした資料があったが、米国の場合、大統領経験者が独特のコースを選択しているところが興味深い。カーターやクリントンなどのように引退後の政権に口出しをすることはなくても、元大統領の知名度を活かして一般の外交官ではできない外交的な動き(自国に有利となるアクション)をするケースもある。日本の政治家も引退後は派閥の親玉などを続けずに別のコースを選べないものか。明日は衆院選。首相経験者が何人落選するかを注目している。

8月30日(日)  <アメリカノウゼンカズラ・・・>
アメリカノウゼンカズラが残暑の中でまだ咲いている。夏の花は生命力が旺盛で、弱音をはきそうな人間を元気づけてくれる。アメリカノウゼンカズラの名は最近になって覚えた。ラッパの形をした真っ赤な花を青空の下に咲かせる(写真例=ここ)。ただの「ノウゼンカズラ」は大きく派手な花であるが形状がラッパでなく広い漏斗(じょうご)形である(=ここ)。「ノウゼンカズラ」の「カズラ」は「つる植物」の総称で漢字では「葛」、あるいは「蔓」と書く(「つる」の漢字も「蔓」)。○○カズラと名がつく植物は多く、羅生門カズラ(写真例=ここ)など興味深い「カズラ」がたくさんある。ところで昔は「つる草を頭に飾ったもの」をやはり「かずら」と云った。そう、「かつら(鬘)」の語源は「かずら」が変化したものである。話を元に戻すと、「ノウゼンカズラ」の漢字には「凌霄花」という難しい字を当てている。「ノウゼン」の方の語源は凌霄(りょうしょう)が変化したとか平安時代の古名「のせう」が転じたとの説があるようだ。中国原産の古い「ノウゼンカズラ」に対して、「アメリカノウゼンカズラ」は大正時代に北アメリカから渡来したとか。この夏、アメリカノウゼンカズラの花を見られる日はもう残り少ない・・。

8月31日(月)  <歴史的大敗の原因・・・>
歴史的大敗の原因分析は容易ではないようだ。衆院選挙で自民党が惨敗し(改選前300議席→改選後119)、民主党が大勝した(改選前115→308議席)ことについて、自民党麻生首相は「自民党政治そのものに対する積年の不平、不満があった・・」などとコメントした。そうではなく「大敗」の要因で大きいのはやはり麻生さんへの不信感ではないか。候補者の人格、見識と関係なく自民党候補へ投票すると麻生さんが続けて政権を担当することに抵抗を感じた人も多かったに違いない。当然、こういう総裁を選ばざるを得なかった自民党体質(長老がまだ生き残っている)への違和感が底流にあるだろう。選挙は細かい政策論争以前にチョットしたきっかけで流れが変わる。敗れた原因分析以上に難しいのが圧勝した民主党側の分析だ。圧倒的に自分が強かったのでなく余りに相手がひどすぎた。敵失、エラー続きの勝利と思って気を引き締めなければならない。それにしても惨敗でも大敗でも命がなくなるわけでなし牢獄につながれるでもなく家族が路頭に迷うこともない。民主主義っていいですね・・。
「今日の作品」として「スーパー楕円皿4」(陶芸)を表紙に掲載した。スーパー楕円皿のいろいろなパターンを試みている中の一つ。


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