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わく星学校のスタッフ、こども、親の会などから寄せられたコラムです。

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「05サイクリング日記」

小坂勝弥(スタッフ)

序章 「大人になっていく旅」
 今年も恒例のわく星サイクリングの季節となった。そもそもこの企画が始まったのは5年前、一つ大きな事をやり遂げた経験を持つことで、挑戦できる物事の 幅を広げ、わく星学校での活動をよりダイナミズムにあふれたものとしたいという目的からであった。というのも、当時の年長組たちが小さな殻に閉じこもりが ちで、それが「
機に及んで柔軟に学ぶ」というわく星イズムの可能性を小さいものにしてしまっていたからである。
 自分を成長させてくれる新しい出会いや挑戦にはどんな場合にも冒険的な部分があるけれど、ためらわずに踏み出すための勇気を与えてくれるような、そんな 体験になれば‥という願いを込めて始めたのであった。その意味で、この企画はいわばわく星っ子たちが大人になっていく旅の始まりではないかと思っている。 回を重ね目新しさは失われたが、その存在理由は色あせることなく後輩たちに引き継がれてきている。
 旅立ちの朝、さっそく一つの話題としてMの歯が抜けた。乳歯君は大家がこれまでとは違った存在になりつつあるのを敏感に感じ、場違いとなる前にひょいと立ち去ったのではないだろうか。

◇ 6月13日(月) はれ ◇
「ウォーミングアップであっぷあっぷ」の巻
行程:北白川〜大津〜近江八幡〜彦根〜長浜
 初日のコースは、最初の九条山と逢坂山を除けばアップダウンもなく、琵琶湖沿いのサイクリングロードを淡々と走るものだ。いたって安全である。よって、 隊列を組んで走るのに慣れるための現場研修だと位置づけている。適度な車間距離とちょうどいい速さを体に覚えさせるのだ! 1日を終える頃にはきれいに並 んだピンクヘルメットがすぅーっと風を切っていく姿がすっかり様になっているはずであった。
 ところが、これがなかなか思うようには行かない。逢坂山で一向に上がってこないMのギアをチェックしてみると、重い。こんな坂ならもっと軽くしなきゃと アドバイス。ところが、今度は平地に入っても指示された軽いギアのまま足ばかりクルクルしている。ふぅ、思わずため息が出た。一を聞いて十を知れとまでは 望まないけど‥。心の中でだけちゃぶ台をひっくり返しながら再度ギアの使い方を丁寧に伝授した。
 また、直前にアメリカで1000kmを走覇したはずのAのペースがちっとも上がらない。どうしたことだろう? 表情から察してバテているわけでもないのに。ひょっとしたら雄大な大陸にはこういう牛歩ペースの方が合っていたのだろうか‥??
 私は盛んに説いた。自転車は勢いが生きる乗り物なんだから「楽ゾーン」で走らないと‥! この「楽ゾーン」というのは私の考案した概念で、街乗りを ちょっとリードするくらいの速度域のことである。具体的には時速15〜20km程度と思われる。沿道の自転車をつぅ〜っと抜かしていく位でいい。何もバ ヒューンと行く必要はないのだ。ただ、坦々と進み続けることが肝心である。平均速度を落とさないことで所用時間も短縮され、あれっ? もう着いたのという 感覚から精神的にもどんどんプラス思考に入っていく。わく星サイクリングの歴史が生み出した極意なのである。今のペースは「しんどいゾーン」や! このま まやったら時間も余計にかかるし、ほんましんどいぞ〜ん! 私の檄がたたわに実った麦畑に空しくこだました。
 ちぐはぐな隊列を整えるため、打順の組み替えも何度か試みた。しかし、わく星軽量打線はなかなか機能してくれなかった。はかばかしい改善が見られない 中、私はG軍のダメ監督気分を味わった。そろそろ水を飲もうかと、とある橋のたもとで停車し、ふと川の名前を見ると「不飲川(のまずがわ)」だった。川に までおちょくられる始末だ。
 さて、それでも終盤、目的地が近づく頃にはようやく体裁が整いだしてきた。1日の試行錯誤がようやく実を結んだともとれるが、客観的には私の理想と部隊 の現実とが互いに譲歩を繰り返して、これなら長い行程を何とか乗り越えられるだろうという妥協点を見出すことが出来たということだろう。最終盤に一番心配 していたUが遅れることなくピタッと先頭についてきたことには驚いた。
 さて、そうこうしながら例年より遅いものの無事長浜市街に到着し、風呂と買い出しを済ませ宿泊地である公園にたどり着くことができた。この頃にはもう暗 くなり始めていた。珍しく湖風が強かったこの日、連中は悪条件の中で初めてのテント張りを経験した。ランプの明かりの下、定番の豚キムチ丼を美味しくいた だき、何はともあれ無事初日を終えることができた。この調子で行けば何とかなるよと子どもたちに言い聞かせ就寝した。

