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短期滞在者の目で見たネパールです。複雑な政情や、奥深い人々の生活文化について、未熟な理解や誤解もあるかもしれませんが、活動報告の一片としてお読みください。


1月

 昨春から秋までの停戦はもろくも破られ、ネパールでは再び、マオイストと、軍や警察との衝突が各地で再開している。タトパニ村があるミャグディ地区は、マオの活動区にひっかかっているため、村の友人たちは、SCDCの活動が目立つことを心配し、建設プロジェクトは控えるようメールでアドバイスしてきた。このため、今回はカトマンズやポカラで様子を見ながら、タトパニ行きを検討することにしている。
 カトマンズは、昨年よりも暖かく、また、観光客の集まるタメル地区は、静かで、気のせいかこぎれいになったようだ。だが、地区の外に出れば、交通 はいっそう激しく、排気ガスや騒音は相変わらずだ。新聞では、大気汚染の悪化や、飲料水の確保が困難だという記事が頻繁に掲載されていた。
 所用を手早く片付けて、静かなポカラへと急ぐ。ところが、この日、ポカラでは「バンダ」と呼ばれる交通 封鎖のお触れがでていた。これは、マオイストが、車に乗ってはいけない、店も開けてはいけない、と市民に呼びかける(強制する)もので、一種の示威活動だろうか。空港からタクシーは一台も出ていない。バックパックを背負い、コンピューターを抱えて、レイクサイドまでとぼとぼ歩く。一日程度なら、騒音も排ガスもなく、ノーカーデーの祝日か、と勘違いするような穏やかさも漂うのだが、移動予定日にはやっかいだ。
 さて、今回は、ポカラでの滞在が長いだろうと、ホテル代を節約するために、月払いで部屋を借りることにした。SCDCのスタッフであるゴパールやその友人の紹介で部屋を借りたビラ・パピロンの主、ビシュヌさんは、環境活動に関心があり、外国人用のひと棟はコンクリート作りだが、家族用の住まいは、土壁の伝統的な家屋で、広い庭には、さまざまな木々や花はもちろん、大きなアボカドやバナナまで元気よく育っている。ホテルが立ち並ぶメインストリートから、少々引っ込んだこの近隣一帯を、できれば伝統的な建設スタイルを守った家々が残る集落にしたいのだと、すばらしい家のデッサンを見せてくれた。SCDCやESIの壁を作ったラムド・アース手法にも関心を寄せ、敷地内の壁(塀)づくりで、ぜひチャレンジしたいと言ってくれた。

 15日は、「夏の始まり」を祝う祭日。ビシュヌの妻、陽気な二ルが、蜜で固めた胡麻団子やバナナなどのお裾分けを届けてくれたが、この日は、他にサツマイモやほうれん草などを食べるのだと新聞に紹介されていた。一年で一番寒い日なので、体を温めるものを食べるのだそうだ。

 26日、いざ、タトパニへ、と荷造りを万端整えたところで、その日は再び、バンダだだと知らされた。仕方ない、一日ずらして、27日、ポカラを出発した。

 チベット医療
 年末から、肩の痛みを訴えていたダグラス・ファーと、長年のじんましんに悩んでいた私は、カトマンズでチベット医療病院を訪ねた。実は、ダグラス・ファーは、二十数年前にネパール国内にあるチベット寺院で、チベット医療を学びかけたことがあったのだ。患者の訴えを聞くと、ドクターは、そっと脈を取るだけ。ダグラス・ファーは、背骨の辺りが弱っていると、「プレシャス・メディスン(貴重なお薬)」をいただいた。チベット医療の薬は、漢方のように薬草などをミックスして、丸薬にまとめている。見た目は、ウサギやヤギのフンそのもので、においや味がかなりきついものもある。日数分、プラスティックの袋に入れられる。プレシャス・メディスンの場合は、その混合物に鉱物など貴重なものが含まれるらしく、チベット僧が特別 なお経もあげたりするそうだ。処方箋は週一回。一粒ずつ、赤や青の裂切れで二重に包まれ、プラスティックのケースに入っているので、見るからに貴重で効きそうだ。実際、一週間後、ダグラス・ファーから、肩の痛みは消えていた。私のじんましんは、長く長く薬を飲み続けなければならない、血をきれいにするために、きついスパイスや、強いコーヒーも控えなさい、と言われ、みるみる効果 が現れたというわけではないが、日本の病院で、ストレスです、と抗生物質を与えられるよりは、納得のいく所見だった。診察と、一週間から一か月分の薬代合わせて、500円から1000円程。帰国前には、もちろん、三か月分追加処方してもらった。

