冬の鳥取砂丘シリーズ No.24

広島の想い出


砂丘にある窪地を上から見下ろす。梅雨時には大きな水溜りとなる。
写真で見る砂の色の変わっている所だけでなく、この写真で見下ろす殆どの地面が大きな池と化す。
その時期には藻が茂ったり、さざ波立ったりしているが、底が砂地なので入るととても危険
。(人の大きさに注目)

 



このページでは、私の親父の書き下ろしたエッセイを紹介いたします。
砂丘には関係ないのですが、鳥取には近くもある広島にちなんだ過去のエピソードで、事実をもとにしたものです。


広島の思い出

昭和20年(1945年)3月は、鳥取の春雪としては意外に多く降った年であった。
この年、3月に私たち一家(父母と私、妹)は広島へ出発した。
その頃、私たち一家は鳥取駅に近い末廣温泉町にある仮設住宅に住んでいた。
昭和18年9月に鳥取地方を襲った震度6の大地震で鳥取市を中心に大きな被害に遭い、市街地は家屋の倒壊と火災でほぼ壊滅した。
戦時中のことでもあり、厳しい報道管制の下で、鳥取の地震は全国に知られることもなく、鳥取地方に大地震があったということを知る人は、ほぼ近県の人か、大阪方面の人達に限られていたと思う。物資の不足している戦時下にあっては、鳥取の復興は思うようにいかず、そのような訳で、私たち一家は震災発生後2年を経ても未だに仮設住宅に住んでいた。

広島に行く目的は、広島在住の伯父一家に逢いに行くためと、この3月に召集令状(広島に集結)が来た次兄の兼春(かねはる)を送るためと(彼は徴用工として舞鶴海軍工廠に勤めていた)今一つは、広島・宇品にある陸軍高射砲連隊に勤務していた長兄の健一(けんいち)に逢うためでもあった。

30センチもあろうかと思うばかりの雪を踏みしめ、私たちはゴム長を履いて鳥取駅まで歩いていった。駅前の小荷物預かり所にゴム長を預け、そこで私達は短靴に履き替えた。
雪がほとんど積もらない広島にはゴム長は必要なく、また、そんなものを履いて街を歩けば、どこの雪深い田舎者が出て来たのかと思われるのが嫌だったからである。
未だ一度も見たことがない中国一の都会・広島に私は憧れていた。
当時13歳であった私は、鳥取の街の外には県内の倉吉、米子くらいしか見たことがなかったから、市内に電車が走っている大きな街を見るのに心がときめき、未だ見ぬ広島に期待し憧れていた。

鳥取から因美線で岡山県の津山に行き、津山から乗り換えて中国鉄道(現在の津山線)で岡山に行った。当時のローカル線は、今のように急行とか特急は無かったように覚えているが、父が切符売場で買った乗車券は、鳥取から広島まで大人7円、小人5円だったと私の記憶にある。
津山から乗り換えた列車の機関車は、これが昭和の世を走る機関車かと思うばかりの古風なもので、普通、汽車の汽笛はポーと鳴るものだが、この古風な機関車はピーと鳴っていたのを今でも覚えている。明治時代に新橋〜横浜間を走っていた機関車『弁慶号』によく似ていて、えらい古い物を使っているなと、子供心に思ったことを今でも覚えているから、印象というものは不思議なものである。



列車で鳥取を過ぎながら中国山地に入る頃になって、雪は少なくなっていた。
鳥取の雪は、浜雪と言って海岸部に多く降るもので、これは鳥取、但馬地方によくあることで、春になってドカッと降るのが特徴だ。
岡山に到着した。私達は山陽本線に乗り換えた。
岡山市は天気も良く、道もカラカラに乾いていた。山陰と山陽では、こんなにも違うものかと改めて驚いたことだった。

山陽本線は複線であり、田舎の因美線、津山線とは問題にならないほど早く感じた。
当時は、今のように電化していなかったように思っているが、或いは電化していたかも知れず、その辺は記憶が定かではない。途中、糸崎という所で事故があったかどうか知らないが、呉線回りで広島へ・・ということになった。少し回り道ということになる。