◇ 6月14日(火) はれ ◇
「史上最大の危機!-英ちゃん撃沈-」の巻
行程:長浜〜余呉〜栃ノ木峠〜今庄〜武生
 鳥たちのさえずりに起こされ起床。バナナをはじめ定番の朝食メニューをいただき7:30過ぎ出発、一路北へ向かう。
 平坦な湖岸をひたすら走る初日が「練習」なら、この二日目は最大の難関・栃ノ木峠を越える、まさに「力試し」と呼ぶに相応しい。最初の内は琵琶湖のなご りでまだ平坦。連中はいつから地獄が始まるのかと心配しているが、実はこの二日目交響曲は穏やかに始まるのだ。余呉を通過し、だらだらと続いた緩やかな坂 がクライマックスに向け少しずつ傾斜を増してくる。ちょうどラヴェルの「ボレロ」のようだ。
 さて、いよいよ椿坂と呼ばれる急斜面にさしかかった。ママチャリの私は早々にサドルを降り押し歩きモードに突入する。連中は間もなく遙か後方の点になっ た。ぐるっと折り返してきた一段上の坂に停まり見下ろしてみるが、なかなか後続は見えない。ここで最初に姿を現したのが前日不発であった1000km男の Aだった。やはり牛歩ペースは低回転域でのトルクに特性があったようだ。残り二人は? ‥しばらくして下の方に現れた。ペダルを踏もうとしてはハンドルが イヤイヤをしてなかなか進まない様子が見える。こんな調子で、少し待っては前進し、後続の無事を確認して進むことを繰り返し、なんとか南斜面の頂上である 椿坂峠にたどり着いた。
 道端のお地蔵さんにお参りして、ランチポイント「己知の冷水」という湧水に向かう。ここは二つの峠の中間地にあるまさにオアシスのような存在だ。例年通 りここで冷やし素麺をつくり昼食とした。心身共にリフレッシュし、その勢いで道中の最高峰、北斜面の頂上である栃ノ木峠まで上りきった。ここまでのペース は例年と比べてもそれほど遜色のないものだった。あとは、下りを利用して流して行けば自然と目的地に到着する。連中にとっては上りきることこそが難関だと 思っていた私は内心ほっとして、昨日とは違う余裕を持った到着後の時間繰りなどに思いをめぐらせていた。しかし、この後わく星サイクリング史上最大のアク シデントが部隊を襲うのであった!!

  カーブの手前はスピードが出過ぎないよう気をつけて、でもブレーキのかけっぱなしもあかんからバランスをとって‥そんな話をして軽快に走り出した。4機は じりじりと辛抱し蓄えた位置エネルギーが運動エネルギーとなって解放されるのを心地よい風として感じていた。Uだけは臆病ゆえに少し後方を離れてついてき ていた。
 突如、私の後方で「わっ、ぅわわ‥」という声が聞こえ、直後グシャーン! という衝撃音にかわった。転倒であることはすぐに分かった。例年、長い行程に おいて1度や2度くらいは聞く音であった。私はすぐに停車し、振り返った。主はAか‥ さ、早く立って行こうか‥、当初の認識はそんなものであった。しか し、すくっと立ち上がったものの、なかなか自転車を起こそうとしない。ガードレールにもたれながら少し呆然とした様子だ。ん? ‥不審に思いながら歩み 寄ってみて、私は事態の深刻さに一気に青ざめた。後輪がぐにゃりと曲がってしまっている。Aは大丈夫なのだろうか? 肩に擦り傷がある。辺りを触れてみる が痛がる様子はない。うん、大丈夫だ‥と、そう思った矢先に腕を上げようとしたAが「あ、っててて」とつぶやいた。どうも内部が痛むようだ。
 ここは峠ゆえ進むにせよ引き返すにせよ集落からはもっとも離れた位置であった。如何にしてAと自転車を運ぶか? 残る二人を放っておくことも出来ない。 私一人で解決するにはクリアすべき難題があまりにも多かった。ハズレしか入っていないクジを引いては戻すようなそんな思考を繰り返しながら滅多に味わうこ とのない絶望感にしばし浸った。すべてをクリアする唯一のアイデアはヒッチハイクでトラックを停めて荷台にみんなまとめて載せてもらい最寄りの集落まで運 んでもらうことだった。迷っている暇はない、すぐに実行だ! MとUも動員して3人で向かってくるトラックに合図をし続けた。しかし、一向に停まってくれ る気配はない。いたずらに時間が過ぎてゆく‥。
 だめだ、これ以上Aを待たせるわけにはいかない。救急車を呼ぼう。自転車や余計な荷物は置いていって後で取りに来ればいい。頼み込んで人だけはみんな乗 せてせてもらおう。どの町の病院に搬送されたとしても後の事は臨機応変に対応しよう。決心さえつけばあとは天命を信じ実行あるのみだ。携帯電話文化を嫌う 私にとってもこの時ばかりは有難かった。こうして、私は生まれて初めて119番をダイアルしたのであった。

