冬の鳥取砂丘シリーズ No.25

思い出すままに




親父の随筆から抜粋・・・です。

 今になって、少年期の時代が妙に懐かしく思い出される。この年(67歳)になっても、少年の頃に住んでいた家の夢をたまに見ることがある。先年、記憶の薄れないうちにと思い立ち、当時住んでいた家の間取りを書いてみたが、後に我が家に来た姉に見せたら「間違いない」と言っていたから、私の記憶もまんざらでもないと思ったものである。

 私達一家が住んでいた通称『瓦町新道』は、現在では多少位置が変わったが、若桜橋手前の通りを西に真っ直ぐ瓦町ロータリーに抜けるまでの通りであり、東に向かえば若桜街道を横切って川外大工町、日進小学校に行く道筋になる。
 私は、その瓦町新道(当時の正式町名は東品治町二区154番地、現在はこの町名はない)の自宅で生まれた。私はそこで昭和7年に生まれたのだが、当時の一般家庭では、赤ん坊を生むのに病院・産院の世話になるのは稀で、殆どの家庭では助産婦の世話で出産していた。我が町内には橋中さんと言われる助産婦さんが居られて、私も含めて姉兄弟はすべてこの方の世話になったと聞いている。「お前を産んだ時に橋中さんに1円50銭払った」と、後年母が私によく言っていたが、私は昭和7年頃の1円50銭がどのくらいの値打ちの金か解らなかったが、助産婦に支払う金ともなれば大変なお金だったんだなと、思ったことが記憶にある。お産の料金のついでに、昭和38年に生まれた徹の時が、日赤に払った1万5千円ぐらい、同じく43年に生まれた娘の時が4万5千円くらいだったと記憶にあるから、時代によって通貨というものの変遷は面白いものがある。平成の現代では30〜40万は要るだろうから、私が生まれた昭和初期と較べたら現在の通貨単位と恐ろしく隔絶したものに思える。

 私が生まれる前年の昭和6年には、日本は中国にチョッカイを出して、いわゆる満州事変という戦争を始めており、それ以来、長い15年戦争に突入して行くのだが、私が幼児期の頃から少年期にかけて、そんなに「戦争をやっている」という緊張した感じは無かったように覚えている。昭和13年に晴れて『日進尋常小学校』(じんじょう小学校)に入学した私は、今で言うピカピカの一年生だった。家にいる時や、近所のガキ共と遊ぶ時は、すその短いキモノを着て足はゲタ履きだったが、それでも日進小学校に行く時は、ピカピカの帽章の付いた帽子をかぶり、さっそうと制服を着こなして、足には靴下を履いて真新しいズック靴を履いて行った。肩には牛皮のランドセルを背負い、現今の一年生と変わらないものだった。

 私が子供の頃には、鳥取には一つや二つの幼稚園があるにはあったが、大抵、そういう所に通園するのは金持ちの『お坊ちゃま』や『お嬢さま』に限られており、一般の庶民の子供は幼稚園に行かず、そのまま一足飛びに小学校に行くのが普通だった。今の時代とは大きな違いである。
 学校の正門には蔵を小さくしたような建物があり、初めは「この中には何が入っているのだろう」とクラスの仲間と話し合ったものだったが、やがて、それが理解できたのは祝日の日だった。学校が祝日の式典をやる日(当日は午前中)は、二月の紀元節(現在の建国の日)、四月の天長節(現在のみどりの日)、十一月の明治節(現在の文化の日)とか、学校創立記念日、その他にも海軍、陸軍の記念日くらいのものだったと覚えている。
4月29日の天長節。
この日は祝日だが、学校では式典があるので生徒は全員登校ということになっていた。その時に知ったのだが、例の蔵のような建物、これは天皇陛下の御真影(写真)を入れてある『奉安殿』だった。

 式典日には、校長先生がうやうやしく奉安殿を開け、天皇の写真を頭上に掲げながら式典会場の講堂(現在の体育館)に入って来る。その時、生徒は「最敬礼」と言う先生の号令一下、深々とお辞儀をする仕組みになっていた。こういう時には、天皇の写真を見つめることは最も不敬なこととされていた時代だから、特に国民の祝日の式典などは厳しかったように覚えている。
校長は、天皇の写真を所定の所に安置して、それから式次第に従って式を始める。その式の中に「教育勅語朗読」と言うのがあった。これは明治天皇の発布された、いわゆる国民を教育・啓発される天皇自身の『お言葉』と言うやつで、昔言葉で語られていたもので、『勅語』とは天皇の言葉という意味だと教えられたものである。