呉線に入ると、客車内に憲兵(軍の警察官にあたる)が何人か入って来て、窓の鎧戸を下ろすように指示してきた。窓から外を見てはいけないというお達しのようだ。
それは、一般乗客に対して軍が命令するもので、呉という所は、有名な戦艦『大和』を建造したドックがあった所で、日本有数の造船所の一つでもあり、その他にも海軍の司令部とも言うべき鎮守府があり、潜水艦基地から海軍軍人を養成する海兵団がある所である。いわゆる軍港である呉には、常時海軍艦艇が多数停泊していたことから、スパイから秘密を保持するための措置であったと思ったものだった。

昭和も20年にもなると、各地にある軍港や軍需基地、軍需工場は、米空軍のB−29の爆撃で徹底的に破壊されていたのではないか?その当時、恐らく呉は敵の艦載機やB−29の攻撃で破壊されていたのではないかと思ったが、この3月の時点では小規模な艦載機の空襲があったにせよ呉は未だ健在だったと思える。日本に米機が大規模な空襲を仕掛けて来たのは、実に20年も3月以降だったということになる。

思えば、あの史上空前と言われた東京大空襲は、この年の3月であり、たった1回の爆撃でかなりの被害を出したが、この9か月間で延べ10万人以上と言われる死者を出した悲惨極まる無差別爆撃だった。
当時、日本は米国相手に必死になって戦っていた時期でもあり、また、昭和も20年ともなると、ようやく敗色が濃くなって行った時期だから、国民の厭戦気分ということもあって、郡部は国民の士気高揚にやっきとなっていた時期でもあり、機密の漏れるのを恐れて、汽車の窓からでも重要な軍事施設を見せたくなかったのだろう。

昭和20年の3月と言えば、当時は、日本各地に飛来したB−29や、敵空母から発進した艦載機によって、各都市や軍事施設は、かなりの爆撃の洗礼を受けていたのだろうが、中国地方にあっては、中国軍監区司令部、大本営から陸軍の連隊、その他の軍施設が存在していた軍都・広島は、まだ健在であった。



列車が広島に到着したのは何時頃だったろうか。
外はすでに夕刻となり、駅構内を行き交う人達も家路を急ぐのか、何となく慌ただしい感じだった。
広島駅から電車に乗り換え、己斐(こい、現在の西広島)駅へ向かった。外は暗くなって景色も何も分からないが、とにかく広島から西に向かっていることは確かだ。

己斐駅に到着したら、伯父が迎えに来てくれていた。
父は出迎えを謝すると共に、過ぐる昭和18年の鳥取震災の時に、はるばる広島から鳥取に見舞いに来てくれていた時の礼を丁重に述べていた。

あの時、伯父と、私と同い年の従弟の則夫(のりお)は、津山まで何とか汽車で来たものの、津山から北側(鳥取方面)は、地震で線路がグニャグニャになり列車が不通になったが為に、津山から鳥取まで線路伝いに歩いてきたという。大変なことだと思った。
伯父と則夫は荷物(食料、衣類)を背負い手に持ったりして、津山から鳥取まで歩いて来たのだ。鳥取〜津山間は、今で言う鈍行列車で2時間ぐらいはかかるのである。そこを線路伝いに歩いて来たのだから、それはもう大変だったろうと思う。
まして鳥取市内に入ると、街はもはや街の機能は停止しており、倒壊した家屋の上を歩きながら、伯父達は疲れをものとせず、私達一家の避難先を尋ねて回ったのだ。
当時、因幡製材の倉庫に起居していた私達を見つけた時は、張り詰めていた気が一度に緩み、どっと疲れが出た気分だったと言う。伯父達が私達を見つけたのは、丁度、未明の頃だったと私の記憶にある。