★   ★   ★

 10 分ほどで峠の下からサイレンの音が聞こえてきた。いつもなら見送る立場でしか聞くことのないあの音が、今日に限っては他でもない私たちのためにこちらに向 かっているのである。私たちを発見してくれた。隊員のみなさんは要領よく応急処置をしながら、触れても痛がらないことからやはり脱臼ではないかと予想され た。状況説明を終え恐る恐る搬送予定先を訊ねてみたところ「武生のH病院です」との答えが返ってきた。これはちょうど当日の終点であった。そして、「みな さんは自転車で後から来てくださればいいですよ。この状況で自転車や荷物を置いていくわけにはいかないでしょう」と言われた。この隊員の方の機転の利いた 判断には本当に救われる思いがした。Aのことをくれぐれもよろしくとお願いし、ぐにゃり号だけはその場のミラーにチェーンで結わえて、救急車の向かった先 を追いかけた。
 基本的に下りのみの道のりだが、精神的な疲れのせいか連中のペースはあまり上がらなかった。バテた様子のUを「もうちょっと」×2と励ましながら、武生 市街に到着した。果たして、H病院は私たちが例年テントを張っている馴染みの公園からほんのすぐそばにあった。自転車を駐めて、いかにも病院には不似合い な軽装のまま中に飛び込んだ。そこには看護婦さんに先導され軽快な足取りで廊下を歩くAの姿があった。「どうやった?‥大丈夫か!」「うん、でも骨が折れ てるみたい」---レントゲン写真には鎖骨の中程にくっきりと隙間が見て取れる。何とか走れる状態であれば、みんなでゴールの喜びを分かち合いたいと思っ ていた私の野望は、その瞬間にあきらめざるを得なくなった。ただ、あちゃぁ‥とう雰囲気はあるものの、全体的にあまり悲壮感はなかった。診察も一段落し家 に電話した時にも、あっけらかんとしたAの口調にお父さんは最初冗談かと思ったそうである。
 とりあえず病院を後にし、この後どうするかみんなで相談した。「で、どんな選択肢があるの?」と子どもたち。私は内心それを自分たちで考えるところにわ く星ライフの醍醐味があるんやけどなぁ‥と思いながら、「このまま引き返すかAは電車とかを利用しながら一緒に先に進むかその辺の選択やろうなぁ」と言っ た。Aの意志ははっきりしていた---「そりゃ、行けるんやったら一緒に旅を続けたいよ。」 かくして、サイクリング史上最悪の事故に遭遇しつつも断念せ ず先に進むことが決定された。時間的な都合で銭湯に行くことはあきらめ、この日は寝た。隣のテントでは、京都の留守番組たちから事故の噂を確かめようと ひっきりなしにメールが飛び込んでくるようだった。そんな中、A本人だけはしっかりと熟睡している様子であった。

