冬の鳥取砂丘シリーズ No.23

「君が代の斉唱」についての私論


最近、銀行への公的資金投入の是非とか、日本初の臓器移植の開始における是非や、はたまた学校の卒業式においての君が代斉唱や日の丸の是非が問われていたりと、新聞を見ていても話題の尽きることが無いようである。注)1999年当時のことです。
先の二つの問題はさて置いて(というよりも、やらずにおれないだろう)、君が代の問題について考えてみたい。
君が代と日の丸については、昔の航空自衛隊にいた時期に職業柄、朝と夕べに正対して敬礼していた覚えがあるので、非を唱えている人を見ると何だか異常な気がする。
私は国粋主義者ではないのだが、あの話題だけは腹が立つ思いだ。
広島県の高等学校の校長先生が自殺された事件を考えると、本当に痛ましくやり切れない思いがする。

この前、そんな話題をうちの会社の後輩にしていたら、その中にも、卒業式の時に半数の教師が椅子に足を組んで座ったまま、君が代を歌わなかったとかいった経験をしたものがいたのには驚いた。身近な者に経験者がいたとなると、この問題もぐっと親近感が増すというものである。
君が代を歌う時になると、中には、歌っている者をニヤニヤ薄ら笑いをしながら見ている者もいたりとか。それもれっきとした教師がである。
こうなると、歌っている者がいい面の皮といった風に見えてくるのは当たり前だ。
日の丸と君が代にまつわる問題が、新聞で眺める内容からつい最近になって現われてきた問題かと思いきや、彼(私の後輩)は二十歳そこそこの者で、小学校の頃からそういったのを見た事があるというから、去年や一昨年の話ではなく、随分と昔からの事であるらしい。



最近、生徒からみた教師への反発が問題視されたり、少年非行の問題が顕著になってきているが、まず教師の方からその矛盾を無くしていくべきだと思う。
この話で一番腹が立ったのは、教師間でのコンセンサスのあり方で、例えば一般社会、いや、もっと狭めて会社組織内の何がしか会議や社内行事であったり、役員総会や外部の人間も招いた株主総会であった場合、こんな事が許されるのだろうか? 問題を提起して議論する事は、何においてもどんな世界においても必要だとは思うが、それを結論の出ないまま無造作に無秩序な形で晒すものではない。
彼らは昔「悪法なれど法は法だ」と言って獄中で服毒した、ソクラテスのような人を知らないのだろうか?
当時の悪法による誤った罪で投獄されていた彼は、脱獄の手配まで済ませて獄中まで迎えに来た弟子を、逆にそう諭して自ら命を絶ったのである。

広島で自殺された校長先生は、酷い言い方をすれば、学校(職員会議)という中でのコンセンサスを得られなかった、いわばリーダーシップが取れなかった意味において失格であったものかも知れない。企業においてはこの不景気な中、いっぺんで株主総会やら役員会議にて馘首を宣告されるところだろう。
私は、古い考え方かも知れないが、組織の秩序というものは全て実力関係を基礎にその上でのみ成り立っていけるものだと信じている。つまり、実力のあるものが上に就く世界である。
そしてそれを示すものが、得てしてそれまでの実績や業績であったり、社会的な信望や人格であったりするものだが、そういったものが表に露顕しない社会なり組織というものは、まあ、うまくいかないものだと思っている。
私がこれを確信するに至ったのは、やはり自衛隊にいた時に学んだものが大で、というか(そう言うと大袈裟で書いていて気恥ずかしいが。ああ恥ずかしい)あの時はそれ程に考えることもなかったが、今になって色々と頷く事が多いというのも事実だ。
私もある程度、世間というものが解ってきたのだろうか。