「岡嶋、岡嶋信次郎(のぶじろう)は居るか?居れば返事をしてくれ」という声を聞いた時、私達は誰だろうと思ったものだったが、すぐ理解した。まさか伯父達が、遥々広島から駆け付けて来てくれたとは夢にも思わなかっただけに、地獄で仏に逢うとはこのようなことを言うのだろうと思った。
私達は、手を取りあって涙ながらに地震の時の状況を説明し、遥々広島から駆け付けてくれた伯父達の苦労を思い、言葉では言い尽くせない感謝の気持ちで一杯だったことを、今、私が、この年(66歳)になっても、昨日のことのようにありありと思い出す。



伯父の家は八百屋を営んでいた。
家に到着すると、私達は伯父の奥さんである品(しな)さんに再会を喜び、地震の時の恩を改めて謝した。当時は戦時中のことでもあり、食料が極端に逼迫していた。私達は、鳥取から米をそれぞれ身に付けて持って行った。
当時は、主食である米は厳重な配給制度の下にあり、私の記憶では、成人一人当たり2合5勺から2合7勺くらいだったと覚えている。
まあ、工場労働者とか重労働をする者に対しては、その他に幾らかの特配があったと聞いている。そのようなことで当時、外泊しようとすれば、自分の食べる米は自分で持参するのが一般の常識であったから、私達は米を持参したのだが、その他にも伯父の家のためにかなりの米を持参していた。

米と言っても、これは乏しい配給米ではなく、母が苦労して郡部に買い出しに行って求めて来たいわゆる闇米(正規のルートを流通しない米)であった。都市に住む人は米に不足し、苦労していたものだった。日本各地で産出する米は、海外で働いている軍人、軍属から、その他の人達に供しなければならない。
内地の人達は戦争遂行のためには、人間が生きていく為のギリギリの配給量で辛抱していたが、都市部の人達に比べ、鳥取辺の者はそれでも多少は食料に恵まれていたと言える。
私達が遥々鳥取から持参した米を差し出したら、○○の伯母さんに大変喜んで貰って、持ってきた甲斐があったなぁと、こちらも嬉しくなったことは・・・懐かしい思い出である。

○○家は当時、草津という所にあった。隣は銘酒『加茂鶴』で有名な廿日市町(今は廿日市市)で、この辺になると瀬戸内海の塩の匂いがプーンとする所である。
この草津周辺は、これまた有名な『広島牡蠣』の産地でもある。町からそう遠くない海辺には、養殖牡蠣の筏がはるか先まで見渡せて壮観である。
現在では、この養殖牡蠣の筏群は遥か海上に出張っている。
私が戦時中に見た筏の場所は今では内陸部になっていて、恐らく現在では当時より1キロか、またはそれ以上に海に突出しているのではないかと、そんな風に思っている。

当時と比べて現代人の生活水準も向上し、それにつられて生活排水の海への流入によって、清浄な海水でなければ育たない牡蠣は、現代においては益々遠い海上に〈転勤〉しなければならなくなったのだろう。

広島の思い出・・・。何分にも53年前のことであり、私が、この年になって記憶を全て蘇らせることは不可能と思われるので、少しずつ努力しながら書いている。



舞鶴から駆けつけた次兄と、広島勤務の長兄と、鳥取から遥々来た我が家族4人と、○○家の3人。(○○家には、その他に二人の従兄が居たが、長男は軍人として広島には居ない。また、二男は徴用工として広島には居なかった)

大好物の牡蠣鍋を食べる・・・。
この団欒はこれから1年を経ずして起こった二つの家族に対する不幸な出来事を、当時は誰も予測することは出来なかった。
その日の夕方・・・ニコニコしながら、大きなバケツに一杯入った牡蠣を持って帰った伯父の顔は今でも忘れられないし、打ち揃った家族の楽しい団欒が、何か将来を暗示するようだった。

翌日、私達は、長兄の健一が日頃お世話になっている、宇品の小母さん宅へ挨拶に行った。
父も母も丁重にお礼を述べていたが、この方は、兄の休日の下宿を提供して居られる方で、兄の弁を借りれば、一方ならぬお世話になっているとのことだった。
当時の軍人は(現在の自衛隊員もだが)それぞれ下宿というものを確保していて、休日になるとそこへ行って寛ぐといった具合で、遠く故郷を離れて勤務している兵隊にとって、そこは我が家であり、足を伸ばして横になれる、畳の部屋のある別天地だったのである。
また、そこで世話をして下さる小母さんは、それこそ親身になって接して下さるので、兵隊達は故郷の母を偲びつつも、本当の母のように懐いていたという。

