冬の鳥取砂丘シリーズ No.6

観光地としての考察(その1)


上の写真を見ていただきたい。
福部村側の土産物売り場や観光バス発着所から下り立ち、砂丘に入り、砂の小高い丘を登り上がったあたりから見える景色がこれである。
私は、鳥取砂丘には何があるかという問いにいつも辟易している。
また、以前鳥取砂丘に観光か何がしで行ったことがあるという人から話を聞いても、十中八九いい感想が返ってこない。
私の方でも自嘲気味に「あそこは何も無いよ」と言うように自然になってしまう。
砂丘とは見ての通り砂ばかりなのである。実際に見ての通りなのである。ここに何がしかのレジャーランドのようなものを期待してはならない。そんな人は別の所に行きたまえ。

日本における観光名所は色々とあると思うが、ここほどバスから下り立って僅かな距離を歩いたのみで、ある程度その全容が想像がつくという所も少ないのではなかろうか?
おそらく、この写真からも見てお分かりかと思うけれど、砂丘の奥深く、海岸の方まで歩こうか歩くまいか、大抵の客はこの辺りで躊躇することが容易に想像される。
ちなみに、この拙なページをご覧の皆さんは、砂の地面を歩いた経験がおありだろうか?

いったい、どれぐらい歩いた経験がおありだろう。
砂の地面なら、幼少の時、砂場で遊んだりした経験が誰でもあると思う。また、海水浴で海岸へ行けば、海に入るまではサンダルを引っ掛けたり裸足の格好で砂浜を歩かなくてはならない。
多く歩いた時にも、数メートル、数十メートルといったところだろう。
尤も、砂浜でビーチバレーなんかやった日には、もしかして数キロメートルも歩いたことになるかも知れない。が、一度にそう多く歩いた経験は無いのではなかろうか。
砂の上というのは、普通の地面である土やコンクリートの上を歩くよりも数倍も疲れるものだ。

長距離を歩けば、まず足が疲れる。ひざに来て、足首に来て、しばらく時間が経ってから腰に来る。
履いて行く靴も選ぶ。まず、上等な革靴とかよそ行きの上等な靴を履いて行ってはいけない、女性の方はハイヒールなんか履いてくるものではない。
できるだけ扁平な靴底のものがいい。砂にめり込まない方が、歩くに負担が少ないからである。
(まあ、こういった観光地にヘタな格好で来る人もいらっしゃらないが)

砂の上ならサンダルだという意見もあろう。但しその場合は冬場と真夏を除いての話である。足が露出したサンダルは、それだけで冬場は辛い。鳥取砂丘とは(いや砂丘に限らず山陰地方は)冬場は雪がかなり積もる地方なのである。
真夏にサンダルがなぜダメなのかというと、あの砂の丘である大すり鉢を登れないからであるし、降りることも辛いからである。真夏日の炎天下の砂丘の砂はとても熱く、浜辺を素足で歩いて感じる熱砂が、永遠の如く続いているのである。
では、サンダルを履いているのに大すり鉢はなぜダメなのかというと、熱砂が露出した足の甲の部分に執拗に降りかかってきて、歩くどころではなくなるのだ。どんなに注意して砂の丘を上り下りしてもダメなのだ。私は以前、ホーキンス・サンダルを履いて行ってエライめに遭ったことがある。
とはいえ、それは真夏の炎天下の下だけの話である。

まあ、砂の上を歩くとひどく疲れるいうこと自体、私がここで改めて述べなくても、皆さんお分かりのことなのだが、鳥取砂丘は写真のとおり、客の方に、その疲れを強いるのである。(健康にはいいのですが)
折角はるばる遠方から来られた観光される客の皆様に、ここから先に行くか行くまいかの選択を強いるのである。若い者なら体力もあって良かろうが、老齢な方であったり、身体が不自由であったり調子の悪い方には、これは酷なものである。
どこかの老人会の慰安旅行の旅程にこの鳥取砂丘が入っていた場合、ここまで来たはいいが「わしゃいい。バスで待っとるわ!」といった状態になるのではなかろうか。



鳥取砂丘を観光地として考えてみるに、色々な特徴が見つかってくる。
まず、観光地としてあれほど広い土地なのに、その入口をくぐってすぐに全てが一望できてしまう。まあ、周りを360度見渡してみて、殆どの全容が分かってしまうのである。
写真を見れば、遠方に大すり鉢が見え、観光客が登っているのが蟻のように見えるが、あの大すり鉢の向こうには海があるだけなのである。広大な日本海が。
鳥取砂丘とは、ある意味で手付かずの自然を満喫する以外に他には何も無く、へたに手を加えない形で自己主張するしかない地なのである。
まあ写真を見てみたまえ。ここからあの大すり鉢までは500メートルもあろうか。その距離の間に、冷たいソフトドリンクを飲める所もなく、もよおしてもトイレも無く、ゴミや空き缶を捨てようにもゴミ箱も無く、夏の日差しから遮へいする物や冬の寒風から身を守るものも無い。

この写真からは分からないが、この写真の視点の位置よりも少し手前の所に砂丘リフトがある。別の観光バス発着所兼土産売り場から出ているもので、先程までに述べていた土産売り場やバス発着所の上を行き来するもので、この写真の視点の少し手前ぐらいに降り立つ。しかし、リフトに乗ってきた場合でも、ここからはあなた自分の足で歩きなさい、といったことになる。
最終的には、眼前に見える大すり鉢や海辺の方へ自分の足で行くことになる。
というか、それしか無いのである。
従って、眼前に広がる景色に何の好奇も見いだせない、もしくは咸興も涌かない人には、来ても意味がない場所となる。ここには、どこに行こうあそこに行こうといった名所があるわけでもない。(細かくは砂の地形に名前があるのだが)
歴史的な興味につながるような物も無いし、何がしかの建造物があるわけでもない。あるのは広大な砂の丘ばかりなのである。



鳥取砂丘へ来た観光客とは、広大な砂の地面を前にして一斉に横一列に試験を受けさせられる学生のようなものだ。また、広大な砂の海に船出して行く小舟のようなものだ。
行くと決めた以上、行ってこなくてはならない。折角、鳥取砂丘まで来たのだから、ここで引き返したのでは何のためにはるばる来たのか分からない。話のネタにでも海岸の方まで歩いてみようと、こうなる。

この砂丘に対しては、
初めて見る、真っ白に降り積もった雪を前にはしゃぐ犬のように、純粋な、それこそ純な気持ちで臨む以外にほかはなかろう。
また観光の本来の純なる楽しみとは、そういったものなのではないのだろうか。
よく登山家の方が山に登る動機として挙げるものに「ごく純粋に、あそこに高く見える、あの峰のあの場所に行ってみたかったから」というのがある。よく言われる「そこに山があるから」という文句は、そういったものを一言で表している。
勿論、高山と鳥取砂丘は意味もスケールも違うが、同じような感覚がこの鳥取砂丘を観光地として考えた場合にも当てはまらないだろうか。
そこまで言っては、鳥取砂丘を持ち上げ過ぎなのだろうか。
別に、ここに来てどこを見ようあそこを見ようといったことは、この際どうでもいいのである。
鳥取砂丘とは、もともとがそういった所なのであると思う。

1998/1/19 Toru Okajima

 

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