自衛隊は言うまでもなく軍隊で、およそ現在の日本国内において一番に組織力が求められるところであると思う。場合によっては、自分の生命をも上司(上官)に託さなければならない場面だって出てこよう。そんな組織はそれ程多くは無いと思う。
私が自衛隊に3年間だけいた当時、一番下っ端だったこともあってか、儀仗隊の担当を命令として受けたことが数回あった。
甲武装をして制帽や肩にはモールやら肩章がつき、基地内の隊員全てが整列して見守る中、華々しく司令を迎えたり、防衛庁長官や幕僚長や他の基地司令を迎えるのである。
号令とともに捧げ筒をするのだが、白い手袋をはめての全ての動きは少しでも他の者と合わないと目立つので、炎天下の中で何度も訓練された苦しい経験を持つ。色々な行事の中には、誰それが勲章を受けた(勲章というより表彰や昇進等人事異動)といったもので、何もそこまで・・・と思えなくもないものとか、葬儀のものまであった。
また、儀仗隊に参加したものもあれば、居並んだ隊列の中で敬礼をするだけのものもあった。
そして、居並ぶ側の隊員達も制服にアイロンがけしたりして、正装して並ぶのが当然の義務とされる。
また、今までに受勲のある者はその勲章を身に付けて出席する。整列一つとっても各部署の上長(上官)の指揮系統のうえに秩序立てられて行われるのは言うまでもない。

話が長くなったが、ではいったいに、なぜ自衛隊ではこういった事を組織だって、恭しく秩序立って、形式張ってやるのだろう。一般の企業社会ではここまでやらないし、色々な点を鑑みて大袈裟すぎないだろうか。
時間や物の浪費ではないのだろうか?
係長とか部課長とかと同じように、小さな辞令を本人に渡したり、表彰も本人を呼んで言葉を添えて渡してしまえば済むことではないのか?
彼の人が課長や部長であることぐらい、日頃の業務から認識している筈だ。これが一般の企業組織である。
なぜに自衛隊においては、組織における身分を分かる形で誇示したり、敬礼とか教練とかいって、堅苦しく行動一つ一つに節目をつけさせる必要があるのだろうか?
これは自衛隊に限らず世界各国の軍隊組織、また、今の自衛隊でなくとも昔の日清日露戦争の頃の日本陸海軍や太平洋戦争の頃だって全てそうだったろう。
おそらく推測だが、古代ギリシャ時代のアレクサンダー大王の軍隊組織であってもそうだったろう。

軍隊においては、秩序というものは改めて言うまでもなく絶対不可欠なもので、それ(遠回しに言えば実力や地位)を大仰にも露顕することによって無意識にも秩序を維持しているのである。
そして、自衛隊の場合、他の組織にも増して、率先垂範という心構えが必要になる。
いわゆる口先だけの威厳では案外に通用しない世界でもあるのだ。(が、それを語りだすと長くなるので今回は止めておこう)
軍隊というものは、制服に身分を示す襟章や肩章といった形で飾り、場合によっては勲章を飾ったり、また礼儀の全てを強制的にも敬礼の慣習という形で統一しているのはそういった部分からきている。
平穏な一般社会において、また平等主義を唱える人達からみたら、これは野暮であったり、許せない行為であったり映るのも確かだろう。
私自身も、外国の軍隊でやたら勲章を胸にぶら下げていたり、必要以上な大仰な動作をもって敬礼したり、大仰な隊列を作って国威発揚の行進をしていたりするのを見ると、とても野暮に感じる質である。

が、しかし、有事の際にあまたの組織員の中で組織が秩序立って機動するのは、実力や地位がそれこそ瞬時にでも目に見える形でなければいけないのである。
そこには精神的な齟齬や私情を極力排除し、秩序の維持のために最大限傾注させる。そして秩序の維持そのものから究極的な国防の目的の為に理想的にも鋭意邁進させる組織というものが、軍隊である。
そこには非合理的なもの、曖昧なものは一切除こうという非情なまでの手段が根本としてある。
個々の人間性も言ってみれば二の次なのである。
実際そういったものでないと、軍隊というものの特殊な任務からいって機能しないのだろうと思う。
指揮系統の序列に関しては非常に厳しい。
言うまでもなく、場合によっては国の存亡にも拘る重い責務を追っているからである。