戦後になって私が読んだ有名な海軍の撃墜王、坂井三郎氏の『大空のサムライ』に出てくる台湾のお母さん(日本人)は、本当の母以上に世話をされたと書いているし、若き頃の坂井とその友人は、本当に台湾のお母さんと、その夫である校長先生に懐いていたことを克明に綴っている。

食料の不足していた戦時下にあって宇品の伯母さんは、大変な苦労をなさったことと推察するが、それでも、国のために働いている兄弟の為に精一杯尽くして下さったことを、心から感謝するものである。父母は、鳥取から持参した米その他の物を差し出したことを今でもよく覚えている。

宇品といえば広島市南部の港湾地帯に属する所で、原爆投下時には爆心地からかなり離れているとはいえ、相当な被害があったと聞く。宇品の小母さんは、どうされたのだろう。
このことも今となっては、大変懐かしい思い出である。



私達は、せっかく広島に来たのだから、宮島に参詣しようではないかということになった。
日本三景の一つに数えられる安芸の宮島は、風光明媚な所であり、境内には無数の鹿がいると聞いているし、満潮時には海面より突き出ている朱色の大鳥居が、夕日に映えてと何とも言えぬ風情があると聞く。
己斐〜宮島まで、電車でどのくらいの時間がかかったかは覚えていない。
宮島口の駅を降りて船に乗り、宮島に言って見て私達は驚いた。話に聞いた鹿が1頭もいないのである。
これは一体どうしたことかと父母も驚いていたが、まあ、戦時下の食料難の時代でもあり、鹿の餌もままならない時代だったから、恐らく処分した(肉にして食ってしまった)のだろうと推察した次第である。

鹿のいない境内は真に殺伐としたもので、これが音に聞いた宮島かと思ったものであった。
境内入り口に安置されて?いる生きた白い馬『神馬』は、さすがに『神馬』と銘打ってあるだけに、ここの人達は殺して食べるということをしなかったのだろう。
神の馬でなかったならば、恐らく馬刺やテキで人間の腹の中に入っていたであろうことは、容易に想像できることである。
何しろ神の使いであるこの馬を、さすがに、この地の人達は手を下さなかったのだろうと、このように思ったものだった。昭和も20年の戦争たけなわのこの時期は、さすがに天下の宮島も、現今の観光宮島とは比較にならないほど、閑散としていたように覚えている。
メリケン粉も砂糖も殆ど無いこの時期に、境内の土産売場に食べる物(土産)は全く姿を消しており、僅かにセルロイドや木製品の土地の土産が並んでいたくらいのもので、当時は殆どの土産店が閉店していたように、私の記憶にある。


昼時になり、食い物屋(茶店というべきか)に入ってみたが、ここは全くひどい所で、食い物といえる物が全く無い。僅かに何か海草のような物がユラユラと浮いている汁物があるくらいのものである。
話には聞いていたが、全くひどい所である。
まあ、戦局が緊迫している時期でもあるし、のんびりと観光をしに来る客もいないこともわかるし、日本各地は米軍の空襲に怯えていた時期でもあったから、この名だたる観光地は参詣客もまばらで、閑散としていたのだろうと思う。
それでも私達は宮島の風景を満喫し、また、一家揃って神前にぬかずき、二人の兄と従兄の『武運長久』を心からお祈りし、お守りを頂いて帰ってきたが、とても現今の人達、現在の賑わっている宮島しか知らない人にとっては、戦時中の宮島の情景は想像に難しと言ったところだろう。