2月
 トパニ村で、小学校のトイレの実情を知り、橋の土台のさみしそうな姿を見た後、村人たちから、マオイストの情報収集などをしながら、今年のSCDCの活動内容を練る。カリ・ガンダキ川が、温泉プールから遠ざかり、昨年の川床が今年は見えているため、今後の雨季に備えて、護岸工事をしたい、と村人たちは助成金も申請して計画を練っている。ダグラス・ファーは、2〜3年計画で、堅実な予算内でしっかりしたものを作れるよう、護岸のデザインを提案したが、現在、村のキーパーソンたちは、カトマンズやポカラにも自宅があり、常に誰かが留守であるため、全員の意思統一を図るのは容易ではない。カリ・ガンダキはこれから日増しに水量 を増し、その名の如く、水色が黒くなる。果たして、工事は間に合うのだろうか。

 マオイストについては、思っていたほど、今のところ、危険はなさそうだった。建物の建設は棚上げだが、温室とチキントラクター・プロジェクトは進めることにする。護岸工事も始まりつつあり、数年来の付き合いである優秀な建設スタッフたちの確保が難しい。ゴパールの裁量 で、新しいメンバーも試しながら、作業計画を立てて仕事を進めていくのだが、昨年、三ヶ月間日本で暮らしたゴパールは、その経験を活かして、なかなかのマネージャーぶりを発揮し始めた。土地の人々を上手に使い分けていくのは、やはり、地元の人間だからこそ、であり、同時に、何事も予定通 りにものごとが進まないネパールで、前倒しに計画を立て、予備案を複数用意して、時間と人材に無駄 のないように手配をする日本流「ダンドリ」も学びつつある。彼の来日については、いろいろ苦労話もあったが、甲斐はあったようだ。我々二人は、随分楽になった。

 中旬以降、別件でインドに小旅行するため、タトパニをいったん離れることにした。

 チベットの友人たち
 インドの別 件とは、ダグラス・ファーが二十数年前に出会ってスポンサーをしていたチベット人の「娘」一家に会うという私用だったのだが、ダラムサラでチベット・チルドレン・ビレッジを再訪したり、古い友人に再会したり、デリーのチベット・ユース・ホステルで新しい人々と知り合ったりと、充実した出会いを重ねることができた。SCDCのコンセプトや活動にも関心を持ってもらったが、いずれ、チベット人の学生も一人ずつ受け入れ、新たに彼らのコミュニティに貢献したい、というのが、私たちのもう一つの願いでもある。…それにしても、インドの旅はなかなか大変だ。日本人と共通 するメンタリティをもつチベット人のコミュニティに辿り着くと、正直なところ、ホッとする。娘一家に昨年誕生した孫と、いつかチベットで会える日が、一日も早く訪れるといいのだが。

 

