2006年10月以降分からはブログに移行しています。
上から最近のものです。 |
「ミュンヘン」 |
2006年2月26日 マイカルシネマ板橋 |
話題作でした。 スピルバーグ監督で、あの有名なミュンヘンオリンピック時のイスラエル選手団殺害事件。 というわけで、見に行ったのですが・・・。 なんともはや。 今こうしてPCに向かっていても、なかなか進みません・・・。 と、いう映画でした。 映画が深くて進まないのではなく、内容が思い出せないのですぅ。 やたら長かった記憶はあります。 そして、冒頭の選手村での事件シーンも息詰まるものでした。 しかし。 どうも、その後の報復の顛末が映画のメインなのですが。 本当に思い出せません!! 事実なのかどうなのか、余りにずさんな点が目出つ報復計画ぶり。 しかし、今まで歴史の表に出てこなかったんだから、本当はもっときっちり計画されたものだったんでしょうけれど。 何度スクリーンに突っ込み入れそうになった事か。 あれは映画の都合上なのか? イスラエルの政治や人物関係に疎いのも敗因かもしれません。 面白かったのは主人公のテロリストが、やたらと料理上手で、ある種ストレス解消のためにすごい量の料理を作ることでした。 それと、用意されたギリシャの隠れ家で、パレスチナの連中と一緒になって(IRAだとかWTAだとか嘘ついている。)、一緒に寝泊まりして、互いのことを話したりするシーンでした。 こうして、個々で向き合えば分かり合え、友人同士にもなれるのに、そこに「国家」「民族」というものが入ってくると殺し合う間柄になる。 多分、その事を描きたかったと思われるシーンで、唯一印象に残っているシーンです。 そこで、パレスチナ人のテロリストが言います。 「今、あの土地に戻って、民族の地に戻って何があるんだ。あそこには熱い風と砂しかない。そんな所に本当に戻りたいのか?と人は言う。もし、そう問われたら俺は答えるね、『心から戻りたい。』と。」 日本人である私達には、理解し得ない、土地を追われた民族。 それが一番の敗因だったかもしれないと思いました・・。 |
「ブラザーズ・グリム」 |
2006年11月23日 有楽町 |
元々グリム童話が好きというのや、出演俳優が二人とも好きなので出かけました。 一応、事前情報で「グリム童話」や「史実のグリム兄弟」を描いたものではないというのは知っていましたので、その辺は期待せずに。 それでも、あちこちにグリム童話のエッセンスが散りばめられていて。 なんと言っても鬼才、ギリアム監督ですし、チェコで撮影した風景もセットも良かったです。 アメリカ映画とはいえ、全体的に暗い色調で、暗くて迷路のような森や不気味な樹木や馬や沼地・・・。 衛生状態もまじないも生きている時代の背景は上手く出ていたと思います。 それでいて、エンターテインメント。 終始、笑いのエッセンスもちりばめられていて、飽きませんでした。 この映画のテーマのひとつに「兄弟愛」というのもあったかと思います。 そもそもお互い妹の死に責任を感じているという、トラウマ(特に弟)が根底にあるとは思うのですが。 まるで性格の違う兄弟。 弟は、自分は兄のお荷物だって思ってるのかもしれないけれど、兄はきっと弟がいなかったら何も出来ないし、あんなに器用に生きていく事も出来ないんじゃないかと。 まるで、俺様なように振舞ってるけど本当は何もかも弟のため。 弟が一緒にいてくれないと強くもなれない。(・・と勝手に妄想) ところどころ、弟のいないところで吐露する兄の心情がなかなか切なかったです。 「弟のいない人生・・・・」 「怖いんだ・・弟を守れなくなりそうで。」 弟が途中キレて、 「僕がいなくなってせいせいするだろ、なんでも一人締めだ!金も、女も!」 な事を叫んでいた時、お兄さんが「聞いてくれ、」って言ってるのに弟が聞く耳もたなくって、その時のお兄さんの表情がメチャメチャ切なそうで。 わ〜〜ん お兄ちゃんは色々辛いんだよ・・・と、思ってしまったり。 弟がインチキ鎧を着けて森へ入ってしまった時も 「あれは俺が作ったんだ・・なんの効力もないのにっ!」って必死に追っていくところや 魔力に囚われそうになった弟を救ったラストの鏡の女王との攻防戦なんか、完全に兄の自己犠牲だった・・ 最後、御伽噺らしく、「キスで呪いが解ける」ってやつも、 目覚めない兄についに弟がキス・・・?!なシーン。 フツーにお兄ちゃんにキスするんだろうと、素で思ってしまいました。 ていうか、しても不自然じゃないくらいの展開だった・・。 まぁ、そんな事はともかく。 ヒロインの存在感が妙に薄い・・と、思っていたところ。 後でパンフを読んだら、監督のオファーした人じゃ無い人をプロデューサーに無理やり突っ込まれたそうですね。 言を濁してあったけど、監督はもっと野性的な女性を起用する予定だったところ、プロデューサーにもっと「セクシー系」な女優を。 という事で変えられたらしい。 そういうのって、いいんだか悪いんだか。 お金出してもらってる身では、譲歩する所はしないといけないんだろうけど。 それで、彼女の存在感が薄かったのかしら? 「猟師」(赤頭巾ちゃんの猟師も暗喩している)なのに、確かにもっと野性的で森に暮らす人っぽい雰囲気のある女性でも良かったような。 |