食い物の話のついでに、こんなことがあった。
伯父と草津の町を歩いていると、大勢の人が行列をしているのに出会った。伯父に聞くと何か旨い物を売っていると言う。
私は従弟の則夫と二人で行列の仲間入りをすることになった。
当時、日本各地の菓子屋から飲食店、食堂から、およそ食い物が姿を消していった時期でもあり、飢えていた人達は、何でも口に入るものなら買っておくにしかずという時代だった。それほど当時の日本人は食い物に貪欲だった。
我が鳥取では、甘い菓子類からメリケン粉の製品であるパンやうどん、そうめんの類いは全く無かったが、それでも闇米カら野菜、魚介類は何とか手に入れることが出来た。
都会に住む人達は大変だなと思ったものである。

ここ広島の己斐、それも草津は、それでも都心部に比して海に面している点からでも、魚類には比較的恵まれているのではないかと思ったが、それでも日本全国飢え人間のこの世界では似たり寄ったりのところだったのかも知れない。

さて、先の「旨い物」の話になるが、則夫と私が行列に参加して十分ぐらいは経過しただろうか。ようやく私達の番が回って来た。
どうも、その店は酒屋らしくて、酒屋が食い物を売るとは変な話だが、まあ店はどうあれ、食い物を売ってくれれば文句は無い訳で、私達は一人3個の割当ての何やら怪しい団子のような物を買って来た。現在で言えば、1個百円の「あんぱん」を少し小さくしたような物で、色は茶褐色をした、食い物にしては何か不気味な感じのする物であった。
買ってきた物を見るなり、伯父は戸棚から瓶詰のような物を出して来て、これを付けて食うとすこぶる旨いと言う。試しに何も付けずにそのままちぎって口に入れると何か甘いような感じがするが、また、苦味があるような甚だ不思議な味がする。

「この饅頭は『唐もろこし』で酒を作った搾りカスを、細かく砕いて固めた物でなぁ、このままでも食えるが、これを付けて食うと大変旨い。これか? これは醤油の素になるアミノ酸だ。まあ食ってみろ。勇治は、こんな物を食うのは初めてか?鳥取には売っとらんかい?」

伯父に言われるままに、そのアミノ酸なる物を付けて食ってみる。
アミノ酸その物に砂糖とは違った甘味があり、この饅頭何か独特の味がするのだが、食い物の無かったこの時代、贅沢を言ってはいられないので1個を何とか食ってしまった。
後口にかなりの苦味が残り、何とも不思議な味であり、それが私の顔に表れていたのか、それを見て伯父は大きな声で笑っていた。


この時期、メリケン粉や砂糖の類いは一切私達庶民の視界から消えており、甘味といえば『さつまいも』『かぼちゃ』の甘味しか口に入らなかった時代だったから、私は、幼かった頃のアメ玉や森永キャラメル、グリコ・キャラメル、そしてチョコレートの味を思い出しては、いつになったら懐かしい菓子に再会できるだろうと、しばしば思ったものだった。

ああ、亀井堂(鳥取のパンの老舗)の「あんぱん」が腹一杯食いたいなあと、現今の人達には、とても理解できないであろう本当の甘味というか、懐かしい菓子に郷愁を感じていたし、また、1日も早く現れて欲しいという、内なる魂の叫びといっては大袈裟かもしれないが、当時の私達のような少年にとっては切なる願いだったのである。

本当に、この広島における苦み走った(?)饅頭の件は、私の記憶に鮮烈に残っていることであるが、何と言っても時は戦争中でもあり、私達は日々の食い物に贅沢を言ってはならないと考えていた。
日本は、世界の強国アメリカ、イギリスや中国と戦っているのであり、(昭和20年のこの頃は、国民は知らされていなかったが、日本は戦争に負けており、ホールド・アップも間近・・・といったところだった)「欲しがりません勝つまでは」というスローガンの下に、国民は腹を空かせていても勝利を信じて(?)耐えていた、ということだろう。



さて、広島滞在も今日で終り、明日はいよいよ鳥取に帰るという晩、則夫が映画を見に行こうと言い出した。
ここ草津の○○家からそう遠くない所に、常設ではないが映画館があると言う。何でも一晩限りの上映らしいが、柔道映画『姿三四郎』の上映があると言う。
私は鳥取の映画館で既に見ているので、行くのを止めようと思ったのだが、彼があまりに熱心に行こうというので行くことにした。

