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わく星学校のスタッフ、こども、親の会などから寄せられたコラムです。

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「わく星学校の歩み」

山下 敬子(スタッフ)

  「こどもとゆく」という20年ちかく出し続けているオルタナティブ教育関係のすばらしいミニコミ雑誌が「わく星学校」特集をしてくださることになり、わく 星学校の歴史を書く機会を得ました。それでわく星学校の歴史をひもとこうと整理片付けが嫌いなわたしもついに、重い腰を上げ古い日記や写真を出してきたの です。
 それらの記録を見ていると子どもたちや親御さんやわく星スタッフ、わく星を囲む人々の日々の笑いあり涙ありのエピソードは面白くて、楽しくて、ユニーク でとても原稿用紙にはおさまりきらず、ああでもこうでもないと無い知恵を搾り出して書こうとするうちに、ひと夏があっというまに過ぎてしまいました。なる ほどわく星はこのたくさんのすばらしい人々の熱いエネルギーのおかげで今日まで継続できたんだなあとつくづく感心させられています。でもやっぱりこれらを 我が家のホコリまみれの押入れに閉じ込めていてはいけないと、記録を私なりにまとめてみました。稚拙な文章ですがよかったらおつきあいください。そしても し思い出された事があったら「こんなこともあったよ。」とか「いえいえそれはこうだったのよ」とお知らせください。
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■ 設立まで(1989年から1990年まで)

 スタートは私の話からで恐縮だが、はじめは一人だったからしかたない。
 私はわく星をはじめる前は13年ほど公立小学校の普通学級と障害児学級の担任をしていたが止めた。
 障害児のクラスをもっていたとき、教育観ががらっとかわった。「学校」という制度は本当は「子ども」のためにあるんじゃないなと感じていた。子どもの育 つ場はカリキュラムやマニュアルのコンクリートの箱ではなく開かれた場所で、人と人の交流のある生活の中だと思った。障害児学級で担任していた子どもは多 動でいつも外に出たがった。毎日近くの河原をいっしょに走り、その子たちが見てるものをいっしょに見入った。ある晴れた日、川面に飛んで水面に下りてくる 白い水鳥の影がコンクリートの岸壁のスクリーンにくっきりと映っていた。白い実像と黒い影、鳥が水面に着水したとたん一つになる。その不思議な光景に子ど もは声をあげた。その光景にみんながその場で飛び上がって笑った。世界の美しさに手を取り合って歓喜したのだ。共にそこにあることが本当に幸せだと思った 瞬間だった。必要なことはその子どもが選び、自分らしいやり方で学んでいくんだと学級の子たちから教わった。
 時代は日の丸・君が代の法制化や養護学校義務化など管理教育体制がきびしくなり始めていたころで「障害児を普通学級に」の運動や、反原発運動など学校外 とつながりができると、学校の先生であることが窮屈でいやになった。反原発高松集会に行った時に親子でテレビに映っちゃって、京都にかえってきたら「先 生、テレビでみたよ」とか子どもに言われて、それで「親戚危篤で休みます」もバレたりして、地域の障害児の集会で発言することもいろいろ規制された。
 子どもときからずっとなりたかった学校の先生だったし、いい先生になりたかった。でも自分のなりたい先生になろうとすればするほどうまくいかない。学校 を止めようかずいぶん迷った。幼い子ども二人をかかえた母子家庭である自分の生活を考えると簡単に退職できる状況でもなかった。悩んでいた時は辛くて、不 登校になる子どもたちにも近い気持だったと思う。
 そんな1988年当時、地球学校の児島さんや関西のフリースクールの人々に出会った。そしてぼんやりとオルタナティブな道もあるのではと思いだした。 「こどもとゆく」も児島さんに「敬子さん、すばらしい雑誌出してる人がいるねん。」と例の口調で紹介してもらった。