軍隊のあらゆる意味で人間性を無視した仕組み。強制を当たり前とする世界。
一部のヒューマニストから見れば、これが許せないものに映るのは理解出来なくもない。
一般社会や企業内活動において、紛らわしくも多く必要とされる科白や感情は(平たく言えば円滑なコミュニケーションを図るためのマナー)ここでは敬礼一つにスピーディに集約されるのである。
これは有事の際には実に効率がいい。
そして、言うまでもなくこれらは、命令系統の中枢からその実施に至る末端の組織まで実践されていくのである。
これらは、確か自衛隊法や法規関連の講習で習った覚えがあるが、が、なにぶん古い事なのであまり定かではない。
文章もボロが出そうなので(すでに出ているので)、この辺で止めておくことにする。
また、それより何より学校教育の場の話をしていたのに、軍隊の規律だのの話は、さすがにそぐわない気がする。



で、現在の教育の現場で、こういった(軍隊を取り上げたのはあまりにも大袈裟だが)組織における秩序というものが有るのかどうか。
私自身は詳しい確証をもって言っている訳ではないが、かなり怪しいものだと思っている。
大学の教育学部を出て教員資格を取って、そのまま何がしかの学校に配属されて、転属されて、確かに教員間では先任後任の別はあっても、企業で言うところの部長、次長、課長、係長の別ではなかろう。
学校の教員の方達を悪く言うようで何だが、各人が教える担当科目が違うこともあってか、案外に組織上の上下関係なんてものは、少なかったり短かったり偏ったものではないか。
でなければ、学校という組織の中での最高の長である校長の意見を足蹴にする筈がないではないか。

私は、先に軍隊の秩序の維持といった例を大袈裟にも持ち出してはみたが、何も無意識に無思想に上司や先輩にへつらう事を言っているのではない。また、組織においての上下関係だけが全てだとも考えてはいない。
どちらかというと、逆の考えも考えた上で述べているつもりである。
逆の考えとは、お仕着せに対して自由に反発する柔軟な精神や姿勢といった意味でである。

最近の学校関係の記事でよく見聞きするのが、無意味なまでの(何もそこまでするかといった)平等主義に関する笑える話だが、何も運動会で徒競走してテープを走ってくる一人一人に対して張り、揚げ句に全員を一着にしてみたり、生徒会長や学級委員長を生徒全部に対して不平等だという理由で無くしてみたり、書道や図工の優秀な作品に与える賞である筈の金賞や銀賞を銅賞を、賞を貰えない子供に対して不平等だといった理由で止めてみたり、通信簿を点数方式にすると成績の悪い子供に対して差別だという理由でこれを止めたりと、何もそんな低次元な事に腹を立てたりしない。
腹を立てる値打ちも無いほどに低次元なものだからである。
また、本当にそんなことがあるのかとも疑問に思ってしまう。私は子供の頃から学級委員になったこともなく、走ってはビリかその次、色々ある表彰や賞といったものにはおよそ無縁で、確かに賞を取ったり、いつもクラスの学級委員をやっている友達を見て羨ましくもなったことがある。(私の人生においては、いつもそうだ)
が、それでも、こういったことを全て無くしてしまおう等とは思おうにも思えない。
でも、それが教職員の間の決議で可決され、それがまかり通ったのなら、それはやってしかるべきだろう。
そして、後はPTAや一般の常識人からの突き上げを待つのみである。