映画館はどの辺りにあったかは忘れてしまったが、家からそう遠くない所くらいしか覚えていない。あまり大きな映画館ではないと思ったが、私達が到着した時には、ほぼ館内は満員であり、その内、子供が大多数であったように記憶している。
当初は比較的静かだった館内は、かなり長い時間にわたって上映時間を待つほどに、やがて騒然として来た。
やがて館内にアナウンスがあり、例の『姿三四郎』のフィルムがこの映画館に到着しないことが判明したそうで「申し訳ありませんが、本日の上映は中止させて頂きます。フィルム到着日は未定です」
ざっとこんなことだったと記憶にあるが、観衆は長い時間待たされた上でのことでもあり、また、この映画館の不手際な処置の仕方に大いに怒り、それで騒然とした訳だが、怒ってみたところでフィルム未着ということになれば、いつまでここに居ても仕方がないので帰って来た。

則夫は私に申し訳ないと謝っていたが、私は「何もお前のせいではないよ。フィルムが来んでは仕方がないよ」と慰めていたが、この日を境に則夫と言葉を交わすことが出来ないようになるとは、神ならぬ身の知るすべも無かったのである。

以上が私の「広島の思い出」とも言うべきストーリーであるが、この物語は53年前のことでもあり、書き綴ったことは、或いは断片的であるにせよ、私が懸命に思いだした13歳の時のドキュメンタリーである。
以下に付記として当時のことを記述する。

付 記

1945年(昭和20年)8月1日、長兄の健一は、九州北東の瀬戸内海・姫島において、敵艦載機グラマンの空襲により戦死。享年25歳。
生前は陸軍高射機関砲の射手として、南方方面戦域で活躍。幾多の激戦においても生き残り、我が家にも幾度か帰って来ていたが、最後には内地で戦死した。
後15日で終戦であった。階級伍長。

同年8月6日、南方方面テニヤン島から飛来したアメリカ空軍「超空の要塞」B−29ボーイング重爆撃機「エノラ・ゲイ」が搭載した世界初の投下型原子爆弾「リトル・ボーイ」(重量4トン)が広島市に投下された。
その爆弾は、広島市のほぼ中心部にある広島県産業奨励館(原爆ドーム)の真上、高度500メートルで炸裂し、先ず、直径300メートルの摂氏数万度といわれる火球で市の中心部を瞬時にして焼き払い、また爆発時における爆風と衝撃波で、広島市街地は人も家屋も樹木も、殆ど全てがなぎ倒されて、広島は・・・瞬時にして廃虚と化した。

爆心地近くに居た人畜は、爆発時の火球の猛烈な勢いで瞬時にして蒸発したり、また黒焦げの死体となって散乱した。
その時点で生き残った人達は全身に大きな火傷を負い、あまりの熱さのために先を争って市内各所にある川に殺到し、全ての河川は多数の死体が氾濫したという。
焼け野原を家族を求めて彷徨い歩く人の波は、さながら地獄絵図のようであったという。
その時点で死に至らなかった人達も、やがて広範囲な火傷と強烈な放射能障害で旬日を経ずして死んだという。

原爆が広島上空に炸裂してから、1分も経過しない内に広島の街は廃虚と化した。
僅か1発で14万人の死者を出したこの爆弾は、連合国の降伏勧告を日本政府が無視したために落とされたというが、この広島原爆の回答(降伏する意志)を出さなかったために、更に同月9日、長崎にプルトニューム型原爆が投下されることになる。


さて、その時刻(午前8時15分爆発時)私の伯父と従弟はどうしていたのだろう。
以下に続く。

伯父は八百屋を営んでいた関係で、その時刻は広島中央卸売市場に居た。
現在は広島駅裏側の通称三本松という所にある中央市場が、はたして当時はどの辺りにあったかは知らない。
倒壊した家屋の下から何とか逃れた伯父は、自宅の安否を気遣いながら、それこそ地獄のような風景を見ながら自宅へ向かったという。
当然、市内に居た息子(則夫)の安否も気遣ってそれを探したに違いない。