 学校を止めてすぐ1989年4月にバークレーの舞踏家玉野黄市・ひろこ宅に行って、親子でやっかいになりバークレーの人々にアメリカ放浪旅のハウツウを2ヶ月間しこんでもらった。
 地球学校の児島さんの呼びかけでやっていたオルタナティブスクールツアーにいれてもらった。オレゴンであったNCACS大会(national coalition alternative comyunity school)に参加した。そこでアメリカのフリースクールの人々とすごい出会いをさせてもらって目がさめた。オルタナティブというのはこういう道のことかあ!と驚いた。
 まさに子どもが主人公。子どもたちが「自分のことは自分で決める」という民主主義の原則のもと自分の考えを自分の言葉で表明し、大人が対等と議論していた。学校はこどもたちのものだもの、子ども達によって運営されなければ本物ではない。
 私が混乱していたことは一気に解決した。そうか、わたしはこういう学校を求めていたんだと思った。びっくりしている私に「敬子さんのフリースクールはもう始まってるんですよ。」と児島さんたちに励まされたのは今でも覚えている。
 そのまま私たち家族3人は、一年間フリースクールの旅にでた。1年かけて50校以上訪問した。当時は70年代雨後竹の子式にできたアメリカのフリース クールは数は減り始めてはいたが、形を変え進化した新しいタイプのオルタナティブスクールができはじめてまだまだ活気があり、私たちは民舞、折り紙や書 道、気功、日本料理などをスクールの人たちといっしょにやって親やスタッフの家で泊めてもらった。フリースクールは1週間から2ヶ月位滞在したものもあっ た。長期のものだけあげると以下のところだ。
 4月カリフォルニア州からプレイマウンテンスクール、5月バークレーのマグネットスクールや数々のオルタナティブスクール。オレゴン州ペトロリアハイス クール、6月はそこからテキサス州やニューメキシコ州のあちこち、サンタフェコミュニティースクール、タオスのプエブロインディアンのコミュニティー、7 月からラマファンデーション、デンバースクール、ボルダー、コロラド州のランボンバレースクール、アスペンスクール、8月シカゴホームスクーリングミー ティング、オハイオ州アンティオークスクール、インディアナ州ハーモニースクール、9月クロンララスクール、テネシー州ザ・ファームスクール、10月には 大西洋にたどりつきアパティナススクール、ナットさんがいたスイフトリバースクール、ミーティングスクール、フレンズワールドカッレジニューヨークから大 陸横断バス「グリーントータス」にのって、フロリダなど南部の学校。キャンプしながら地震直後のサンタクルーズについたのは 11月。オレゴン州のホライズンスクール、ファイヤーマウンテンスクール、またペトロリアスクールと行って、12月にサンタクルーズのエスキュロパシフイ カスクールに戻り、2、3月はハワイのマウイの学校と禅センターに滞在した。移動はスクールの車でおくってもらうか、グレイハウンドバス。宿泊はスクール か親の家、後はキャンプ。寝袋とテントはかなり使い込んだ。
 こうやっておよそ1年かけて子どもと3人で、あちこちのフリースクールでお世話になりながらアメリカ大陸を横断した。
 フリースクールが何を大切に運営されているか、どういう毎日を過しているかがわかった。日本に帰ってこのまま自分の家で子どもたちとフリースクールがやりたいとおもい帰国した。
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■ 自宅が学校(1990年〜1993年)

