わく星学校のスタッフ、こども、親の会などから寄せられたコラムです。
「学力って何だ?」 -Eの個人的学力観-
わく星学校を知って変わっていく過程を通して
吉浦栄子(親)
私が生まれたのは1956年。
大正生まれの両親は「学業成績」よりも料理や掃除をし、農繁期には田植えや稲刈りやとり入れといった生業の人員としての能力を欲していた。私の思い出 -親との思い出- には麦の刈り入れ、帽子に入れてもらった蛍、山田から体力に応じて背負って下りた稲束・・・それは大人と同等に持てるようになる1970年頃にはなされな かった‥ 稲木から見た一番星、鶏のために切ったひよこ草(ハコベ)など家族と働いたシーンにまつわるものが多い。
しかし、その一方で、親の期待は「女一人でも暮らしていける職業を得ること、県立高校に行けないなら、製糸工場にいけ」という形で表明されていた。家庭 の労働力としての子どもと経済的に自立する大人になることの期待、私の親をそういう考え方にした時代背景というものを考えてみる。1935年版の新村出編『辞苑』をみると「学力」を「学びえた学問の力」と説いている。しかしこの「学問」は一般の人々の日常やものの考え方とは切れたところの、権威としての知の体系であった。
『学力とは何か』(中内敏夫著)という本によれば、学力とは、能力の一種である。学問や芸術など文化の伝達という形で・固体から個体へ伝達できるものと されている能力。 科学文化や言葉といった認識の学問と方法をとることから・認識の能力 ・認識におけるかなり現実的で実際的な部門を担当している能 力 とみられる。 と解説してある。「子供に残せる財産は学力と学歴だけだ」という考え方は、日本でも18世紀後半になると一般の人にも語られるようになる。日本の民衆に対する教育・学校制 度が、明治維新後、富国強兵政策の一環として始まったために、日本の学力観は多分に社会学の問題であり、経済学の問題として語りやすいように思う。
農民として育った父母にとって、戦争での兵士としての暮らし、最下層で沈没(まさに戦艦の底部)して死んだ弟。戦後の貧しい暮らしは、我が子には味わわ せたくない階級闘争の出発点であったと思う。世間でも同様に1960年代には「学校爆発」が起こった。商・職人層、農民層、都市雑民層にまで学力・学歴を 手に入れたいとする勢いが拡がっていった。また、もうひとつ現在のような「高学歴社会」をもたらしたのは、「教育投資論」「人的能力開発論」というものであった。
・ 国民の物的生産性の増大は、従来考えていたような、労働と資本の二つの変数では説明できない。それはここにもうひとつ「教育装備率」を導入してこなければ説明不可能である
・ このことは、教育費は「冗費」と考えるべきでなく、教育は「人に対する投資」であると考えるべきことを物語っている。
・ ここに浮かびでてくるのは、人権や福祉としての教育の概念でなく、採算に合うか、否かという経済的カテゴリのひとつとしての教育の「新しい」概念である。
1960年末「教育訓練小委員会の報告」にある教育投資論の概念
「経済進歩と社会福祉の向上は、今後ますます全ての国民の能力を有効に利用しうるか否かにかかっていることと理解しなければならない(中略)教育には、個 人の完成という教育の本来の目的がある。しかしここでは経済的側面から見て、もし、青少年が十分な教育訓練を受けていたならば、その後の生活において高い 生産性を上げ、また社会に貢献したであろうという観点から人間の潜在能力を開発することを検討の主要点としている(中略)従来、教育訓練に関する経費は、 経常費的に取り扱われてきたが、それは、元来国家的発展の見地からすれば、保険的な性格のもの、すなわち人に対する投資と考えるべきである」
同時期には60年「国民所得倍増計画」61年「農業基本法」62年「全国総合開発計画」など出されている。まさに高度成長へと突き進んでいく時代を生き ていくことになった。私の父母は特別「より豊かな生活」を求めるタイプではなかったが、すさまじいインフレの時代にあって質素な生活などありえなかった。 (貧乏はあった)学校という社会で生きていく以上二人の娘にはエンピツから修学旅行まで、そして友達との遊び代まで現金がかかってゆく。そんな生活の中で 「頭がよくていいですね、勉強できて心配がないですね」という友人の親達の称賛に「頭がよくてもなあ」という否定のイメージを親から与えつづけられる、女 の子として自信のない私がいたのである。
私は、学校の勉強はよくなした。相対評価であった小中学校時代は、教師の作るペーパーテストも、標準テストも、知能テストも難無くこなした。高校時代は優秀な生徒ではなかったが‥。比較的に「優秀な生徒」であった私だったが、その頃から「出来ない生徒、困った子供」と呼ばれる友人達の扱われ方に疑問を持っていたことを思い出す。人は 皆平等であり、同等の権利をもつと教えながら、「優秀」な私と「出来ない」友人が仲良くすることを歓迎しない教師。特徴的なグループ構成になった班作りに おいて、そうなったことを誉められるのは私、他の子どもは被保護者扱いを受ける -私にとって必要があったことだろうと思うのに-