先の話の君が代斉唱(これがメインテーマ)もそうだ。
教職員の会議で歌うなら歌う、歌わないのなら歌わないと決まったのなら、それに従うべきだ。
何度も言うようだが、私が一番に腹が立つより情けないと思うのは、ここのところである。
(先にも言ったコンセンサスのあり方といった点である)
私が件の学校の生徒なら、先に述べた歌わない先生達を見て、初めはとてもショックに思い、おかしいと思うと同時に情けなくなるだろう。
歌わなかった教師からみたら、それこそ自分の意志や大義を貫き通したことでもあろうし、ある意味で正義の達成感といったものを持ったのかも知れない。しかし、それが公明正大に見て許される行為と思っていたのかも知れないが、傍目から見たら怠惰以外の何物でもないのは確かだ。
殊に卒業式に出席していた主人公である卒業生の目からみたら、そう見えなかったろうか?
そういった配慮はされなかったのだろうか?
私はここが一番の問題であったと思う。

別に、卒業式によれよれのジャージ姿で現れる教師がいたって、それがひどく不快ではあっても許されると思う。
その場合はその教師が咎めを受けたり、その教師が非難を一身に浴びれば、それで事が済むだろう。
その教師の弁を借りるならば、正装して望むよりも生徒の側に立ち、いつも威をはらず同格の立場から生徒に接していたので、今回もその信念を貫き通したという。
なるほど、そういう考えか。そういう考えならば、少しだけ理解できないでもない。
但しこの教師、晴れの卒業式の舞台に綺麗な姿勢で華々しく生徒達を送りだしてやろうといった気持ちは持たれなかったのだろうか? 卒業式とは学童にとって人生の一区切りを為すもので、いかに学校の行事であるとはいえそれでも神聖な一日である筈だし、この先長く想い出に残る美しいワンシーンでもあるものだ。
この教師、普段は授業に部活動での指導に明け暮れ、生徒に対しては体当たり的に真面目に教えもし、親身になって生徒一人ひとりの面倒も見てあげていたものと思う。報道を読む限りはそうである。
思うに、生徒からの人気も厚かった熱血先生だったのではないか。それだけにとても残念な思いがする。
普段は汗みずくのよれよれのジャージを着込んでいても、晴れの卒業式だけは他に居並ぶ教師達より俄然正装して来て暖かく生徒達を見送るべきであった。それが真の教職者たるべき者のする事であり、それが教え子に贈る真摯な姿勢というものであり、そういった事は送り出される生徒達からみても信望は益々高くなるものだ。
私は、そういったごく自然な調和の取れた考えを持ち合わせていなかったこの教師に対して不満を募らすよりも、送り出されていった生徒達が不憫でならない。
特に、この教師を慕っていたであろう生徒達が、誠にもって不憫でならない。
教師(恩師)のあるべき美しい姿、ある一つの教えを学ぶ尊いチャンスを得られなかった生徒達が不憫でならないのである。
まあ、この話はもういい。
この話は、教師が一身に非難を浴びる事で、いいか悪いかは別としてそれで済む話である。
これはこれで置いておくとして。

が、君が代斉唱の件は違う。
学校そのもの、学校といった組織そのものの信用が心の底から問われるのである。
しかも、いいも悪いも酸いも辛いも世間の道理を知り尽くした大人の目がそれを見るのではなく、好奇心旺盛であったりデリケートであったりする、それこそうぶな子供の「少年少女の目」がこれを見るのである。
子供達は、将来あらゆる組織の一員となって世の中の色々な場面で活躍していく訳で、前途洋々な未来がこの先広がっているというのに、その端緒である筈の学校教育の時代からこういった形で組織というものに対する不信を見せつけられて、いったいどう思うだろう。
そしてこの君が代を歌うこと自体が、いわゆる子供たちに対しても「踏み絵」の意味も持っているのである。
子供達にとっては、歌うか歌わないかは取るに足らないどうでもいい事だろうけど、子供達の内輪では、この事がいくらかの関心事となる筈である。場合によっては歌った生徒を白い目で見たり、歌わなかった子供がいじめにあったり、歌う歌わなかったなんて事が仲間内でも差別の対象になったりするのではなかろうか?
君が代を歌うか歌わないかといった、他愛もない事がである。
子供達の世界で、こんな残酷なことが許されいいいものだろうか?