 1990 年に帰国してからわが家ではじめたのがわく星学校だ。最初は自分の娘たちや、障害児教育の運動で知り合った親子、もとの学校の教え子、京都にオルタナティ ブスクールを求めていた欧米人の親子とか合わせて50人近くでやった。その中には半年は関西で外国語教師やアーティストとして稼ぎ、半年は東南アジアなど を旅するヒッピー外人親子もいた。前からそんな友達が多かったから。多い時には5割が外国人の子どもだったときもある。 「不登校」の子どもたちももちろ ん来た。彼らはそんなミックスなメンバー中で国籍や学歴などにとらわれない自由で広い価値観にふれて元気になっていった。静かな京都の路地裏を多国籍子ど もギャングがワーッと走りぬけるようになって近所のおばちゃんたちも「なんどす?」と覗きにやってきた。「わく星ウイークリーニュース」も英語と日本語で つくっていた。「明日おなべをみんなでつくって食べます」といったら、土粘土をもってきた外国人のお母さんもいたりして、親の会、イベントのたびに各国の 料理のお皿が並び、子どもも親も言葉を超えておなかを抱えて笑うことがいっぱいあった。当時の子どもメンバーは踊りや歌が好きで「花笠音頭」「荒馬」「サ ンバ」など地域のお祭りにもよく呼ばれてみんなでおどりにいった。オブロンくんが「ハーイ。わっ、くせえ、がっこ、デース。」と電話受けをするので有名 だった。わく星学校は外国人、帰国子女、不登校、障害児、ドロップアウトなどいろんな子がいたから「学校」だけにこだわらない自分らしい生き方を探す「新 しいタイプの学びの場」としてスタートした。
 もちろん個々の「不登校」問題の課題解決もあったが、「学校」にいけないといわれていた子が、もう「学校」にはいかないんだといいだし、自分から選んで わく星学校にやってきた。当時はまだ子ども自身が運営するほんとうの意味でのフリースクールにはなってなかったけれど、子どもたちはもう学校の亡霊におび えることなく自分流に生きいこうとしていたし、子も親もスタッフも「自由・自主・自立」のフリースクールの夢をめざしていた。
 元気になって自立しはじめたわが子を見ると、いつまでも子どもを支配するのではなく、親たちも主体性をもった自立した市民としてしっかりと歩んでいかれるようになった。とくにお母さんたちのフェミニズムの時代でもあった。
 わく星にいったら何かあっけらかんとして、そもそも「学校」は必要だったのかとも思われた。もういいやと自然に思えた。「わく星には、だれでもおいで よ」という気楽な明るい雰囲気あったので楽しく毎日通っていたと、今は25歳になった当時の子どもたちは振り返って語っている。
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■ 隣りの家が学校の時代(1993年〜1995年)

  開校以来3年ほどして子どもの人数が増えはじめ、小さな我が家ではとても手狭になってきた。また、いつも他人がわいわいいる生活(昼フリースクール、夜は 補習塾で夜11時ごろまで人がいた)にわが家族も根をあげてきたこともあり、隣の空家を借りて、本拠地はとなりに移ったのが1993年ごろだ。M本君、O 田君、Kくん、オブくん、Sみちゃん、Yーかりちゃん、Sうちゃん、N子ちゃん、おっきいNおちゃん、Sっちん、T屋くん、Mぐちゃん、Jャマイカ、T英 くん、Yしえちゃん、Sちえちゃん、Yきちゃん、Tくとくん、Tーくん、Mっちゃん、ソビエトから来ていたRーマン、Jアック、Lーザの3兄弟妹など、 もっともっといたけれど名前を挙げても良いのか確認がとれてないのでとどめる。みんな家族ぐるみでしょっちゅう集まってわく星学校に来ていた。そのころの メンバーはもう 20代後半になっていてお父さんお母さんになっている人も多い。
 「わく星通信」は1995年1月ごろが創刊号でそれ以来あの「くぼちゃんの編集後記」はつづいているのだ。90年代は敬子が「わく星ウイークリー」とい うのを、毎週手書きで日記風にだしていた。伝達目的だったから学校に来ているメンバーだけに配っていたが、今出して見ると100号以上あってかなりの量が ある。
 当時はスッタフは固定せず。敬子、宮崎さゆりさん、木原さん、藤本敏朗さんの他にいろんな人が入っていた。コサちゃんを紹介してくれた先輩の高木さんが 数学を、Tーくんのお父さんが水道方式の算数、オブ君のお母さんジョアンの英語の歌、K君のお父さんの敏朗さんが英語、上田Tもちゃんのお母さんの家庭 科、私の母も手芸やピアノを教えにきてくれた、さゆり&サンタナのアートやのぶこさんの仮説実験授業は4,5年以上も毎週連続でやっていて子どもも大人も 毎回楽しみにしていた。