◇ 6月15日(水) はれ ◇
「執念の往路完走」の巻
行程:武生〜福井〜北潟湖〜小松〜鳥越村
 いつもと変わらぬ目覚めだ。隣のテントからはMのたくあんを噛む巨大音が聞こえてくる。平和な朝だ。しかし、冷静に考えてみると、今日からは部隊を二つにして行動せねばならない。大丈夫だろうか? 不安はあるが、基本的に連中を信頼するしかない。
 問題はAの荷物であった。ぐにゃり号は後輪の左右に荷物を搭載していたが、それぞれがリュック一つ分くらいに相当した。Aが片手で持っていけるのはせい ぜい一つなので、残る一つを自転車隊が運ばなければならなかった。昨年ならJなどに頼めばそれで済む問題であった。しかし、とにかくまず完走することを目 標としている初陣の連中には、その余裕があるものかどうか疑問であった。しかし、今は状況が人を待ってくれない。私は鍋類など共有荷物を一身に引き受けて いたので、すでにほぼ満載状態であった。外観から余力を想像し、Mに荷物を任せることにした。MはAの荷物を荷台に載せ、荷台にあった自分の荷物を背中に しょって走ることとなった。さて、はりきってスタートを切ったものの、Mのスピードが一向に上がらない。通学中の地元学生が自転車でチンタラ走っている が、それにすら追いつけない始末である。楽ゾーンには遙かに及ばなかった。「だめか‥?」私の問いに、押し殺したような声で「うん」とうなずくM。結局、 Mの背中のリュックは私がお腹側にかけることにした。Aの荷物を代わりにMが持っていくという美談はほんの数kmで終わりを告げた。私は前に赤ちゃんと背 中に爺ちゃんをしょった新聞配達みたいないでたちとなった。しかし、嘆いているわけにはいかない。世の母ちゃんたちが強いのはきっと同じところからパワー が湧いてくるのだろう。
 この日の走りは、忍の一字に象徴された。最初はMが中盤以降はUがそれぞれあと1発でKOされるボクサーの顔をしていた。ただ、偉いと思うのは二人とも 泣き言をいわない。この状況でも折れてしまわない何かを持っているのである。この姿には私も学ばされる。できることなら連中に楽に思ってもらえるような魔 法でもかけたいと思ったが、しんどいゾーンでの走りにはそんな都合のいいプラス材料は存在しなかった。私の「もうちょっと」ももはや狼少年の戯言としか受 け取られていないようだ。もう何ラウンドかすら分からぬ持久戦は、それでも逆転KOに向けて確実に歩を進めていった。途中、いかにも素人姿でひたむきに走 る我々を見かけ、なにやら若い頃を思い出したという人なつこいおじさんがわざわざ車で追いかけてきて、休憩中の私たちにお小遣いをくれた。
 北潟湖にさしかかった。この湖が終われば休憩の予定だ。しかし、この湖はくねくねと細長い。ブランドカーブが開ける度にそのまた先が現れる。何度も期待 を裏切られ連中は「いじめの湖」と命名していた。再び国道8号線に合流し加賀温泉の巨大な観音像が見えた。小松の街はもうすぐそこだ。マラソンでいえばも う競技場が見えてきたようなものだ。しかし、初陣の連中には、あとどれだけかが分からない「未知」の部分が、不安を増幅させ疲れをより一層深刻なものにす るのだろう。Uにとって、最後の十数kmは空気の濃さがいつもの何倍かに感じられていたのかもしれない。同じようにこいでもなかなか進まないもどかしさを 感じたことだろう。8号線から離れると、いよいよ最後の山道だ。最初の不甲斐なさが嘘のように回復したMを先に行かせ、Uに伴走し声をかけた。「ファイ トぉー! うま納豆ぅー!」このわけの分からないかけ声は最初の年、同じように疲れた様子で奮闘していたYに聞かせたものであった。ただ、由緒正しいこの 声援がUの力になっているようにはあまり感じられなかった。 ‥かくして、最後の峠を上りきり、下りの特別にすがすがしい風に迎えられながら、一行は無事 ワンネススクールに到着することが出来たのであった。
 今年も要作さんの笑顔があたたかい。奥から待ちくたびれたAも顔を出し、みんなで乾杯し記念撮影をした。Uの携帯には、手づくり市で奮闘する留守番組の 写真が送られてきていたので、それを返信した。夜は要作さんが裏庭でバーベキューをして下さった、ワンネスの卒業生南くんも歓迎に顔を出してくれて、みな で美味しく楽しくゆったりとした時間を過ごした。南くんの送迎でバードハミング温泉にも入ることができた。明日は休息日ということもあり、久しぶりに屋根 の下、ふとんで寝るありがたみを感じながら眠った。