「タッチ」 |
2005年9月11日 シャンテシネマ |
エリザベートとハシゴ(笑)。 何でか友達と「タッチ」見ようよー。という事になり、出かけました。 例え南ちゃんが好きじゃない女の子キャラだとしても!やはりタッチ世代としては見ておかなければ! 会社の同僚が「タッチ」のエキストラとして参加したというのもあって、興味津々で見に行くことに。 ていうか、まさか犬童監督が撮るとも思わなかったし・・・どうしたんだろう? 感想は・・まぁ、「タッチ」じゃなかった・・・ いや、一応「タッチ」だったんかもしれないけど。 どっちかというと、高校野球青春映画として上手くまとまっていたと思います。 長澤まさみの南ちゃんってどうよ?と思っていたのですが、可愛子ちゃんというより優等生の側面の強い南ちゃんにはぴったりだった気がします。 そして、漫画の南ちゃんよりなんか男前でした。 映画の南ちゃんは結構好きです。 ただ、どうしてもどうしても許せない事が!!! @3人の部屋においてある南の色紙とかっちゃんの巨大パネルがなかった。 A和也の死の後、それぞれが泣くシーンが一緒にされていた。 B新田の扱いがおまけ。 Cワケ判らないボクシング部のマネージャー登場させるなら黒木先輩の彼女もしくは新田の妹出せ。 以上。 ああ、あとついでに南の友達とかで若槻千夏がでていたのも判らん。 原作だと南って女友達全然いないよね。 そういうタイプだよね。 それがある種南っていう女の子の特異さをかもし出していたと思うんだけど。 この友達が登場したことによってなんかフツーになってしまった気がする・・・原田君へあてがう為にでてきた印象で、原田君は南に永遠の片思いをしていてほしいキャラだったので余計に納得できず・・・ (ちなみに原田君はRIKIYAが演じていて一番カッコよかったよ・・) 上記4つの許せないリスト(爆)のうち、私が特に納得できないのはAです。 原作でも有名なシーンですが、和也の死後、達也も南も人前で決して涙を見せないんですよね。 お互いにさえ見せない。 達也は二人の部屋で、和也が好んで聴いていた「禿山の一夜」を大音量で掛けて、和也のベッドで布団を頭から被って泣く。 漫画という手法の中で、音声が消えた状態のシーンに見える名シーンです。 泣き声が外に洩れないようにして号泣する達也。 南は一人、列車の通過する鉄橋下で、やはり泣き声が他に聞こえない状態で号泣。 お互い、大事な人間を失って、けれど決して一緒に泣いたりはしない。 人前でも泣かない。 これはある意味「タッチ」の人間関係を象徴する重要なシーンだったはず・・・と、私は思っているのですが。 なんかそれが南は高架下で泣いてるものの、「ひ〜〜ん」みたいな泣き方だし、達也は横にいるし。 なんじゃ、これはっっ!? と、本当に「タッチ」としては納得できない部分の多い作品でした。 青春野球漫画としては、なんか皆のびのび楽しそうに野球してたし、上手かったし、良かったです。 (割引で800円で見られたから納得しているのかも?) |
「魁!!クロマティ高校」 |
2005年8月29日 シネリーブル |
チケットの残りが8月いっぱいだったので、仕方なく(?)見に行きました。 だって、選択の余地が〜〜(「チームアメリカ」参照) 原作が少年誌のギャグマンガだという事は知っていたのですが、その内容はまったく知らず・・ とりあえず須賀君がでているという事は知っていました。 須賀君というのがこれまた、正統派の綺麗な顔をしている子なので、漫画にぴったりといえばぴったりで。 ま〜〜・・・映画の内容はどうこういう内容ではないのですが・・・・ とりあえずパンフを購入して、でている役者さんたちと原作の絵を見比べてみたところ、結構皆はまり役でした。 渡辺裕之が高校生とかやってる時点でもうホントに・・・。 しかも(16)まで役名だし! 一種のギャグ映画として、原作をしらなくても楽しめました。 須賀君の淡々とした正統派高校生のトンチキぶりがとにかく可笑しく、そして画面の端々に登場するゲスト的な色々な俳優さんたちを探すのも楽しかったです。 まぁ、頭使わずに見られた映画でした。 『ヒトラー』とはまた違う意味で、オノコばかりの館内でした。 高校生とか大学生とか。せいぜい若いサラリーマンが一人で見ているくらいで、女性がほとんどいませんでした。レイトショーだったのもあると思うんですが(レイトショーのみ上映だった) ある種の疎外感をひしひしと感じつつ見た映画でした・・・・・・。 (前にフライングステージの打ち上げにくっついてって、数十人のゲイの中に混じった時のような疎外感・・・) |
「ヒトラー 最後の12日間」 |
2005年8月21日 シネマサンシャイン |