 その時子どもが習いたがったことを父母や周りの大人が来ていっしょにやっていた。子どもも大人もいっしょに学び成長してきた。「どの子にも自分の子のように接していきたい」とわく星ウイークリーの「親の通信欄」に書いてある。
 そのころは初期の頃よりも外国人がへり、日本人の方が多くなってきていた。「不登校」を負の出来事だと受け取る子どもも家族もなくなっていた。
 わく星学校に新しい自由な教育を求めてくる意気込みある元気でユニークな家族が集まってきた。一方「不登校はだれにでもおこりえること、フリースクール などの施設に通う時には校長裁量で通学定期を発行したり、フリースクールでの出席状況を所属校での出席扱いとする」というような文部省通達がでた。
 また「不登校」に関しては京都には「親と子の会」というひじょうにしっかりした自助グループがあって毎月100人ちかい人々があつまって例会をやっていた。
 わく星学校親の会が京都市教委に陳情にいったことや、個々の家族が所属学校に交渉した結果、「わく星学校」に通級するほとんどの子どもは実習用通学定期 が発行されるようになり、教育施設の割引利用も可能になった。フリースクールへの参加が「出席扱い」ということになると公立学校の先生たちもわく星学校を 見学に来るようになり、逆に私も学校や育友会の研修会に呼ばれて話にいったりしだした。
 私たちは「不登校」というのは結果であって、この現象自体をあんまり「問題行動」としてこなかった。昔からわく星学校の子どもたちは、どちらかというと 「学校にいけないのではなく、いかない」ことをえらんでフリースクールに来ている。従来の公教育ではなく「わく星学校」という場で主体的に学び成長するこ とを選んでいる。
 あのころから大人も子どもいっしょに「自由・自主・自立」の場をやっていこうという方向が文章化され学校の哲学として明らかになった。
 子どもはカリキュラムという枠から解放された自分たちの時間をありったけの元気でのびのび過ごし、夜は大人たちも学校や教育について読書会や研究会をし て遅くまで議論をしたり、持ち寄りパーティーでおしゃべり会もした。関西のフリースクールや外国のスクールの人と交流会をしたりして自由教育の勉強もし た。
 今のわく星の子どもたちと比べたら、会議もへたで、自分たちの運営でいろんな活動ができはしなかったが、自分たちのことは自分たちで決める「主体性」と いう点ではしっかり自覚した子が多かった。当時の日記を見ると「Aくん、Bちゃん、Cちゃんそれぞれが主張してゆずらず。やることがどうしてもまとまら ず、今日も大激論に時間を費やす。自己主張はいいのだが、むずかしい。」とスタッフの苦労がつづられている。スタッフもまだまだ未熟だったし、「子どもの 教育権」は子ども自身が自ら獲得しなければならないもので、大人が用意したものを与えても身につかない。大人たちはなるべく口出し手出ししないよう子ども 達の成長を待つようにしようと話し合った。
 このころから各地にフリースクールがどんどん出来はじめて、兵庫県高砂の地球学校の呼びかけで年一回10年間開かれていた「オルタナティブスクールス タッフ交流会」には毎回100人以上の人が参加していた。子ども、スタッフ、親たち、フリースクールをめぐる様々な人々が集まって、夜を徹して語り明か し、歌ったり踊ったり、料理や生活を皆でした。そこには教育関係に限らず色んな立場や価値観の人々が来ていたから、それらの出会いから、勇気を奮い立たせ てもらったり、自身の変革をせまられたりしたものだった。関西のフリースクールは、何々連合的にオーガナイズされたがらない関西ノリみたいなものがあっ て、それぞれの味を活かしながら、ゆるやかにつながってジョロウグモの巣のような立体的なネットワークを形成している。味でいうなら大根もごぼ天もこん にゃくもそれぞれに個々の味が生きてまったり旨い「関西おでん」がフリースクールのおもしろさだ。現在はこの「オルタナティブスクール・スッタフ交流会」 は行われていないが「フリースクーリングネット」というネット上のつながりでひんぱんに交流をしている。