◇ 6月16日(木) くもり一時雨 ◇
「三馬鹿のバカンス」の巻
 さて、今日は休息日。朝食後にはまず洗濯をした。行きの衣類をまとめて洗っておかないと帰りに着るものがなくなってしまう。グランド隅のフェンスには今年もきれいに洗濯物が並んだ。
 続いて、午前中は近くの川に釣りに行くことにした。ここは一昨年、偶然鯉を釣り上げたところである。その時には糸を引いたり緩めたりしている最中に群の 仲間も一緒に姿を見せた。我々は釣り上げたものを鯉夫と名づけ、名残惜しそうに寄り添っていたものを鯉子と名づけていた。いつしか「次は鯉子を釣ろう」と いうのが合い言葉になった。花壇の土にいたミミズと幼虫をエサに、ドジョウならぬ二匹目の鯉を目指して釣りが始まった。最初は私とMが調子よく釣り上げて いった。しばらくしてUも釣れ始めたが、不思議とUの獲物は極小ばかり。Uの性格を冷やかすかのような展開に思わず苦笑したが、その後Uにも順調に大物が かかるようになりホッとした。さて、問題はAであった。なかなかあたりが来ない上、せっかく来た初あたりにも逃げられてしまう始末だ。片手で、しかも利き 腕ではないというハンディが可哀想であった。もちろん、持ち前のどんくささのせいもあるだろう。しかし、アクシデントにもめげず、前向きにここまでやって 来たAにはいい思いをさせてやりたいというのが人情ではないか。私はAのエサをとっておきの幼虫に取り替え幸運を祈った。その甲斐あって、しばらくしてA にもやっと釣れた。今度は咽までしっかり飲み込んでいてそう簡単には逃げられなかった。その後は、2匹、3匹と順調に釣れるようになった。結局、鯉子には お目にかかれなかったものの、みながほぼ初めてという挑戦にしては大満足の成果をあげ、ホクホクした気分でワンネスに戻った。外の流しで獲物を捌いている とポツポツ雨がきた。私は手がふさがっていたので、連中が急いでフェンスの洗濯物を取り入れてくれた。ただ、私の靴下とパンツだけはそのまま放置されてい た‥。
 お昼は鳥越名物「一揆そば」を食べに行った。草餅の天ぷらやゼンマイなどが入った風土色豊かな一品だ。そばが美味しい地域は昔貧しかったと聞く。加えて ここは一揆の里でもあるらしい。ハングリーさと反骨心を今に伝える味かも知れない。がんばってここまで来たご褒美としてこの貴重な一杯を美味しくいただい た。
 その後、夕食などの買い出しのためそのまま生協まで足を延ばすことにした。Aに合わせみな徒歩で行ける場所であった。例年、自転車で何気なく通過してし まう橋から見おろす景色が実は大変な絶景であることに初めて気がついた。やはり、徒歩でしか気づけないものもある。生協の帰りには名水百選の一つ「弘法 池」にも立ち寄った。散歩を兼ね、徒歩ゆえのゆったりとした時間を過ごし帰ってきた。
 夕食は、昨晩の冷やご飯が残っていたので、それを卵炒飯にするアイデアの延長で麻婆豆腐とワカメスープを加えた中華定食とした。要作さんちの小松菜のお ひたしと、午前の成果である魚たちも甘辛く煮込まれて食卓に彩りを添えた。夕方からはワンネスの卒業生であるヨッシー君とよしひで君も顔を出してくれて一 緒に卓を囲んだ。交通の便が悪いにもかかわらず、私たちのためにわざわざ出てきてくれるのは本当に嬉しいことだ。
 その後、要作さんとチビチビやりながら近況などを語り合った。ワンネスは少子化のため最近は行政からの要請も受け、いわゆるニートへのケアなども手がけ ておられるそうだ。実際にそういった人たちとの関わりを通じて感じることなど興味深くうかがった。ただ、私はニートには「対策」が必要なのではなく、そう いった現象を生む社会に対してこそ目を向けるべきだと主張した。私たちが飽きもせずワンネスに通い続けているのは、要作さんやこの場が大好きだからだ。こ の場が秘めた素敵なエネルギーは冬の時代を乗り越え、いつかきっと大輪の花を咲かせるはずである。酔って寝た。

◇ 6月17日(金) くもり時々晴れ ◇
「上り坂マンと下り坂マン」の巻
行程:鳥越村〜小松〜北潟湖〜福井〜武生
 昨夜はひとしきり雨が降った。走行中の雨はもちろん何としても避けたいことであるし、テントにいる時でもしとしと降られるのは嫌なものである。しかし、 今年のサイクリング期間中の雨は、私たちが屋根の下にいるこの時だけであった。この幸運は本当に有難いことだ。今回は特に日程が梅雨入り後に食い込んでし まったので心配していたが、ふたを開けてみれば私たちの晴れパワーが勝ったようであった。
 要作さんと再会を約束し、Aを駅までお願いしてワンネスを後にした。今日は、行きの最終日をそのまま逆にたどるコースだ。さて、わく星サイクリングには 「帰りは速いの法則」がある。この仕掛けは実に明快だ。往路において疲労に拍車をかけていたあの「未知」という要素が取り除かれるからである。この坂を上 り切ったらしばらくは下りを楽しめるぞ‥予測に基づいて気持ちにもメリハリを効かせることが可能となるのだ。実際、加賀の観音像が見えるところまですぐに 着いてしまった。これぞ楽ゾーンでの走りである。行きと同じく北潟湖のはずれで昼食とした。ここでまた人なつこいおじいさんがいて、私たちの前でたまたま 柱にぶつかったのをきっかけに、なぜか戦争中に百姓仕事が嫌で海軍の航空隊に入った思い出を繰り返し聞かせてくれた。今年はこういった憎めない人との出会 いが多かった。なんとか一段落して、再び出発した。
 さて、私には小さい頃アレルギー性鼻炎の症状があった。徐々に改善し、今では忘れたころに点鼻薬を吸入する程度で何の不自由もない。しかし、今朝はどう も突発的にその症状が出てしまったようだ。雨で冷えた中、薄着で風を切ってきたせいだろうか。くしゃみが出るとなかなか止まらない。それに、少し寒気がし てどうも熱っぽい。気合いで押さえ込もうとしてもしても、鼻の辺りを中心に世界にもやがかかったような感じだ。このままでは危険だ! 連中に頼んで休憩を とることにした。私はためらうことなく路肩に横になり、15分したら起こしてくれと言って、一気に眠りに落ちた。私が寝ている間、Mが自作のストーリー 「上り坂マンと下り坂マン」の話を一生懸命話していたらしいが、まったく聞こえなかった。かなり集中して眠ったのだろう。「15分経ったでぇ〜」というま ぬけな声に起こされて現世に帰ってきた。大丈夫か? 自問する。 ふぉっふぉっふぉ‥身体は大丈夫だと言っているようだ。すっかり治まって、一行はまた楽 ゾーンの流れに乗り直した。
 福井の中心街を過ぎ、今日の行程も終盤にさしかかる辺りに、昨年Sが前かごのトラブルから激しく転倒した場所がある。初陣の連中はエピソードだけはみや げ話として聞いているものの、ここがその場所であるなどということはもちろん知らない。旅を経験した者の心の中にだけ、思い出の数だけ地名とは違った特別 な名が刻まれているのだ。今年一番深く刻まれた名所はAの撃沈ポイントだな。みんなの中には他にもどんな場所が印象に残ったのかなぁ‥ そんなことを思い ながらSの思い出の場所を過ぎていった。
 同じ距離の走行であるにもかかわらず、往路よりかなり早く終点に着いた。さっそく銭湯で疲れを癒し、その後Aが待っているはずの例の公園に向かった。遠 目にAの姿を探す。あっ、ベンチに人がいる。タスキのような白いバンド‥Aだっ! こうして今日も無事再会を果たせた。要作さんは金沢方面に気功教室をし に行く予定があったので、それについて行って金沢からの電車の旅であったそうだ。お団子をお土産にもらってきてくれた。Uに留守番と米洗いを頼みAMと一 緒に歩いて買い出しに行った。ちなみに、米は要作さんが「割れ米でよければ持っていくか」と持たせてくれた自作のものであった。連中のリクエストで今夜は 親子丼となった。空が明るいうちにすべての段取りが済むことは、テント泊では実に理想的だ。道中は別に移動しながらも、こうして合流すれば話がはずんでみ な本当に楽しそうにしている。事故直後、今年は断念かもしれないと思ったこと、また多少の冒険かもしれないけどこのまま行こうと決心したことなど思い出し ながら、これでよかったんだなぁ‥と感慨にふけっていた。ちなみに、連中はこの時、Mの足が臭いのどうのと全然ラベルの違う話に夢中であった。