上映開始直後の恵比寿ガーデンシネマに行列が出来ていたので、多分混んでいるのだろうと、朝一番に一人で見に行きました。 朝いちで行ったせいか、良い席でゆったり見る事が出来ました。 なんちゅーか、男の人だらけでした。 私の座っていた一列全員男の人。 年配の人が多いのは当然なのかなとも思ったのですが、結構若い人も来ていました。 映画が映画なだけに、一人で来ている人が多かったです。2時間半あるんですが、まったく長さを感じさせなかったです。 ドイツ映画です。 ドイツが、「人間ヒトラー」を真正面から描いたのはこれが初めてだそうです。 映画で描かれるヒトラーといえば、チャップリンの「独裁者」に象徴されるように、イメージ化されたものやパロディ化されたものが多く、彼本人を描こうとしたものは少ないように思います。 描かれているのは、ベルリン陥落前の数日間。 彼の秘書として、地下宮殿にも一緒に避難していた若い女性の視点を通して描かれていきます。 日本もそうなのかもしれませんが、当時その最中にいた人間にとってみれば、自分の国をここまで導いてきた人で、尊敬すべき指導者。 そして、秘書たちや女性に対する彼は非常に心優しく気遣いを見せ、紳士的です。 彼を支えて頑張ろう、ついて行こう、という彼女の気持ちはとても自然な事なのかもしれません。 この映画では、ヒトラーや親衛隊の為した非人間的な行為は一切描かれません。 それが、この映画が物議を醸したことのひとつの要因なんだと思います。 けれど。 私達は、彼等のした事を知っています。 たまたまですが、8月の半ばにNHKで何夜にも渡ってアウシュビッツの特集を放映していました。 この特集は、アウシュビッツの被害者のみならず、それに関わったナチス側の人間にもスポット当てていて、連合軍の進攻によって撤退したり逃げたりしたナチスの高官や責任者のその後も追っており、非常に興味深かったです。 彼等もまた、「悪」というよりは何かを信じて突き進んでいたわけで。 そういった基礎知識をもった上で見ていた為に、ベルリンの本部を舞台にして進む映画の背景を思えば、色々うそ寒い気持ちになったりしました。 そして、時折映し出されるベルリン市内の白兵戦。 市街戦となってしまったその悲惨な戦闘風景。 戦時下の一種ヒステリー状態の中で繰り広げられる、市民同士のいさかい、リンチ。 転じて地下宮殿では、ヒトラーがどうしたら綺麗に死んでいけるのかだけを考えている。 ベルリンを捨てて、前線本部を移動すればまだ市民はこれほどまでに犠牲にならなかったかもしれず、けれどベルリンを捨ててはドイツの意味がない・・と、様々な意見を戦わせ、ヒトラー亡き後さえ睨んだ攻防。 そんな中、例の濁声で真っ赤に怒りながら怒鳴りまくるヒトラー。 決して風貌が似ているわけではないこの俳優さんが、仕草やしゃべり方歩き方でヒトラーそのものに見えてきます。 ゲッペルス夫妻が子供達を毒殺するシーン。 地下宮殿から次々に人が脱出するシーン。 市内の野戦病院で血まみれになって治療する人々。 殉死を迫る人々。 現代は「Der Untergang」で、これは「崩壊」とか「破滅」といった意味になるそうです。 ヒトラー個人だけではない、ナチスというひとつの組織の崩壊、そしてベルリンの落城という意味も含み、ある種の市民劇でもありました。 この映画で私が強く思ったことは、当たり前のようでいて中々気づけない事。 『人は色々な面を持っている。』 という事実です。 ゲッペルスの子供達や秘書や職員達にとても心優しく接したヒトラー。 人類史上類を見ない残虐さで一つの民族を抹殺しようとしたヒトラー。 これらは、彼の中に矛盾する事なく同時に存在したのでしょう。 映画の最後に、映画に出てきた実在の人物たちのその後がクレジットで流れていき、実在の秘書の取材映像が流れます。 彼女は言います。 『自分達は、司令部の外で行われていた行為(アウシュビッツ)を知らなかった。 あの時、私はとても若かったのだ。 けれど、若さゆえの無知というのは言い訳にならない。』 ・・・と。 私はこれまた数日前に見た、戦後60周年番組を思い出しました。 それは原爆の開発に関わった博士の一人が、広島を訪ねる番組でした。 原爆開発に関わった、と明らかにした上で広島訪問をする関係者は初めてだそうです。 彼個人の開発に関する様々な言動はとりあえず、おいておいて。彼の言葉で非常に胸に残った言葉があります。 『私は戦争中は「罪無き市民」というものは存在しないと思っている。戦争中は戦闘員、非戦闘員に関わらず戦争行使に関わるすべての人が罪びとだ。もちろん私もだ・・』 この言葉が正しいかどうかはわかりません。 じゃあ子供はどうなるんだとか、きっと色々な意見があると思います。 けれど、私は『市民の責任』という事をやはりいつも考えずにはいられないのです。 そんな色々な事を考えさせられた映画でした。 何にせよ、戦後60年経ったからこそ(関係者がほとんど鬼籍に入っている)ようやくドイツでも作れた映画で・・それでも賛否両論論争を巻き起こしたとは聴いていますが。 それに引き比べて、日本の映画はどうなのかなーと思ったりも。 今年は、戦争や「戦う」事を美化された映画公開が多いように思えてちょっと気になっている私でした。 まぁ、それらはエンタメとして楽しめばイイのかもしれないけどね。 |