「朕オモウニ我ガ皇祖皇宗国ヲハジムル事広遠ニ・・・」で始まるこの勅語は、子は親に孝行を尽くせとか、夫婦は互いに尊敬し合い睦まじくせよとか、兄弟仲良くせよとか、また、国が危急の場合(戦争になったら)国民は命を捨てても国のために尽くせとか、ありとあらゆる道徳に関する国民の心得が書いてあった。それが全て昔の宮中大和言葉で書いてあるので、初めは何を言っているのかさっぱり解らなかった。冒頭に書いた「朕オモウニ・・・」は、現代語に訳せば「私が思うに我が祖先は、この広い国を創立させたことについて・・・」。そのようなことから始まっていくこの『教育勅語』は、国民として守らなければならない最低限の道徳を教えてあるものだと、このように教えられてきた。この『教育勅語』は約二百字程からなるものだが、これを暗記させられたのには往生した。字も満足に書けない、手紙もろくに書けない小学生が、難しい昔言葉の勅語を暗記せねばならないと言うことで、私のような小学生は四苦八苦、文字通り四苦八苦したことを今になって懐かしくもあり、ほろ苦い思い出となっている。

 暗記といえば思い出すのに、歴代の天皇の名を暗記するのが学校内で流行った。
当時の今上天皇(きんじょう天皇、時の天皇をそう呼んだ。亡くなってから昭和天皇と呼ぶ)は、初代の神武天皇(じんむ天皇)から数えて124代目にあたり、初代から124代までの天皇の名を暗記する、これが流行った。これは別に学校が強制する訳でもなかったが、いつとはなしに、こんな事が児童の間に流行った。初代の神武天皇から来て、私達は「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく、こうしょう、こうあん、こうれい、こうげん、かいか、すじん、すいじん、おうにん・・・」という具合で124代の天皇の名を言うのだが、熱心な奴は年表を持ち出して確かめる始末で、放課後とか休憩時間は結構これで賑わっていた。かく言う私も、当時は結構努力して覚えていたつもりだが、今になっては上のような所ぐらいしか覚えていない。

私が小学生時代は、今のように受験戦争は無かったように思っているが、それでも中学(旧制中学、今で言う高校)に入るのは難しい試験があると聞いたことがある。そうは言っても、当時は中学に行く連中は金持ちの倅だと相場が決まっており、私のような中産階級にも属さない家の子弟はまず関係ないと思っていた。これは女子の場合でも同じことで、当時、鳥取にあった県立女学校、市立女学校、家政女学校でも、貧乏人はおよそ縁のないものと思われていた。貧乏人の子は高等小学校に入った。これは無試験であり、適齢期に達した者は誰でも入ることが出来たが、例外として、高小に行かずに直ちに子弟奉公に行く者もあった。今から思えば、当時は日本人の生活水準も低く平均所得も少ないことから、月謝の高い上の学校に行かせてやれなかったと言う事情と、当時は、今と違って学歴をそんなに喧しく言う時代でなかったようで、昔に較べたら今の子供は幸せかも知れないが、その分『子供の心の荒廃』という面から見れば、どっちが良かったとも言えない。

私が小学生だった頃の物の値段と言えば、これは今とはおよそ通貨の桁(けた)が違うのだが、小学校1年生の頃に、千五百円あれば二階建ての家が一軒買えると言われていた。
これはまあ、中古の家だと思うが、なんぼ何でもこの金額では新築の家は建たないと思うのだが、とにかく父がそう言っていたのだから当時の¥1,500は、とてつもない大金であったことは確かであろう。私が幼児期に母から「これで飴でも買いなさい」と言って、貰っていた金が一銭(1円の百分の一)だったから、当時、1円という金は、とても小倅にやるような金でなかったことがよく解る。ついでの事に、当時は、1銭で大きな一里玉(一個を口に入れたら一里歩っても溶けないという理由からそう呼ばれた)3個ぐらいは買えた。小さな紙袋に入れて貰った一里玉を大切に懐にしまって、長い時間かけてなめていた幼少の頃を、今にして誠に懐かしく思う次第だ。