◇ 6月18日(土) 晴れ時々くもり ◇
「進化の真価」の巻
行程:武生〜今庄〜敦賀〜塩津〜長浜
 Uは早起きである。というより、合宿ではあまり落ち着いて眠れないらしい。損な性格だ。残り2名の豪快な眠りっぷりと比べて理不尽に思う。えっ、私も2 名の仲間? 失礼な。一緒にしないで欲しい。 ま、ともかく例年、私が一人朝食の準備をしているところを奴らは知らない。けれど今年はUが毎朝それを眺め ていた。門前の小僧であるのか、テレビ前のダメ親父であるのかは知らないけれど‥。
 さて、今朝もAを残し自転車隊は出発。Aは駅まで徒歩、電車で長浜駅に移動後、行きに買い物をしたスーパー「ふたば」まで歩いてそこで合流という予定 だ。この長浜駅から「ふたば」までの道順がAに分かるかどうか、私には超不安であったが‥。ちなみに、今日の自転車隊のコースは往路の逆ではなく復路用の 特別コースであった。つまり、一点集中型である往路での厳しい峠越えを避け、少し遠回りながら困難をいくつかに分散させていたのである。
 まず、順調に流して南越町の南消防署の前まで来た。ここの隊員の方たちがAを病院に搬送してくださったのだ。私たちに気づき、お世話くださった山田さん がこちらに出て来られた。Aは元気にしていること、結局鳥越村まで行ったこと、テントでは一緒に過ごしながら旅を続けていることなどを報告し、改めてお礼 を申し上げた。山田さんは穏やかな人柄でかつ頼もしく見え、救急隊という仕事をまぶしく思わせるような人であった。Aの乗った救急車の前で一緒に記念写真 を撮らせていただいて、その場を後にした。
 ここからは365号線を離れ、旧国鉄の線路跡をたどる、第1難関のだらだら坂だ。車の往来が少なく緑も豊かなので気持ちのいい道であるが、延々と緩やか な上りが続くので忍耐が必要である。しかし、連中はここで驚くべき威力を発揮した。牛歩ペースではあるものの、初年度の連中ですら音を上げたこの坂を押し て歩くことなく最後まで上りきったのである。実は、先に触れた「帰りは速いの法則」にはもう一つの仕掛けがある。それは、往路を走覇したことで心身共に進 化していることである。こんな短い期間でありながらも体力、精神力とも一皮むけてしまうのだ。連中はさっそく進化の真価を見せつけたのであった。ちょうど Mの日焼けした鼻の頭も一皮むけようとしていた。
 辛い坂も上り切ってしまえば必ずご褒美が待っている。ここからは敦賀の街まではなだらかな下りが延々と続く。途中、洞窟のようにスリリングなトンネル ゾーンと、時折覗く敦賀湾の美しい景色が、私たちをおおいに楽しませてくれた。市街の公園にて、素朴なおかずでご飯をたっぷり戴く「心意気弁当」を今日も 食べ、第2の難関に向かった。実は、この後の難関は避けようと思えば避けられる特別な抜け道があるのだが、そこには自転車の通行が禁止されたトンネルが存 在した。過去2回ほど、それを承知でこのショートカットを断行したのだが、今年はあいにく行きの時にこのトンネルの出口付近を見張っているパトカーを目撃 してしまった。初陣の連中には可哀想だが、面倒なトラブルを避けるため、あえてこの後の難関に立ち向かわねばならなかった。
 敦賀から塩津にかけてはちょっとした峠越えだ。幹線である国道8号線なので、栃ノ木峠ほどの難関ではないが、登坂車線が設けられるくらいの傾斜があり、 車なら数分で終わる坂道も自転車にはなかなか辛いものがある。忍耐が必要な道だ。だが、連中はここでも見事に進化の真価を発揮した。先程と同じく牛歩ペー スではあるものの、ギアを駆使して見事に上り切って見せたのであった。U曰く、我ながらこれまで一番かっこよかった気がするとのことであった。私も同感で あった。往路でのダウン寸前とは違い、今日の表情は勝ちにいっているボクサーの顔であった。しぶい! このとっておきの表情を記録しようと、シャッター チャンスをねらったが、奴らは嫌がって成功しなかった。ま、気持ちは分かるが‥。よって、映像は読者諸氏の想像にお任せするしかない。
 さて、最後の難関は体力的なものではなく、静ヶ岳付近の長い2つのトンネルである。幹線の国道ゆえに交通量も多く、外とは別次元の風切り音もかなり脅威 的である。風圧で吸い込まれないよう慎重にバランスをとって辛抱強く通り抜けた。一応、歩道は設けられているものの、生身で通る人のことを本当に考えてい るとは思えない、車社会を象徴するようなこの構造には、いつも不満を感じざるを得ない。ともかく、最後の難関も無事通過しこの日は、全日程中最速のペース で目的地、Aとの待ち合わせ場所であるスーパー「ふたば」に到着した。
 しかし‥、Aはいなかった。ひょっとしたら私たちが早過ぎるのかもしれないと思い、先に買い物をしながらAを待った。しかし、一向に到着しない。やはり 駅からここまでの道順が分からないのだろうか‥。やむなく、二人を残して私が駅まで迎えに行くことにした。しかし‥、姿が見えない。どこかで迷子になって いるか、あるいは、乗り継ぎが分からず駅にすら到着していないのかもしれない。悪い想像はいくらでもできた。やはり、奴には高いハードルだったか‥ 考え られる可能性を挙げながら解決策を思案し始めたその時、後ろでAの声がした--「あ、ボクやけど‥」 やはり道が分からずにうろうろしていたようだ。ま、 とにかく無事駅に着いただけでもよしとしよう。「ふたば」まで歩き、再び全員が集合。みなで銭湯に行って、疲れを癒すことにした。ちなみに、今年は新境地 「いなり湯」でお世話になったのだが、中でご一緒したおやじさんの入れ墨は史上最強だった。静ヶ岳のトンネルとはまた違った緊張感でやり過ごした。
 テントを張る公園はここから自転車で15分程の所にあった。徒歩のAを一人にするわけにはいかないので、Uに押し歩きで一緒に来てもらうことにし、私と Mは自転車で行って先に夕食の準備を始めておくことにした。この日は2日目と同じくキーマカレーであったが、前回は多少辛目が不評だったので、今回は野菜 ジュースを増やして甘口にした。これが連中には絶妙のバランスだったようで大変好評だった。私個人は2日目の方が好みだったので、味覚の違いには新鮮に驚 かされた。今日も日のあるうちにすべての段取りを済ませてゆったりと最後の晩餐を楽しむことがきた。Aのお父さんに電話し、明日はAも一緒に走る気分を味 わえるようにしたいと、車での伴走をお願いし、快諾をいただいた。