「チームアメリカ」 |
2005年8月15日 シネリーブル |
この夏。 何故か私は中途半端にくじ運がよく、シネリーブルのペアチケットも当たってしまいました。 しかし、これが今月一杯しか使えないというシロモノ。 と、いう事は8月に上映している映画しか見られないという事です。 「チームアメリカ」「恋する神父」「なんかアニメ」「魁!クロマティ高校」 以上。 元々シネリーブルは妙な映画を上映しているところですが、ここ最近は韓国映画に半分を裂いてるみたいな所があって・・・・ ってなわけで、巷で一部話題騒然の「チーム・アメリカ」を見に行くことに。 しかしこんな悪趣味な映画には誰も付き合ってくれないので一人で・・・ ご存知の方にはお教えするまでもないのですが、サンダーバードのような人形劇で、チームアメリカという『正義の味方』な人たちが世界平和のために大活躍する話です。 そして最大の話題は、「人形劇なのに18禁!」 根本的な超パロギャグ的な設定のもと、 「ありがちなアメリカンヒーロー映画」 「ありがちなアメリカンラブロマンス映画」 「ありがちなアメリカンドリーム映画」 を、これでもかこれでもかというほどおちょくっていて、 更にアメリカの正義感をまたこれでもかというほどおちょくりまくりの映画です。 「華氏911」なんて目じゃないほどのおふざけぶりとおちょくりぶりで、ええのんか、これ?と、その情報を何かテレビで見た時にはまさか日本にはやってこないだろうと思っていたのですが。 来ましたよ・・・さすがだ、シネリーブル。 ちなみに、主人公はブロードウェイからスカウトされてチーム入りするのですが、それが「演技力」が力になるからという事で。 ハリウッドの右派たち、そして所謂リベラル派たち。有名人も全部実名で登場するし、パリは大破しちゃうし、もうしっちゃかめっちゃかです。 そして、これは実はミュージカル映画?というほど音楽が多用されており、その歌詞がまたイチイチすごい。 そもそも、映画のオープニングに流れるのはガンガンのカッコいいロック。 『アメリカ〜〜〜〜ファックイェ〜〜〜〜〜!』 ですから。 超おかしいのは主人公が夢破れて(?)ロンリーな気分に浸るシーンとかで、これも「ありがち」にバイクで海岸線の夕焼け時を走り、バックにはこれまた「ありがち」なバラード。 しかし・・・その歌詞が。 『ベンアフレックに演技力が必要なように、僕にも君が必要だ。「パールハーバー」はクソだ。○○監督はクソだ。彼が何故映画を撮り続けられるのか判らない〜ベンアフレックはクソだ・・僕よりはましだ〜♪』 そんな歌詞・・。その他にも、「Everyone Has AIDS」とか金正日のテーマソング?「I'm So Lonly」などなど。 また、彼が目覚めて再び仲間の所に戻る決心をした時も 『今の僕では戦えない(訓練していないから)』 『特訓だ!』 なシーンで、バックにはやはりこれまたこういうシーンに必ず使われるロックな曲が流れるのですが。 『そんな時にはモンタージュ、どんな素人も早回しであっという間にすぐプロに。ロッキーもこれで強くなった〜♪』 もう、ホントに・・。 要は所謂「クソ映画」を作ってはハリウッドで荒稼ぎをするプロデューサーや自分たちが世界に影響力を持っていると自負するハリウッドスター達などがことごとく、これでもかという「嘲笑」の対象にされているのです。 そして多分、史上初?の人形どうしのSEXシーン。 これももう・・・なんと言うか。 最初はこれも「ありがち」な足元のシーンとかだけがロマンティックに(爆)映し出されていくのですが、やがて、あり得ない事に。 いや、人形だから何でもありというか。 リベラル派の親玉はアレック・ボールドウィンなのですが、彼はキムジョンイルと同盟を結ぼうとし(もうこの辺は無茶苦茶です)、仲間のマットデイモンの台詞は「マットデイモン!(言い方が妙)」のみ。 そんで、チームアメリカとの戦いの中で次々と殺されちゃいます。 人形とはいえ、ハリウッドスターを木っ端微塵にぶっとばしていいもんなんでしょうか?(爆) そういえば、マイケル・ムーア監督もダイナマイトで飛ばされてたっけ・・ 最後にはキムジョンイルの野望は阻止され、彼はぶっすりと刃の餌食に・・・・と、思ったら実は地球外生物(ゴキブ○でしたが)で、宇宙へ去っていってしまいました・・・ もう、終始ブラック過ぎ、趣味悪すぎ、おちょくり過ぎ・・・・で、一人で見て本当に良かったと思いました。 でも超面白かった・・・。 |
「世にも不幸せな物語」 |
2005年5月4日新宿ジョイCINEMA |