■ みんなの居場所つくり(1994年〜1996年頃)

  その当時わく星学校にはだいたい決まった子ども6歳から15歳までが20人くらいが出たり入ったりしていた。スタッフも今のメンバー5人がすでにそろって いた。5人の他に宮崎さゆりさんが芸術や詩のワークショップをしてくれた「さゆりアート」。ギターやバンド音楽の石井文人さん。わく星学校に将棋道を最初 に教えてくれたのも石井さんだった。子どもたちといっしょになって遊んだり、けんかしたり、子どもといっしょに悩んだりしてくれた木原さん。野鳥の観察や 巣箱をつくってくれた高田けんそうさん。わく星のコンピュータードクターとサイクリングを根付かせてくれたのは藤本さん。スタッフも子どももいっぱいいた し、スタッフミーティングや親の会もいっしょになって夜中までやっていた。わく星学校史上一番子どもの人数が一番多かった時代だ。
 場所は我が家からお隣へ移転、築80年以上の古民家で、最初は「塾をします」という条件で我が家の隣を大家さんにたのんで安く貸してもらった。後に新聞 にわく星学校のことがのって「不登校」の子の場であることがわかって、大家さんが収益があるなら家賃は上げて欲しいといわれた。それで親の会の代表藤本敏 郎さんといっしょにあやまって事情を説明すると分かってくださって、家賃は今までよりは上がったが、自分たちで修理してそういう目的なら十分活用して下さ いよということになった。雨漏りもひどく、トイレもつまったまま、改装費用の余裕がないので、親の会やわく星ネットの人々がボランティアで屋根の雨漏り修 理、電気工事、水道工事、床はり、水洗便所、ベランダつくりとしてもらった。外壁の壁画はまきちゃんや子どもたちと描いたが、これには大家さんがびっくり して来られた。家を返す時にはすっかり戻しますからとあやまった。
 子どもたちも工事をやった。当時の記録を引用すると、「今日はみんなで壁を塗ろうと左官工事がはじまった。はじめはコテで塗っていたんだけどとしひで君 のアイデアで扇風機を使って吹き付けようということになった。直接扇風機のはねに白い漆喰をつけてスイッチを入れてみたら、あっという間に漆喰が壁や天井 や床に飛んでえらいことになった。そして漆喰を手でぬったとしひで君は手の皮がむけてしまった。目にでも入っていたらたいへんだった。」
 子どもたちは自分たちで何日もかかって屋根裏の秘密部屋をつくったり、押入れ、床下にも秘密基地ができた。床板をめくってキノコ栽培をやってた子もあっ たし、台所であやしい実験をしたり、壁を抜いた秘密のドアがとなりの我が家の間に通じていていつも子どもたちが行ったりきたりしていた。
 ご近所さんの反応は、最初は金髪やヘビメタスタイルのつっぱり君が玄関でしゃがんでタバコをふかしていたり、学校に行っているはずの時間に小学生が鬼 ごっこをしてたり、道路にチョークで絵を描いたりするのを見てびっくりしたり叱られたこともあったが、子どもたちのほうがフレンドリーで「『不登校児』な んていってもかわいい子ばっかりやんか」とおやつをもらったりする関係になっていった。また日曜たんびに家修理やミーティングに来る親御さんたちの熱心な 姿に感心して、世間の偏見に負けんようにがんばってほしいと応援してくれるようになった。訪問者が道をきくと壁画を指して「あの絵かいたあるお家、あれが わく星学校どっせ」と近所の人たちが教えてくれるくれるようになった。
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■ やりかたはみんなで決めよう

 その頃はわく星学校の性格としては「フリースクール」というよりは、「居場所」的な要素が多かったと思う。