大学への進学はもちろん世すがの方法を得るためでしかありえない。目的のない学問の研究などできる状況にはなかった。そのため、その頃の私は何が好きか ではなくどんな仕事があるかしかなかった。私に思いつく仕事は、医師・教師・看護師・薬剤師しかなかった。医学部の受験はハードルが高く、教師はきらい。 薬剤師も難しく、経済的にも楽な看護学校へ行ったのだった。(その頃の国公立の看護学校は授業料等が無料だった)看護学校を出て、2年間働いただけで子ど もが生まれ、仕事はやめた。学問として捉えていない私には、仕事での向上心もなければ、夢もなかった。世すがの為の資格取得であった。私の最初の子どもは1979年生まれだ。私の時代から進んでいた学歴主義は、さまざま荒廃を生んでいた。高学歴以外に人間の価値がないと思わされているのが、ほとんどの親と子ではなかっただろうか。「いじめ」「家庭内暴力」「落ちこぼれ」「不登校」「受験戦争」等々。
絶対評価・到達度評価と学力評価法は変わっても、いつも自分が他人からの評価を受けつづけていること。自覚するしないにかかわらず、ふりそそぐ評価の視線は子ども達を常にストレスの渦中に落としこんだ。
19994年に長男。同時期にT、そしてJが学校に行かなくなった。
精神的に追い詰められた子ども達を見て、また、その期間に読んだたくさんの本や、自分自身との対話をとうして、私自身が、もともと学校の状態を好きではなかったこと、たくさんの批判的な考えをもっていることに気づいたのだった。
94年・95年の2年間に、私自身が「脱学校」を自らの方向性として獲得いた。
1995年4月に京都に来た。愛知の不登校親の会から紹介されて「わく星学校」をしっていた。その年の初めにJが、それから、1年数ヶ月ぶりに公立小学校 に2ヶ月間通った後、自ら「学校はもういいわ」と辞めたTが「わく星学校」に入学したのだった。J8歳、T11歳であった。
「脱学校」していた私だったが、長い間「学力」については悩まされてきた。もう既に学歴(学校歴)社会では、はみ出し者となっており他人の評価も必要とせ ず、自分も親として彼らを評価せず受容し、彼らの育っていくのをサポートすることと決めていたにもかかわらず「学力は必要ないのか、学びたい日がくればで きるのか(受験)とスタッフと論争したのだった。そのときスタッフがなんと答えたのか覚えていない。そのように「学力」にこだわる私自身というものを少々 もてあましたまま、年月が過ぎ去っていった。ゲームの顧客カードを郵送するために、住所と名前の書き方を聞かれたときはビックリしたけれど、必要なかったのだから「いい年」になってしまっただけだと 納得した。熱帯魚に興味を持って買ってきた本はもちろんマニヤ向けの本格的なもの、自然に読んでいた。Tは一時期、漢和辞典をいつも持ち歩いて読んでい た。身についたかは知らない。
Tはどちらかというと興味のあることの知識を手に入れながら行動するタイプなので、学校での勉強スタイルが身についている私には理解しやすい。多分必要になれば受験勉強のようなものでもするだろうと思える。
Jを、もし学校の教師が評価をしなければならないとしたら困惑するだろうと思う。話をしないから何を考えているかわからない。思いついたら何時間でも、 何日でも実験的実践に没頭してしまう。ぼうっとして動かない。沈思黙考、不言実行。実践から始めて、必要になったとき情報や知識を集めるタイプ。彼の刀作 りは何年間も続いている。いまや一片の金属から研ぎ澄まされた刀を、自作の炉と砥ぎで仕上げるのだ。
農作業・テーマを持った合宿・サイクリング合宿・ハイキング・メダカなどの自然調査・と中の会・遊び・自分の興味のあることなど、わく星学校の毎日は、エピソードに満ちているけれど学力は見えてこない。それは長い年月を縦断して見えてくる。
19歳でわく星学校を出、造園職人になろうと働き始めた毅が、その1年後の今年、卒業記念講演(?)をした。直接は聞けなかったが、彼がその中で語った という「この仕事は知らないことばかり、でもこれから知っていけばいい」というこの意欲と謙虚さ。これこそが、現実の物事を認識する実際的な能力であり 「学ぶ力」といえるものだと思う。現実には多くの問題が、個人レベルから社会・世界的に存在している。それは学校で学ぶ「学問の成果としての知識の断片」では解決できない。そういう知識の断片を手に入れた量的評価を学力と呼ぶなら、そのような学力も評価もいらない。
私の子ども達は、今の日本という世間では、学力競争に勝ち抜けなかった人物として負の評価を受けるだろう。しかし、そのおかげで、日本という世間から外れ、人間としての評価基準をもつ人々との新しい関係を手に入れることができるだろうと想像する。
私の「学力って何?」という問題は、いまや「教育って何?」という大きな問題にとって代わって久しい。わく星学校での10年間は見えなかった -見ないようにしていた?!- 多くの問題を認識させてくれるとても素晴らしい10年間だった。自己に目覚め、子どものいとしさに気づき夫や友人と新しい関係を築き、障害と教育の問題、 学習権の問題、生と性、老いと死、公害と国家の姿、部落差別や民族差別の問題を、論評するのではなく、自分達にかかわる問題として学ぶ私に育ててくれまし た。
ここに思い出は書きません。でもいつもそばにいてくれた敬子さん、こさちゃん、新しい視点をくれたくぼちゃん。私により深 い洞察を促してくれた山口さん、いつも暖かい石井さん。わく星で知り合った全ての皆さんと私の子どもたち、私を怒らせ、笑わせ、守ってくれた夫にも感謝を 表します。ありがとう。
(2004.6.2わく星「夜間部」学習会のために書いたものにほんの少し手を入れました。)