3月
 インドから戻ると、ネパールの全てが穏やかに感じられる。三月のポカラは、既に暑い。観光客も増え、レイクサイドのホテルも連日にぎわっているようだ。6日は、「ホリ」と呼ばれる水かけ祭りで、子供たちと観光客が、顔からTシャツから色とりどりの粉をなすりつけあい、びしょびしょになって、通りを駆けていた。
 翌日、タトパニ村へ向かうが、途中のベニという町からの道が、再びバンダで封鎖されているため、やむなく、ゴレパニを経由する別ルートをとる。これは、1300mほどをひたすら登り、1700mほどをひたすら下るという、頂点にあるプーンヒルからの景観は有名だが、かなりしんどいコース。今回は、ビラ・パピロンのビシュヌの庭から、バナナとアボガドの苗ももらってきているので、バックパックは、土と水で非常に重い。終点に温泉があるから、と足をなだめつつ歩いたが、タトパニの名湯に浸しても、三日間はたっぷり筋肉痛だった。ゴレパニ・ルートは、A−CAP(アンナプルナ自然保護地域プロジェクト)の指導域にあるせいか、町や道もよく整えられていて、美しかった。細く、狭く、延々と続く段々畑には、ネパール人の根気と歴史を見るようで圧倒される。が、帰路は、ぜひともベニ経由で帰りたいものだ。
 バナナとアボガドには、それぞれマイラとアグネスと命名、SCDCの校舎の裏手に植えた。村人にも安く、容易に作れるようにと、試行錯誤のチキントラクターもどうやら完成が近い。話を聞いた村人から、自分も使ってみたいという嬉しい申し出もあった。小学校のトイレも一応掃除がされたので、紙くず防止のカバーを用意、パイプの修繕なども施した。
 タトパニ村は、連日トレッカーが押しかけ、温泉プールも満員だ。一方、ベニ・ルートは閉鎖されたままで、一日に何度も村を行き交うミュールの隊商が絶えて久しい。よく手入れをされているミュールは、美しい頭飾りをつけ、首には大小のベルを下げていて、カラコロと鳴るベルの響きは、特に明け方のベッドや、朝食のテーブルで聞くと、なんともいえない安らぎを与えてくれるのだが、その音色も長く耳にしていない。ガイドやポーターが村に入るたびに、村人は熱心に情報収集をする。米や砂糖などの生活物資が不足しはじめ、人々の不安が増してきた頃、ベニで大きな襲撃があったという知らせが入った。安全を確認しながら、二日後にベニ経由でポカラに向かう。ベニの友人たちはさすがに疲労していたが、帰国後、襲撃時に連れ去られた人々が無事解放されたというニュースを見た。国王も精力的に各地を訪問し始めているようで、状況が良い方向に向かうことを祈る。

 ポカラやカトマンズで仕上げの所用を済ませた後、ダグラス・ファーが急性盲腸炎になるというアクシデントに見舞われたが、ネパール人や日本人の友人たちに支えられ、優秀な病院スタッフにも恵まれて、無事帰国できた。今回は、他にも細々と小さな怪我や病気に煩わされたのだが、なかなか頼りになるネパールの医療事情を体験する滞在でもあった。今ごろは、ゴパールが、チキントラクターを仕上げて、温室のトマトとにらめっこをしていることだろう。彼は、この夏も来日を予定している。現地スタッフの着実な成長は、SCDCの堅実な成長につながる大切な要素だ。私たちも再び健康を整え、ゴパールにとっても充実した滞在になるよう、ESIの活動を再開させよう

 マイラの話
 現代の日本では、子供の名づけをするのに、画数やら易やらさまざまに頭を悩ますことが多いようだが、ネパールでは一昔前の日本と同様、シンプルな名づけが残っている。マイラは、次男坊につける名前で、今回SCDCでは、七人の作業スタッフのうち三人が「マイラ」だった。出勤チェックや仕事の割り振りには、「年寄りのマイラ」「若いマイラ」などと区別してややこしい。そういえば、ダグラス・ファー自身も「マイラ」だった、とバナナのマイラを植えているとき、気がついた。ちなみに、ネパールでは、最年少の息子が家を継ぐことが多いそうだ。

以 上、SCDCでの活動やネパールツアーに興味のある方は、esi@gol.com までご連絡ください。