 私は「フリースクール」と、「居場所」ははっきりと線引できるものではないと思う。というのはそれぞれの子どものニーズによって、場の意味が変るのがこ ういったオルタナティブな場のよさだと思うからである。どちらも「子どもが主体」であることには違いはない。どちらかというと、今のわく星学校は、スクー ルとしての要素が強い。それゆえ間口の狭さを感じることもある。
 現在のわく星学校の一日は「朝の会」で始まる。朝やりたいことを一人づつ言って、日直当番は司会をしながら日誌に記録する。「帰りの会」ではそれらを振 り返ってまた明日の課題や予定をみんなで話あったりして決める。そういうスタイルをもう5、6年ほど前からやっている。なんのためにそんなことをやってい るかというと、わく星学校では子どもが教育の主権者として、学校の運営に直接携わることを通して、近代的市民として成長してほしいという目標があるから だ。
 このやり方は子どもたちにここでの時間を主体的に過すことを意識化してもらうためだ。決められた学習カリキュラムをこなし、テレビや電子ゲームなどで余 暇を過ごす受身な時間の過し方から、自分なりの工夫ある時間の過し方を薦めている。ちょっと自分のエッジを越えるチャレンジをすることで自信がついたり、 生き方にはりがでたりするものだ。しかもそれを仲間と共有できるのが朝の会だ。
 とはいっても子どもたちがいうのは、まんがを読む、ルービックキューブ、外で遊ぶ、パズル、手芸、将棋や碁などなどでそんなたいそうなことはいわない が、何でもいいとはいえ、みんなの前で自分の意思表明をするわけだから毎日毎日「今日もいちにちごろっとしとく」とか「一日中マンガ」「一人でテレビゲー ム」とかはなかなか言いにくい空気はある。入学当初の子どもにとっては何をやったらいいのか自分で考えないといけないこともけっこうしんどい。それを毎朝 みんなの前で自己表明しなければならないのは、ハードルが高いかもしれない。
 他者の評価を気にして「何かをやらなければ」と無理するのはよくない。「何もやらない」と素直に言える空気も必要だ。大人の空気はすぐ子どもに伝わり、 子どもを混乱させてしまう。そういう意味では大人は正しさを押し付けていないか常に気をつけなければいけないと思っている。

 さかのぼって1996年頃のわく星学校の状態は、朝起きられない子は午後から参加というケースも多かったし、ドロップアウト組みは好きな格好で好きな時間にブラット現れたし、みんなが集まって話し合うという状態をつくること自体が難しかった。
 朝の会に間に合わず、後からきて「この指とまれ式」でやりたい人が皆に声をかけて提案し、人が集まったら成立というパターンで、自然発生的な活動や作業、集団遊びもけっこう楽しかったし子どもたちもそれでよしとしていた。
 何かを「教えたがる」スタッフや大人たちが、教えられることにうんざりの子どもたちにブーイングされたり、屋根裏部屋や地下室に隠れられたりしたことも あった。子ども仲間でも、それぞれが「あれもいや、これもいや」の拒否一辺倒でそれに変る代案も出さず、自分の都合ばかりを優先させる自分勝手で無責任な 行動もあり、これじゃただのわがまま集団じゃないの?と訪問者にいわれたこともあった。
 まず一人一人がばらばらで切り離された存在ではなく、仲間としてここにあることが喜びだったり、楽しみだったりする経験があり、それがベースにあってお 互いを大事にしたい気持ちから「異なった意見」の調整と話し合いが必要になってくる。あたたかい気持ちがない形だけの話し合いは、人を「けなす」時間と化 す。
 ミーティングのようなものができるまでに5年の歳月がかかった。それは6,7歳の小さい子どもたちが12歳になるころ集団の文化としてやっと定着した。 そんなにかかったのはほとんどの子どもが意見を言うことはできても、人の話をちゃんと聞くということができないのが原因だと思われた。ミーティングは動き 回る年少の子にはたいくつだったし、大きい子どもは今までに話をきちんと聞いてもらう経験すらなかったからだ。