本当は『真夜中の弥次さん喜太さん』を見ようと思ったんです。 学生時代の友人が上京していて、たまには映画でも見たいというので出かけたんですけど・・ うっかりしていた事にレディースデーで、混んでいて諦めました。 で。隣の映画館でやっていてこれを観ることに。 CMでやっていたので、映画の存在自体は知っていたのですが、まったくこう・・自分の琴線には触れてこなかったタイプだったため記憶も興味もなかったんです。 イメージ的には、「アダムスファミリー」みたいな印象でした。 映画始まる前には、主演がジム・キャリーという看板も見たはずなんですけど、それも忘れてしまって。 ていうか、忘れてしまうくらい誰だかわからないんですよ〜!すごい。 映画は私の印象どおり、アダムスファミリーのような、ある種悪趣味というか、ブラックな笑いが随所にちりばめられています。 それでも、主演の子供たちの可愛らしさや完全なブラックコメディまでは行き着かないぎりぎりラインなどに、少しハテナ?と首を傾げてもいたのですが。 終わってから、これが児童書を原作としている事を初めて知りました。 ダメですね、最近の流行に疎くて。 これは全世界で読まれている人気の児童書なのだそうです。 けれど、ハリーポッターなどと違い、全然大人が助けてくれません。 本の冒頭で「幸せな物語が好きな人はこの本を読まないように。」と作者が語りかけるそうですから。 映画の冒頭でも「ハッピーエンドが好きな人は今すぐ映画館を出て、他の映画に行き給え。」と作者に言われます。 何せ、3人の子供たちは火事で両親をいっぺんに失い、遺産は大人になるまで貰えない為に一文無し。 引き取られた遠縁のオラフ伯爵は遺産を狙って殺そうとするし、財産を管理している銀行家はどこかズレた所でしか問題を見てくれない。 とにかく、いざ!というシーンで彼らが頼る大人たちは全然彼女達の話を聴いてくれない。(笑) 奇妙な大人たちと不幸な境遇に囲まれて、彼らは知恵と知識と能力でもってその危機を乗り越えていくのです・・・・が。 しかし、それが殊更強調されるわけでもなく、子供たちは一様に笑顔が少なく、状況をどこか淡々と受け入れていて、それゆえ余計に周囲の大人たちの奇天烈ぶりが際立つ映画になっています。 どこか時代めいた衣装、いつも暗く陽のささない画面、色彩の少ない色調。 確かにどこか御伽噺めいています。 映画の最後に、彼らは財産を奪われ殺されそうになるところを危機一髪で切り抜け、両親の死の謎を解き明かすのですが、しかしそれでハッピーエンドかというとそういう訳でもなく。 オラフ伯爵は結局保釈され、彼らの人生もまた続く。 観終わった後、とても不思議な気持ちになりました。 そしてロビーで原作本を見て、自動小説が原作なのかと知って、驚きいたワケです。 いやはや。 こういったお話は大好きです。 児童書やおとぎ話には、ある種の理不尽さが必要だと思うんですよね。 そうして、彼らがそれらと戦う・・とは言っても所詮子供の出来る事は限られていて、八面六臂の活躍が出来るはずもない。 いやー・・面白かった。 子供たちに人気なのも判る気がします。 変な人がいっぱい出てきますしね。 エンディングロールの影絵のような映像も素敵でした。そしてそこで初めて『あ!そうだ、ジム・キャリーがやってたんだっけ!』と、思い出す始末。 化けっぷりがすごいんですよ。 それからメリル・ストリープも出ています。 ジュード・ロウの名前があったので何だろう?と思ったら作者の声(ナレーション)でした。 きっと自分では進んで観ようとは思わなかったでしょう。それが大当たりで本当に得した気分です。 |
「オペラ座の怪人」 |
2005年3月19日ワーナーマイカル |
ミュージカル超大作の映画化。 もともとオペラ座の怪人はそこそこ(笑)好きなミュージカルであったのですが、あの時代のパリとオペラ座の退廃的な雰囲気をみごとに映像で表現していたと思います。 ミュージカルではあるけれど、全部の歌が台詞なわけではないので、得に冒頭からは台詞ばかりで普通に始まるので、台詞が歌になった途端ちょっとびっくりします。 も少し最初からミュージカルらしさがあったら良かったかな。 どちらにしても。 あのテーマ音楽と共に、くすんだシャンデリアが引き上げられていき、モノクロの画面から一気にカラーへ、そしてきらびやかなオペラ座へ。 のシーンには胸がわくわくします。 出演している俳優さんたちは皆実際に歌っているそうで、ミュージカルが本業ではないのに大した歌唱力でした。 そういう人たちを選んだにしても。 舞台を見ている人たちにとっては、映画ではシークエンスの順番が大分入れ替わっていて、それによって話の意義もなんとなく変わってしまっている部分もあるので、納得いかない所もあるのではないかと思いました。 特にシャンデリアの落下シーンですが。 舞台ではあのシーンで、ファントムのクリスティーナに対しての異常な執着心というか理不尽なまでの嫉妬を感じる事が出来るのですが・・ 映画ではラストに持ってきたことによって盛り上げているワケなんですが。よりファントムの悲しみが強調されていたように感じました。 