ホーム紹介予定Q&A日記コラム夜間部地図リンク


わく星学校のスタッフ、こども、親の会などから寄せられたコラムです。

おけいはん日記 / こさコラム / ぐっちコラム / えいこラム / くぼ新聞


「手に馴染んだ道具」

山口 アツシ(スタッフ)

1  母は縫い物を能くする人でした。子どもの頃、母が縫ったものを着て私は育った。それは今のように手作りが特別な価値や趣味を表していたわけではなく、貧 しかっただけである。母のコートが姉と私のズボンにかわっていった。母は毎日のように糸と針を持ってミシンにむかい、私は母の手もとを飽きることなく眺め ていた。映画のような思い出である。母は自分の仕事に課すのと同じように裁縫道具の扱いにもきびしかった。厚物と薄物用に厳格に区別された裁ち鋏を子ども に使わすことは決してなかった。特に薄物用の鋏は化学繊維を一度でも切ると絹は切れなくなると、普段は大切に引き出しにしまっていた。

  小学生五年の頃、図画工作の授業で、切り出し小刀や彫刻刀を使うことになった。母は私を京極の刃物屋につれて行き、学校が斡旋する価格の五倍も十倍もする ものを買った。もっと安いものでいいと私は言ったが、気にすることはないと母は言った。分不相応な、してはいけない贅沢をしたようで戸惑っていた。そのう え画一的な教育が推し進められていた教室で人と違うものをひとり使うのは小さな勇気がいった。そのとき分不相応と思っていた小刀や彫刻刀、絵の道具は今も 私の手もとにあり三十年間使い続けることとなった。あのとき学校が斡旋した小刀を今も使っている者はいないと思うし、使い続けることができるようの物でも なかった。大量生産大量消費、粗製濫造の時代であった。母が長年使った鋏は形見となって今は息子が使い続けています。ただし薄物用の裁ち鋏は出番がない。

2  私の育った家は古くきしんでいた。次々とあちらこちらが傷んできて、たびたび修繕を必要とした。そのたびに知り合いの大工の棟梁の手をわずらわすことに なった。子どもの私は棟梁のあとをつきまとい日がな仕事をながめて過ごした。そのうちに眺めているだけは物足りなくなり棟梁が帰ったあとかくれて鉋(かん な)を使った。次の朝すぐに彼は気が付いたと思う。職人はそうゆうことに敏感であり、そのうえ職人は自分の道具を人が使うことをきわめて嫌う。子どもを問 い詰めることもできず困ったのだと思う。それで私に古い鉋をくれた。自分の道具があれば悪さはしないと考えたのだろう。生まれてはじめての私の道具であ る。木を削るのがおもしろかった。大工たちが使う、するすると紙のように鉋で削りだす魔法を、私も使うことができた。見よう見まねで刃を研ぐこともおぼえ た。長じて私はその棟梁に家を建ててもらった。あるとき思いだしてその話をした。しわのふえた顔で笑いながら聞いてくれたが、覚えてないと言った。古い鉋 を見せると、鉋のことは思い出したが、いきさつについての記憶はなかった。

 私が一丁の鉋から学んだことは多い。鉋を中心にし て、たくさんの道具の使い方や木の種類などの技術や知識が広がっていった。昔の道具や技術への興味から工芸史や文化史そして歴史一般への関心がつながって いった。自分の手で作り使うことから、現代の社会のあり方、産業生産主義と経済優先社会の疑問を考えるようになった。刃物への愛着は素材としての鉄への思 いとなり、近世のたたら製鉄の遺蹟をめぐることになった。あらっぽくいえば、古びた一丁の鉋が新しい私を削りだし鍛えてきたといえなくもない。

3  道具を使うのは人間だけではない。チンパンジーは原始的な道具を使う。ある鳥は使いやすいように道具を作り、きわめて巧みに餌をとる。しかし道具の使い 方を教えるのは人間だけである。道具に愛着を感じるのも、個から個へと道具を伝えるのも人間だけである。人間は精巧で多様な道具を作り出し、優雅に創造的 に道具を使う。

 子どもたちと工作をするとき私はルールーのようなものを言っている。その逆説的なルールーのひとつに「素手で立 ち向かってもかまわない」というのがある。まさに逆説であり、当然道具を使うべきときには、情況にいちばん適した道具を、最もいい状態で使えるようになる ことを望んでいる。もの作りは完成することが目的のすべてではない。作っていく過程が面白くてたまらないのである。そのことを知ってほしい。道具を思うが ままに使うことができるのが楽しいのである。それを味わえるようになってほしい。工具と道具はどこがちがうのだろうか。工具を使い込んで手に馴染ませて道 具となる。「工具が、その単なる機能の働きを越えて、使い手の肉体の一部となり、はては工人の心とまで結びついた時、工具は道具に化身する」とデザイナー の秋岡芳夫は『木(しらき)』の中で書いている。手の延長としての鋏、指の延長としてのナイフである。道具は物のかたちを変えるだけではなく、使い手自身 までも変えていく。うまくいかないのは不器用なせいばかりではない。手に馴染む暇もなく愛着をもつこともなく使い捨てていかれる工具では困るのである。使 い捨てのような彫刻刀で刃物研ぎを教えるのはつらい。使い捨ての物に比べてその時は高くても、三十年使えるとするとお得ではないか。何度も研ぎ直しができ るほうが安いのではないか。

 手に馴染んだ道具を持てることは人生の幸福ではないだろうか。母の鋏と棟梁の鉋は私に人生の幸福を教えてくれた。

(わく星通信49号-1999年4月-から)