◇ 6月19日(日) はれ ◇
「炎天下のラストラン」の巻
行程:長浜〜彦根〜近江八幡〜大津〜北白川
 最終日、500kmの旅もいよいよ大詰めだ。今日のコースは往路の逆をほぼそのままたどるナチュラルコース。行きに練習と位置づけられた湖岸の平坦な道 のりは進化を遂げた部隊にとっては、もはや整理体操のようなものであろう。実際、例年この最終日は快調に飛ばしてゴールしている。今年も無事に走り終えて 波瀾万丈だった2005年版のフィニッシュとしたい。
 朝食をほぼ終え出発の準備をしているところにAのお父さんが到着した。朝3時頃から家を出て、既に栃ノ木峠まで行ってAのぐにゃり号を回収し終えての合 流だそうだ。私たちの1日半にわたる奮闘が、車でならほんの3時間程度で済むことに、ちょっと愕然とする気はしたが、それはさておき、これでようやくAも 一緒に同じ道のりを共有できる体制となったので、みなで楽しく最終日に挑もうという気分になった。
 長浜を後にし、ひたすら湖岸道路を走る。時折、後からA父子車が手を振りながら追い抜いていっては、前の方で迎えてくれるという体制で、順調に下って いった。追い抜きながらしばらく併走し車のメータで確かめた時速がほぼ20kmだったそうである。理想的な楽ゾーンでの走りだ。「いやぁ‥みんな速い ねぇ」お父さんも感心しておられたこの走りは、1週間にわたる積み重ねの集大成としてようやく完成しつつある姿であった。欲を言えば、ヘルメットがもう一 つ多い状態でこの姿を再現したかった。車の窓から見守るAの心中にも様々な思いがあったことだろう。
 さて、今日も「心意気弁当」を食べ、後半戦に突入し始めた頃から、例年にはない新たな出来事が起こり始めた。それは夏至も近いこの日の晴天ならではの強 烈な日差しであった。沿道の気温表示はどれも30度を超え、日なたでの体感温度は真夏に匹敵するものであった。これは間違いなくサイクリング史上最高のも のだ。天候には恵まれた私たちであったが、恵みのお釣りが思わぬ形で、最後の試練を与えてくれることになった。心地よい疲労に加えこちらはたまらぬ暑さか らみな頬が紅潮している。熱射病や脱水が心配な状態だ。水分補給をしたり頭から水をかぶったりしながらなんとか最後の力をふりしぼった‥。
 最後の休憩地「瀬田の唐橋」に到着した。往路では通らないこの地点までわざわざ足を伸ばす目的は、この橋のたもとにある風流な氷屋さんだ。例年ここで長 旅の疲れを癒すちょっとした贅沢を楽しみにしている。超豪華な宇治ミルク金時SPだ。2日目「己知の冷水」での冷やし素麺にも共通するが、それそのものの 美味しさを超えて更なる美味しさを演出する「状況」という魔法がある。連中はきっと他のどのお客さんたちよりも美味しくこの氷を戴いたのではないかと思 う。「これは○○峠の分、これは××の坂の分‥」という具合に。ちなみに、私はゴールした時の藻留津のためにここではお預けとし、ぐっとがまんした。
 あとは、最後の難関、逢坂山と九条山を残すのみだ。ただ、国道1号線という危険な幹線道路を走るので細心の注意が必要であった。「最後の最後で事故だけ はせんように頼むでぇ!」連中にお願いし、最後の気力をふりしぼった。これまでの厳しい難関の数々と比べれば小規模なものであるが、炎天下での活動はそれ だけで気が遠くなりそうであった。それでも、MUとも進化の真価パワーで最後まで気持ちを切らすことなく頑張りきった。いよいよ蹴上から国道に離れを告げ 疎水に沿って北上する。南禅寺から鹿ヶ谷、銀閣寺を経て、とうとう最終ゴールおけいはんちに帰ってきた。新旧のメンバーたちやお母さんお父さんがあたたか く迎えてくれた。