しかし、衣装とセットの素晴らしさ! やっぱり実写版映画の醍醐味はここに尽きると思います。 オペラ座の舞台裏の喧騒や、なんと言っても舞台では表現しきれなかった地下宮殿の妖しいまでの美しさ。 数々のドレス。 クリスティーヌが初めてプリマドンナとして歌うシーンで着ていた衣装は、エリザベート皇后の有名な肖像画と同じですが、あれはあの当時(19世紀)の流行なのかな? しかし・・。 思うのですが。 ファントムがなんと言ってもカッコよすぎる・・。 ラウルじゃなくてファントムだろうよ!と思ってしまう位カッコイイ。 しかも、彼女の為なら何でもやってしまうくらい(人殺しさえ)彼女を愛している。 仮面舞踏会に登場したときのファントムはクリスティーヌでなくとも、ついフラフラと側へ行ってしまうくらいカッコよかったです。 さて。 この作品について私がいつも思うところなのですが。 「音楽」(芸術と言い換えてもいい)に、魂を渡した人間は最後まで「音楽」と心中するべきじなんじゃないか・・という事です。 もしかしたら私の解釈は意図する所とは違うのかもしれませんが、ファントムは「ミューズ」と言い換えてもいいのではないかと思うのです。 歌手として、彼に愛されたクリスティーヌ。 しかも、一度はその愛を受け入れ、彼から「歌」を習った。 そうして歌手として成功した以上、平凡な幸せは望んではいけないのではないかと思うのです。 もし、そうした生活を望むなら「音楽」は棄てるべきだと。 彼の愛を受け入れ、どうしても歌を思い切ることが出来ず悩む彼女を幼馴染のラウルが柔らかな愛でもって包もうとする。 そんな彼女にファントムがああまで固執するのは仕方ない事なのかなぁと・・。 一度『芸術』を受け入れたなら、それと心中してみせろよ! と思ってしまい、いつも彼女を見ていると苛々するのですが、案外真の芸術家は贅沢なので、「ミューズ」にも「恋人」にも愛されたいものなのかもしれません。 そんなわけで、映画版用のラストシーンにはちょっと微妙な気分の私です。 あの「薔薇」は良かったですけどね。 |
「パッチギ!」 |
2005年2月20日シネリーヴル |
井筒監督久々の会心作!だそうですが、ホントに会心作でした。 いやもう・・・「ガキ帝国」「岸和田少年グレン隊」など、青年期の鬱屈や苛々感を暴力描写とともに描いてきた監督らしく。 この映画も「8割位殴り合ってた」(←映画の感想を求められた時の私の答え)。 しかし、すっごい楽しくて疾走感と爽快感に溢れた映画でした。 舞台は70年代初頭の京都。 この京都というのがまた特徴的な舞台なのかもしれません。 グループサウンズが流行し、バンドやってればモテルけどナンパなのもどーよ。 毎日色々思い悩んでる平凡でちょっとヘタレな高校生が主人公です。 お寺のボンボンで、彼も周りの友人たちも先生たちもなんとなくノンビリした雰囲気が否めません。 京都弁で繰り返される彼らの会話は、騒乱の東京からは遠く、風景のやわらかさとも相まってなどことなくおかしみを感じさせます。 しかし、青年群像劇である本作品にはもうひとつの側面があって、朝鮮高校と日本の高校生達との反目が描かれています。 時代は現在の北朝鮮への帰国も始まった頃です。 日本には学生運動がすこーし下火になったかな・・?な状態。 まだまだ若者が「熱い」のです。 そんな中、ひょんな事から主人公は朝鮮高校に通う少女と恋に落ちます。 しかし、彼女の兄は地元でも有名な狂犬で毎日暴力沙汰が耐えません。 戦後の、特に関西地区の底辺を支えてきた在日の人々。 心が通じ合ったように思えた主人公と朝鮮人部落の人々との間に流れる、深くて暗い河。 「イムジン河」の歌に象徴されるように、京都を流れる鴨川も象徴的に登場します。 けれど。 そんな深い河を越えていけるのも、若さゆえの情熱なのでしょう。 何かが結論づいたという事にはならなかったけど、それでもこうして恋に落ちたり、友情をはぐぐんだりすることで一つ一つ乗り越えていけるのではないか、それには若者の力が必要なのではないか。 そんな事を訴えたかったのではないでしょうか? 主人公を取り巻く人たちや歌も魅力で。 無名に近い主要な若者たちを良く支えていました。 笹野高史、余貴美子、大友康平、そんなんで良いのか!だった高校教師の光石研。 それから、アルフィーの坂崎さんをモデルにしたというオダギリ演じる所の同志社出の酒屋のボンボン。 主演の塩谷君は、私はハリケンジャーで知ってましたが(特撮好き)、これが多分本格的な映画の初めてだったんじゃないかな? 挿入歌を塩谷君、オダギーが歌っていてそれも良かったです。 |
「レディ・ジョーカー」 |
2005年1月4日CINEMAサンシャイン |