 いじめや差別で傷ついて自暴自棄になった子も、「だっるー」を連発していたツッパリ君も、やがて何のためにみんなで話し合いをするのかを心から理解でき るようになると、けっこうミーティングに参加しだした。そうやって自分の意見をちゃんと聞いてもらえる場で、共感してくれる大人や仲間を感じる、ミーティ ングが楽しくなる。そしてそれぞれが大切に扱われる安心感がまた増幅する。
 だがミーティングは今まで通用していたやり方がメンバーが変るたんびに通じなくなる。だから試行錯誤するしかない。人前で何かを言うのが苦手な人、自分 のことばかりいう人、とんちんかんな事を言って場を混乱させる人それらをスタッフが調整するより、子ども同志で「○○さんの言いたい事は、つまりはこうい うことなんだね」とまとめてもらう。子どものほうが他者の気持ちをくみとって話し合いをうまく進めてくれることがわかった。
当時のわく星ニュースからこんな記事を見つけた。
 『さいきん子どもたちは遊びのなかでも、子ども同志で話し合って何かを決めるパターンが発生している。わく星学校の校長を選挙で決めようということにな り、各自が推薦候補をたてて選挙活動をした。投票の結果は熱帯魚党の「コリドラス」さんが当選。理由は1、掃除がすき、2、威厳がある、3、いつも皆を見 守ってるいるという点が校長にふさわしいということだった。」「わく星学校に子猫がやってきた。猫の名前は投票で「メダイコス」と決定した。反対から読む と「スゴイダメ」なんだそうです。「そんなのいやー」と少数派から拒否意見。「じゃあ、スーちゃんと呼んでもいいからネ」それで一件落着。なかなか説得力 ありましたね。一人で考えるのは一人だけのもの。人といっしょに変っていくのが楽しい。どんな学校というより、どうでもできる学校、その時そのとき求めら れるもの、できる事を可能にしていく学校がいいな。』
 今もわく星学校の校長は何代目か「コリドラス殿」で校長室は水槽は先輩たちの伝承どおり清潔に掃除され保存されている。また我が家のネコは動物病院のカ ルテに「山下 メダイコス ♀」とかかれていて、「次、メダイコスさーん」と呼ばれるたびにちょっと誇らしいきもちになる。
 北白川わく星時代は子どもたちは自分のやりたいことを自分で決られる生活を創りはじめた時代だった。いろんな人の筆跡で「今日もまたおもろかった」と学校日誌の感想欄に毎日書いてある。
 街の真ん中に場があってよかったことは、交通の便がよかったので毎日いろんな人が尋ねてきておもしろいことを持ってきてくれ、ミュージシャンやアーティ ストも気楽にライブもしてくれた。スタッフや親のメンバーからも社会にむけてたくさんのラインがつながり広がった。市民運動にもフリースクールとして参加 するようになったし、人が集まる、いろんな人種がいるということはエネルギーがわく、その中で多様なものが共存できる可能性がうまれでてくる。
 「オールスピーシーズデー(全ての生き物の日)」という環境問題を考えるイベントもみんなで参加したり、関西フリ研の堀さんがつくった芝居「孫悟空」や、「森の裁判」とかを劇団「わく星」であちこちの場や集会でやった。
 今は岩倉に来て自然環境はいいのだが、ビジターが来にくい難点がある。最近は子どもの人数が減ってきたので、わく星学校に外からの風がもっと吹き込んでほしいと思っている。
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■「不登校」は子どもの権利

 当時はまだまだ「不登校」に関する社会的認知がすすんでおらず、多くの子どもたちは学校と家庭と世間の間で肩身の狭い辛い思いをしていた。学校に行けないのは病気だといって入院させられたり、薬漬けにされてきた子もいた。
 1996年頃は「子どもの権利条約」の批准の時期であり、市民・NGOはカウンターレポートをつくった。そんななかで「不登校」を問題行動や病理としてではなく「子どもの権利」としてみていこうという考え方が、親や市民運動レベルでも起こりはじめた。