私が楽しみにしていたものに、毎年5月に開催される『聖さん(ひじりさん)』の祭りがあった。毎年が大祭ではないが、隔年で例祭、大祭が開催されており、たとえ例祭であっても賑やかであり、大祭ともなるとそれはいっそう賑やかになり、この祭りを見るために近郊から多くの人出があった。それは賑やかなものだった。本祭の前夜祭、それのことを夜宮と言い、この夜宮(よみや)が相当の人出があり、私はそれを大変楽しみにしていた。
私の最大の楽しみ。私は夜宮の日には母から10銭という大金?を貰う仕組みになっていた。
普段は小遣いとして1銭か2銭しかくれない母が、この日に限っては10銭という大金をくれるので、私はこの日を指折り数えて待っていたものだった。穴の開いたニッケル貨、10銭を手にしっかり握って町内の友達と『聖さん』目がけて走って行ったものだった。
当時の10銭はかなり値打ちがあった。飴玉2〜3個が1銭の時代だから、それはもう10銭は使いでがあった。みかん水が1本2銭ぐらいだったと覚えているが、その他にラムネが1本4〜5銭くらいだったか。板飴も1〜2銭くらいだったと覚えているから、10銭という金は、当時の子供にとっては絶大な値打ちのあった金ということになる。

私が子供の頃には、千代橋に行くには瓦町ロータリーから真っ直ぐ一本の道しかなかった。(現在は二本ある)その道筋の千代橋手前右側に『聖』さんがあったが、夜宮ともなると、沿道にはびっしりと露天商が店を連ねていた。私は、母から貰った金と相談しながら、何を買おうかなと店を覗いて回ったが、この店を覗くというのも結構な楽しみの一つだった。
夜店の灯・・・その灯についても現今と昔では違っていた。今の夜店の灯は業者があらかじめダイナモ・バッテリーを搬入しており、こと灯には困らない。当時はどうしていたかというと、カーバイトを燃やしていた。もちろん、そのカーバイトを燃やす器具があり、その器具にカーバイトを入れて燃焼させることによって灯になるという仕組みだった。カーバイトが燃えるジーという音とともに独特の臭いがあり、今になってこの光景を思い出してみると、幼かったあの頃が懐かしくもあり、何か感傷的になるのは年のせいだろうか。

 当時は、10銭の上に50銭という銀貨があった。この50銭、当時は絶大な威力を持っていた。今、思い出すまま羅列してみると、当時、私が小学校の3年生くらいの時には、銭湯が小人5銭、映画が小人10銭、素うどんが7銭、コーヒーが20〜25銭くらいだったと思っているが、銭湯から映画、うどん食ってコーヒー飲んで釣りが出ていたのだから、それはもう50銭というのは大金だった。私が幼少の頃に発売されていた雑誌に、幼年クラブ、少年クラブというものがあり、これがいずれも50銭だったが、その他にも講談社の絵本という大判の紙のしっかりとした絵本があったが、これも50銭であり、父がたまに買ってきてくれていたが、この絵本によって幼児期の私は啓発をうけた。

 また、当時の物価を知るうえで、こういう事があった。
昭和16年(日米戦前)、学校の全生徒を対象に算盤の検定大会があった。当時私は4年生であり、私もその大会に参加した訳だが、幸いにもクラスで2等賞を取ることができた。私は人に対して自慢できるようなことではないので、そのことを父母にも黙っていたし、貰った賞状は自宅の机の引出しにしまっておいた。ところが近所の奥さん連中が「勇ちゃんが2等賞をとったげな」と母に言ったことから、「何故こんな大事なことを親に黙っているのか」と父にこっぴどく叱られた。どうも近所のガキ仲間が学校から帰ってから親に告げたらしく、それが、我が母の耳にも入ったらしかった。その時は親父にたいそう叱られたが、「そんな事はいちいち言わいでもええじゃあないか」と私は反発したが、「バカ言え。こんな目出度いことを黙っているやつがあるか」と、また叱られた。「どうも今日はええ日じゃあないな、学校では良かったが。親父に叱られるしロクな日じゃないな」と自分でぼやいていた。