広島市には、西に向かって横川、己斐(現在の西広島)と二つの駅がある。
伯父一家が住んでいる草津町は、己斐駅から更に離れている。当然、爆心地からは相当離れていて、被害というものは軽微だったと聞いている。
後年、私が○○家を訪ねた時、それとなく付近を眺めてみたが、新築した家らしきものがあまり見当たらず、と言うことは、この付近には原爆の爆風によって家屋が倒壊した痕跡が無いのではないかと思ったものである。
爆心地から十数キロ離れているために、原爆の被害から逃れたというべきだろうが、それでも果たして放射能の被害から逃れ得たかというと、その辺りのことは私には分からない。



さて、伯父の話になるが、伯父は、倒壊と延焼でもはや街の形をしていない広島の街を、何とか自力で帰ったらしい。
広島の街はすでに廃虚と化し、とても商売も何もあったものではなかったし、息子を亡くし(後述する)悲嘆に暮れていた時期だったのだから、伯父夫婦はどのようにして暮らしていたのかは、私には知るすべもなかったのである。

異変は、被爆後何日経過してから伯父の身に起こったか。
その辺の事情は私には解らないが、伯父は被爆直後、倒壊した市場の家屋の下敷きになり、何とか大きな火傷だけは免れたらしいが、後に控えていたのが放射能の影響だった。

やがて日が経つにつれ髪は抜け落ち、口中からは毎日のように血が噴き出し、視力も日に日に衰え、短日時のうちに大きく衰弱していったという。
爆発時、強烈な放射能を浴びていたことにより、1か月も経過しないうちに息子の後を追って死亡した。8月25日のことであった。

さて、従弟の則夫のことを記述するが、その前に・・・昭和20年8月ともなると、戦争は急を追って負け戦となっており、学生達もこの新学期である4月から、もはや学校内に於いて勉強に励んでいる雰囲気ではなくなった。
「学徒動員令」というのがそれで、中学二年生以上の生徒は、それぞれ役所、郵便局、銀行、軍需工場へ出かけていって働くことになったのである。
日本が戦争に負けている時に安閑として勉強などしていられないという、内地ではそのような雰囲気だったのである。
その当時私も鳥取市に三か所あった航空機工場の一つであった鳥取航空に勤労動員学生として働いていたが、8月15日の終戦はその工場で知った。

8月6日の朝、則夫は広島第三中学校の勤労動員学生として広島県庁に出勤していた。
爆心地から遠くないところに位置する県庁は、爆発時の強烈な熱風と爆風で庁舎も全て倒壊したらしいが、則夫は倒壊した庁舎の瓦礫の中からようやく抜け出し、ただひたすらに我が家を目指して歩いたという。


彼は、手と足そして頭に大きな怪我をしていた。
特に腕が一本骨ごとちぎれてほとんど皮でつながっていたと言うが、全身の痛みに呻きながら自宅を目指していたのだろう。思うだに、この光景を想像すると涙を禁じえない私であるが、彼は、何を思いつつ家路を急いだのか。
途中、幾度か苦痛に耐えきれず路上に倒れて呆然としていたとあったが、朦朧とした頭の中には何があったのか。
恋しい父母に逢いたいばかりに廃人のようになった我が身にムチを打ちながら、家へ家へと目指して行ったと思われる。
もはや彼の肉体を動かしているものは、強い信念というか、内よりほとばしり出る魂だけだったのではないだろうか。

則夫が、ようやく我が家にたどりついたのは、夜中の1時頃だったという。
命の灯が消えかけている肉体を気力を持って長らえて、ようやく我が家に帰ってきたのは、被爆してから17時間の後だった。