言わずと知れたベストセラーの映画化。 映画化の話を聞いたときは、正直「ええ〜〜〜・・・」な、気分でした。 なぜなら。 高村作品を映像化したもので成功していると思えたものは一個もないからです。 つーか、無理だってばさ。 その映像化の難しい作品の中でも、これまた一番難解な作品を選ぶのってどうよ。 と、思っていました。 私でさえ、この上下巻の分厚い小説を読みきるのにはそれなりに大変だったし、登場人物を確認する為に何度も何度もページを戻ったり、人物紹介ページを確認したり。 映像化するという事は、当然何かを大幅にはしょるのだろうし、そのはしょり方が気になるし。 というわけでまったく期待しておりませんでした。 ただ、役者陣がすごい顔ぶれだったので、それはちと期待・・ しかし、合田役にずぶの素人同然の新人を持ってくるってどうよ! とか、合田そんなに若くないし! とか・・・。 どうしても、色々と見る前からすでに不満がありました。 で、期待と不安半々で観に行ったわけですが。 結果から言わせていただければ。 映画としては上出来に仕上がっていました。 映像も、俳優陣の抑えた自然な演技も良かったし、音楽も良かった。 個性的な役者たちは、誰かが突出する事もなく、調和を壊す事もなく、それぞれが自然な演技をしていて、それが世界を作り出していました。 が・・しかし。 やはりどうしても、原作スキーとしては気になる所がいっぱい・・・。 まず、義兄なし。 マークスでもすっぱり無視された義兄でしたが、今回も存在は無視。 いや、確かに加納を入れると話の焦点がぼやけるのも確かです。 では、何故小説には彼が居るのか。 検察側の立場としての辛さとか、警察と検察の情報の保秘し合いとか、義兄を出せばまたそれは組織ドラマとして面白いと思うのに。 昔NHKでやった「照柿」に唯一出てきただけですよね。 やっぱり映像化すると微妙な関係過ぎるから?(爆) それから、新聞社サイドの視点も切られてます。これも2時間の映画に入れると登場人物も増えるし収集つかなくなるからかと思うのですが。 遊軍隊長の根来さん、好きだったのにな。 マスコミさえ、首を突っ込みすぎると命が危なくなる・・・そして、町の片隅で誰にも知られずに消えていく命があるという空恐ろしさを感じるエピソードだったので・・・ レディが何故「レディ」かもなし。 あと、物井さんの娘はなぜか死んでるし、秦野さんの死も描かれてないので犯罪グループ立ち上げを決意する物井の動機が多少弱い感じがしました。 穴のあいたような年寄りの目。 というには、少し弱いかな? 何のつながりもない彼らの動機や犯行に至る部分がもう少しあると良かったです。 原作で言うと「萌芽」のあたりが随分はしょられていました。 いや、渡さんいい演技していましたけどね。 半田と合田の数年前の確執(階段のシーンや、後日駅前でヴァイオリンを抱えた合田と会うシーンなど)がまったく描かれていないので、何故半田が合田にこだわるのかも全然わかりません。 映画上だと、捜査本部で元警視庁捜査一課の若い刑事が居て、癇に障る位にしか見えなかったです。 突然見つめているし。 そして・・・ 問題の合田刑事。 原作とは別の人物だと思えば、まぁ、それはそれで・・な、感じです。 原作の合田を求めて観に行くと、なんだかなーな気分になります。 なんちゅーか、とにかく若すぎる。 合田、すでに36才位なのに、徳重君は爽やかなルーキーにしか見えんのです。 自転車に白いスニーカーで街を走っている姿など、学生のようです。 顔も綺麗すぎる。 いや、顔が端正でもいいけれど。 刑事や警察という組織に倦んできている感じがまったく出ていません。 パンフを読むと、映画の設定では28歳位なのだそう。 しかし、それでは特殊班の平瀬に対するあの態度のでかさや、蒲田署の青柳とのペアを組みつつも底知れない感じとか、違和感ありまくりです。 合田が何故警視庁から所轄に飛ばされてきているのか・・理由までは描かないにしても「飛ばされた」と言う事実や実は神埼一課長とは以前からの知り合いだという事など、多少なりとも描いてくれたらまた深みも出たような気もします。 マークスの頃29歳だと思うのですが、今回の合田がマークスに出てたら、まだちょっと青い感じが漂っていて良かったかも。 全体的にすごく抑えた演技をしていて、それは本当に本当に演技勉強したんだろうなぁとは思うのですが。 ド下手ではないのですが・・・。 しかし、周囲が上手すぎる。 こんなに芸達者な、演技の上手い人たちに囲まれてしまうと、やっぱり下手さが際立ってしまってました。 半田が吉川なのならば、合田もそれくらいの年齢の人を出してこないとダメだろう・・やはり。 あと、合田が半田にラブレター(笑)を送り続けるエピソードとかも、もう二人ともある意味イッちゃっててあんなふうになってしまうのだけれども、それもなんだかな、な雰囲気でした。 ただ正義感や義憤に燃えてやっているように見えて・・それはやはり違うと思うので、もっと合田のいっちゃってる感が欲しかったのですが、まぁ・・ルーキーな合田だったので、無理と思われ。 合田の部屋とかも、なんかもっと片付いてる印象があるんですが、普通に汚い男の部屋でした。 あと、ラストが大分違う事を付け加えておきます。 原作はあれはあれなりにハッピーエンド(とは言わないだろうけれど)な印象があるのですが。 