 鳥取の駅前に大丸の前身である丸由(まるゆう)百貨店というものがあった。ある日、母が「勇治が2等賞を取ったお祝いをしてやる」と言って丸由に連れていってくれた。
そこで四つ玉のピカピカ算盤を買ってくれたが、金1円30銭だった。その上に、4階の食堂に連れていってくれ、洋食のフルコースを食わせて貰った。その時の一人前の料金が金2円也だった。当時は戦争中のことでもあり、敵に勝つ(テキにカツ)というゴロ合わせが子供達の間で流行っており、私も勝つ(カツ)を注文したことを覚えている。
カツ、ライス、サラダ、フルーツ、コーヒー、アイスクリームとまさに洋食のフルコースであり、私は、滅多に食えないものをありがたく思いながら食ったことを、今になってまざまざと思い出す。そんな様な訳で、当時の1円という金は本当に値打ちがあり、偉大なものだった。
その1円30銭也の算盤は、後年、鳥取大震災の時に学校に置いてあり、それを学校に取りに行き、傾斜した校舎から持ち出して先生に叱られたが、私にとっては記念すべきものであり、自宅に置いてなくて良かったとしみじみ思ったものだった。(自宅は大地震の時の火災で焼失)
算盤が1円30銭、洋食のフルコースが2円とは、まさに隔世の感ありといったところか。

 私が小学校から高等小学校に上がるまで、今のように教科書は無料ではなかった。
本から帳面、鉛筆に至るまで、全て親の負担になるものだった。当時は今のように物が豊富な時代ではなかったから、文房具は特に大切にしていた。小学校に上がる時、教科書から参考書に至るまでの代金が2円くらいだったと覚えているが、その他に学校に支払う月毎の学級費が15銭〜20銭くらいだったと記憶にある。その当時の一般のサラリーマンが月給にして、15円から30円、まあ、役人なんかで位の高い人は月に何百円と取っていたと、これは母に聞いた話である。米1升が30銭の時代の話である。



日本がアメリカ相手に戦争を始めた『太平洋戦争』。これは昭和16年12月8日であるが、この時、私は小学校の4年生だった。真珠湾空襲の成功をラジオで大々的に報道していたが、私達は、事実上「血わき肉おどる」の思いでその報道を聞いていた。学校に行けば、朝礼の時間に校長先生が興奮した面持ちで『真珠湾空襲』の成功を話していた。
また、シンガポール・クアンタン沖で、英国の浮沈艦と言われたプリンス・オブ・ウェールズ、及びレパルスを飛行機だけの空襲で撃沈したとの報に、私達は万歳をして喜んだものだった。これが、日本を破滅に追い込む戦争になろうとは、私のような10歳そこそこの少年には、もちろん判るはずもなかった。

 日本が物不足になるのは、アメリカとの戦争が始まって以後のことである。中国との戦争(満州事変、支那事変、いわゆる日中戦争)の時は、まだまだ物は豊富にあったような気がする。
米屋さんには米、麦、大豆、その他の穀物はたくさんあったし、欲しければいくらでも買いに行けた。駄菓子屋さんには何でもあったし、もちろん喫茶店にはケーキやコーヒーはふんだんにあった。レストランで洋食も食えたし、うどん、そばを売る店も鳥取の街中あちこちにあった。キャラメルもチョコレートもあったし、亀井堂のあんパンも種類多くあった。私達が普段履くズックの紐も、ゴム靴も値段は高くても靴屋の店頭に並べてあった。

それが、アメリカ相手に戦争を始めてから、物が極端に無くなってきた。先生の言われる所によれば、「ABC包囲陣と言って、米英蘭支が日本に物資、原料が入らないようにしている、いわゆる経済封鎖をしているからだ」そのような理由であるらしい。私のような小倅には、その意味がはっきり理解できなかったが、それでも野球をやるゴムボールにもこと欠くようになり、ゴム靴も無くなり、やがて革製品も私達の眼前から姿を消していった。私達のような少年が最も渇望して止まなかった甘いものがすっかり菓子屋の店頭から姿を消したのは、それから間もない頃だった。

 昭和18年9月10日。
忘れもしないあの日は、鳥取地方を襲った震度6の大地震があった日だった。
我が家族には奇跡的に命を失うものはなかったが、町内では多くの人が死んだ。戦時中の事でもあり、物資不足の折から被災民の難儀はそれこそ筆舌に尽しがたいものがあった。それでも、鳥取の地震をラジオや新聞で聞き知った近県の人達は、物資不足の折りにもかかわらず、鳥取の復興のために多くの援助をして下さった。この事は、私には生涯忘れ得ないことだった。日本では無謀で不幸な戦争に突入する事によって、多くの日本人が死んだ。そして戦争は日本の敗戦によって終結した。
長い間、忘れていた甘い物が私の口に入ったのは、終戦後になって進駐してきたアメリカ兵から貰った、米国製のハーシーのチョコレートだった。

1999/4/19 Yuji Okajima

 

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