おわりに
 娯楽が高度に商品化された現在、子どもたちはその商品を消費することで快適に楽しく完結してしまうことができる。しかし、私たちはそれとはまた違うもっ と大きな「楽しみ」や「喜び」を知っている。ただ、それらとの出会いには少なからず能動的な尽力を要する。それを苦痛ととらえるか、楽しみと表裏一体のも のととらえるかは哲学によるだろう。わく星学校は後者に立脚して「自由」というものを考えている。時の支配者たちが用意した「アメ」の快適な側面を自由と とらえるか、あくまでも自分たちで生み出していくものを自由と感じるかの違いでもある。
 冒頭にも述べたように、わく星サイクリングは大人になっていく旅の始まりである。連中は頼もしく成長した。しかし、これはまだ始まりに過ぎない。この体験が糧となって、これから新しい扉がどんどん開かれていくことを期待している。
 最後に、毎年この企画は話題に事欠かないが、今年も、予想していない出来事は見事に起こるものであった。私も旅の途上にあり、多くのことを学ぶ機会が与 えられている。率直に、疲れたぁ‥。これは充実感の裏返しでもあり、この素敵な旅を経験させてくれた三馬鹿とご協力いただいたすべてのみなさんに深く感謝 したい。ありがとーぅ!

(わく星通信05年7月号および8月号より)