 親は普通教育を受けさせる義務があり(憲法26条)、子どもはその教育を受ける権利がある。ただ子どもがその権利を求めた時に、大人に義務がはじまる。 その権利を子どもが行使するかしないか、は子どもの選択権の範囲にある。もし子どもが今の公教育の学校にいくのをいやがったら、親はそこに子どもを行かせ る義務はなくなり、その子が希望する学びの場やシステムを用意することが「親の教育を受けさせる義務」になる。これは親の教育の自由でもある。
 権利条約18条は、親は子どもの養育、発達につき、子どもの最善の利益を基本に第一義的責任を有するとし、親は子どもの「学ぶ権利」は子どもの学びたい欲求、興味、関心それらを統合した子どもの「自己決定」を尊重しなければならないとしている。
 こどもに学校生活に主体的に参加する権利があると認めたことは、逆に子どもの不参加の自由も認められなければならない。それが認められない時は、その反 面で参加が強制されていることである。「不登校」を学校に行かないという子どもの選択とし、子どもの権利として認めるべきであるという考え方である。
 学校生活への不参加を子どもの「自己決定」として認めるうえで、家や地域、フリースクールなどで子どもが安心して学べるのであればこれが子どもの最善の 利益であると受け入れようというふうに、我が子に教育を受けさせる義務について広い視野で認識するようになった。
 そして「子どもたちの育ち方は多様で、学校を拒否する子も出てくる。それはそれでその発達の権利を保障するためには、まず受容しその興味関心を育てるよ うな環境を作ることが『子どもの最善の利益』ではないか」と国にも『不登校』への公的支援を働きかけるようになった。やがて増え続ける「不登校」に緊急措 置的にする財政施策として、「フリースクール等の公的支援」SSP(スクーリングサポートプログラム)事業がはじまった。しかし、それは「学校復帰」が大 前提であり、『学校復帰』はあくまで結果であって目的ではなく子どもを制度や施設にあわせるのではなく子ども自身の最善の利益を確保しようという子どもの 側によせていく視点はなかった。ゆえに民間のフリースクールやホームスクールは最初は公的支援の対象とはならず、「学校復帰」を目的とした適応指導教室や 公的施設が全国的に増えただけであった。
 現在は国が示すガイドラインの基準を満たすかどうか審査して国が認めたところは個人が開設する教育事業にも公費支出ができるようになった。一昨年からわ く星学校も京都市教育委員会との連携事業で体験活動事業「ぷらねっとクラブ」をやっている。京都市内の不登校の子どもたちに呼びかけて、フリースクールで 体験活動をしてもらおうという事業だ。長年地域で不登校の居場所を続けてきた経験と実績を買われての委託である。
 学校外での多様な学びや育ち方を支援するNPOに対して教育委員会が委託をだすということは重要な意味がある。
 「ぷらねっとクラブ」では子どもたちが主体的に学校生活に参加できるような運営方法を体験してもらうため「子どものことは、子どもにきけ」でできるだけ 子どもたち自身で何でもきめてもらうようにしている。もう一つぷらねっとクラブをやって気付いた事は、私がフリースクールを始めたころから比べると、「ぷ らねっとクラブ」に来る親も子も実に多様化している。従来のタイプの『不登校』のほかに、LD《学習障害》やADHD(注意欠陥多動性障害)とラベリング されたり、非行や、家庭放棄、ひきこもりなどが原因で学校からはみ出された子どもたちが多くいる。もどりたくても学校には戻る場所はないのが現状だ。そこ で学校外での育ち学びの選択肢を検討せざるをえなくなり相談にみえる。今従来の学校中心の不登校対策から社会教育《生涯教育》や家庭教育の分野を取り込ん だわくを広げていく必要を感じている。子どもたちが学校という場から離れてもいろいろなかたちで教育の機会が保障され、いつでも学びたければそれができる 受け皿があれば、子ども時代の「不登校」が一生の傷にならずに済む。学歴による不当な差別をうけることなく、その豊かな個性を発揮して活躍できる社会の実 現が待たれる。今はこういったことを社会全体で考えていかなくてはならない時代だと思う。

(「子どもとゆく」06年11月220号に加筆修正)