家にいた両親は動転したであろうことは容易に想像がつく。
医者に診せようとて、あの混乱の最中である。手の施しようのないままに、それでも数時間は生きていて、未明に両親の見守る中、母の胸に抱かれて安らかに息を引き取ったという。
13歳の生涯は、あまりにも短いものだった。
日本が早く降伏していてくれれば、動員学生として県庁に勤めていなければ、というのは全て繰り言になることだが。

以上、広島における○○家の異変とも言うべき事実は、後年私が広島に行った時に伯母から聞いたことである。
伯母から一部始終を聞かされた時、私は悲しみのあまり声を上げて泣いた。
3月に映画を見に行こうと執拗に誘った則夫は、今にしてみれば、やがて、この世との決別をしなければならない我が身のことを暗示していたのかと思い、それを思い出す度にまた涙がこぼれた。



広島に特殊爆弾が落とされたという情報は、鳥取方面にもいち早く知られることになった。
父は、何はともあれ安否を気遣って何度も電話をかけてみたが、あの混乱の最中、通じるはずもなかった。それではということで、父は南通かの手紙を出したが、先方からは一切の返事もなく、音信は途絶えたままだった。
その内に鳥取方面でも噂が流れ出した。

アメリカが広島と長崎に落とした爆弾は『原子爆弾』と言って、その1発の威力は相当なもので、僅か1発で広島の街は全滅したということだった。
更に、広島の街は放射能というものに覆われて、今後、百年間は草木は生えないということだった。
そして、被爆直後に外部から広島に足を踏み入れた者は、日ならずして、バタバタと倒れて死んでいくということだった。
噂は噂として、事実、投下日からあまり日数の経過しない時期に広島に入った軍関係の者達や、終戦直後に広島入りした米軍関係者の多くは、放射能の被爆が原因で死んだ者や、長引く後遺症に悩まされることになるのである。

ようやく広島から連絡が来たのは、夏も去り、秋に入った10月であった。
その手紙には、『ピカドン』(ピカッと光ってドーンと鳴った原爆を広島の人達はそう呼んでいた)のために、その月の25日に伯父が死んだこと、そして前述のように則夫のことが書いてあった。
更に、広島は人体に危険が及ぶ放射能で汚染されており、広島入りした人は、そのために多数の人が死んでいるという。それ故に広島は、この憎むべき放射能が何年先に晴れて元のようになるかは今のところ判明しておらず、そのためには、ここ数年は決して広島には来てくれるなということが書いてあった。
百年経っても草木が生えないという噂は、我々のみではなく、広島の人達もそう信じていたかも知れない。


アメリカは日本に『原爆』を投下した理由として「戦争を早く終わらせるための、慈悲深い措置だった」と言った。
広島、長崎の人達の感情を逆なでするようなこの声明は、本当にそうだったのかという論争が今も続いている。

もし原爆が投下されなかったら日本は降伏しなかっただろうというこの説も、実は当時の状況からして本当だと言える。
アメリカは日本本土侵攻作戦を計画していただろうし、そうなれば、米軍人は20万人を越す死者を出すだろうと言われていた。
また、日本本土で決戦があった場合、日本人の死者は2000万人は下らないであろうと言われた。
これは、あくまでも仮定の話であるが、もし当時の軍部・政府が本土における徹底抗戦に固執していたら、そう思うと身震いする思いがする。

もし本土決戦になっていたら、恐らく、現在の岡嶋勇治は生きていなかっただろうし、当然のことながら、徹、くみこは存在しないことになる。日本が引き際を誤ったがために多くの非戦闘員(一般国民)を死なせたこの戦争は、本当に悲惨なものだったと言える。
頑迷な日本の軍、政府は2発の原子爆弾で、ようやく目を覚ましたといえる。

その意味では、広島、長崎の人達には真に酷な言い方かもしれないが、日本一億の国民を救うための尊い犠牲であったと思いたい。
現在のこの平和な日本が存在するのは、先の大戦、太平洋戦争で無くなった人達のお陰であると言いたい。
戦争を知らない若者も、今、自分がこうして平和で充実した生活を送れるのは、礎(いしずえ)となった人達の『思い』というものを決して忘れないで欲しい。

1998/8/23 Yuji Okajima

 

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