ううーん。 映画の方が救いがありません。 あと高さんのキャラがちょっと弱っちかったかなぁ? 私の印象ではもっと、こわもてのがっちりタイプで物井のじいさんにも立ち入れない部分を持っている感じなんですが・・・ 最初、誰がどのキャストをやるのか判る前、出演者だけを聞いた時は、吉川が高さんをやるんだと思ったんですよ。 そして、吹越満が半田だと思ってました。 いや、マジで! あの半田の粘着質な性格は、絶対吹越さんだ!とおもってました。 しかし、吉川の半田も良かったです。 本を読んで想像していた半田とは大分違いましたが、凄みを出せていて良かった。 しかし、布川さんは年を取りすぎてるし・・・ レディの父親という時点で、もっと若い人でないとおかしいですよね・・。 まぁ、本当に言い出すと原作好きにはキリがないのだと思いますが。 しかし、一編の日本映画としては良く仕上がっていたと思います。 日活&石原軍団にありがちな妙なノリにならなくて良かったし(本当に)、お涙頂戴みたいにならなかったのも良かったです。 なんだかんだ文句言っていますが、冒頭で言ったとおり、結論としては上出来でございました。 |
「華氏911」 |
2004年9月23日池袋シネリーブル |
言わずとしれた話題作。 マイケルムーアの作品はかつて「ロジャー&ミー」(ゼネラルモータースに突撃取材した言わば彼の出世作)を見た事があるだけで、「コロンバイン」は実は見ていません。 しかし、この時代環境の中でこれを見ないというワケにはいかないだろうと。 興味ないからとか、こんなの編集でうまく繋げているだけとか、ムーアがまたやっとるとか。 そんな事を言って目をそむけたり、見もしないで何か語るよりは(どこぞの首相みたいに)、とにもかくにも「見てから」。 先行公開の時は恵比寿で長蛇の列だったみたいですが、公開からそこそこ日が経っているのと、朝一番で観に行ったせいか、ぎりぎりに飛び込んだにも関わらず、空いていました。 出てきたら、次回を待つ人が長蛇だったけど。 約2時間以上の、ドキュメンタリーフィルムやニュース画像、そして西部劇や往年の刑事ドラマをパロって繋げた作品を見て思ったことは。 私が何か・・こう批評家めいた事をここでは書けないという事です。 編集の妙ですね、とか。 テンポよく上手く繋いでる、とか。 余りにある方向性に偏って作られた映画だ、とか。 ムーア自身があんまり登場しなくて、今回はつまらないとか。 映画の作り自体に、何か言う気持ちにさえなれません。 もしくは。 この事実を知らなかった事が恐ろしい、とか。 ブッシュはなんて酷いんだ、とか。 そんな事でもありません。 ただただ、非常に醜悪なものを見た。 という感想です。 笑う気にもなれなかった。 もちろん、ところどころにムーアらしい・・こちらが思わずニヤっとしてしまうシーンもあります。 一番はホワイトハウスの周囲をアイスクリーム売りのワゴンに乗って「愛国者法」を拡声器で流しながら回るシーンなど。 後半登場する戦死した兵士の母ライラさんの嘆きや 「俺達はここで何をしているんだ?」 「自分の魂のどこかが死んでいく・・」 と語る兵士たちには、胸が詰まります。 けれど。 なんというか、この趣味の悪さが事実なのだという事にものすごく胸糞悪くなりました。 アメリカ政府関係者と、オイル産業・兵器産業との密接な繋がりも唖然ですが、 最後の方に出てくる、イラク復興事業に関する企業の収益を皮算用する説明会は、本当の意味でのブラックジョークだと思いました。 兵士が死んでいく、民間人が死んでいく、焦げてただれた死体、ハエや虫のたかる死体、嘆く母親、帰国した無言の棺の葬列。 その一方で、面白くもないジョークに醜悪に笑い、顔を皺くちゃにし、杯をかかげる人々。 くだらない。すべてが醜い。 そんな想いしか持てない。 ただ、それでもこういう醜悪なものから目をそらしてはいけないし、知らなければいけないのだと改めて思いました。 奇しくも観に行った日、朝日新聞の天声人語にアイゼンハワーの言葉が引用されていました。 「我々は軍・産業複合体が(略)不当な影響力を手に入れることがないように厳戒しなければならない。権力が誤った場所におかれ、恐るべき形で高まってゆく潜在的な危険性は現にあるし、今後とも根強く存在し続ける事であろう。」(『回想録』みすず書房) もう何十年も前から、アメリカ大統領自身が警告している事です。 終盤、登場するライラさんがホワイトハウスに行きます。 撮影しているムーアのカメラに割り込んできた女性が(こういう人がいる所がアメリカらしいですが)、「彼女は演技してるのよ。演技で泣いてるのよ。」と、イチャモンをつけます。 その女性に向かって、ライラさんは自分の息子がイラクで死んだ事を泣きながら告げるのですが、彼女の答えは「アルカイダが殺したのよ。」。 そうじゃない。自分の息子を殺したのは一体誰なのか。 「これほど皆が無知だとは思わなかった。恐ろしいわ。私もそうだったのよ。」 |