いったいに、子供や青少年にそういった矛盾を見せつけるものではない。
学校とは良識の拠り所である筈ではないのか。
これが反面教師的な事であると言ったり、生徒一人ひとりに対して社会勉強の意味での問題提起となったとか言って済ませるべきものでもない。
また、大人の信念やら思想を子供達に無思慮にも押しつけるものではない。
子供(少年少女)の心とはナイーブでありデリケートなものなのである。
これでは教師が信用されなくなって来て当たり前だと、声を大にして言いたい。
こういった事を考えたりするにつけ、最近の少年の非行問題や学校における暴力沙汰の遠因は、組織に対する不信感といったものから来ているのではないかと思う。
組織というと少し大袈裟だが、学校であったり大人も含めた地域社会であったり、身近な家庭であったりするものだ。また、マスコミ他の影響(最近特に品がなくなってきたように思われる)も大きいように思える。

子供の精神的な成長の過程において一番の悪影響を及ぼすものは何かというと、家庭内における夫婦間の不和を子供に見せつける事が一番であるらしいが、この卒業式での行為はそれに次ぐものだと思っている。
夫婦間で普段は仲違いするような事があっても、子供の前ではつつましやかに愛し合っているふりをするものだ。形だけでもそうする事によって、逆に子供から学ぶ事だって多い筈だろう。
子供は自分たちの鏡でもあるし、それで反省する事によって自分たち夫婦の縁りも元に戻るかも知れない。
しかし私は子供の情操教育的な見地を一番においてそう思っている。
子供の目というものは、大人が考える以上にものを見ているし、考えたりもしているのだ。
本当、「卒業式における君が代斉唱をめぐる事件」この事については怒りを覚えずにいられない。
私が教師の側に立場する者であったとするならば、子供達に心より懺悔をせずにはいられない。
それこそ土下座してでも謝るのが本当だと思うぐらいである。
本当、やり切れないぐらいに消沈する出来事であると思っている。
彼らはそんな事を、露にも思ったりしないのだろうか?
だとしたら、腐敗しきっているとしか言い様がない。もちろん、そんな不心得な教師は一部であって、真面目な教職員の方々もいらっしゃる事は充分に承知している。全てではない事は充分承知している。
問題に関連した教職員達には、もし、出来うるならば、この事について猛省して貰いたい。



校長先生が無念の自殺を遂げられたのも、傍目から見れば、犬死にとしか映らない場合だって大いにありうる。おそらくそうだろう、今の教職員の組織のあり方や反省の色を見せないあの態度を見れば‥‥‥。

八王子のある女性教諭などは、君が代を歌った教員達を見て、それをオウムの信徒呼ばわりしたというではないか。
歌われた教師の方々も、君が代の斉唱に加わっただけでオウムの信徒と一緒にされたらたまったものではない。オウム心理教は、今ではおぞましい反社会的組織の代名詞でもあるからだ。
彼らは洗脳されていると‥‥。無意識にも君が代を歌っているのだとも。
それも教室の生徒全員に向かってであり、同様な内容をプリントを配ってまで二時間にも渡って講義したとも言う。君が代斉唱反対!の一大キャンペーンでもはったつもりなのだろう。
話を聴かされた生徒達もいい迷惑である。これは新聞やテレビのマスコミでも取り上げられた。
いったい、学府の徒がこうであっていいものだろうか? 
学校は良識の拠り所となる所ではなかったのか。
これは本当、首をかしげると同時に本当に腹立たしくなる話だ。
卒業式で君が代を歌われた教師連中の方々も、学識の上で、また人格の上でも、この問題となった女教師よりも遥かに遥かに優れた方々であったろう。
これは常識云々というよりも、件の女教師に人格上に欠点が有ったのではとしか考えられない。
この事については意見する気も失せてしまう。
何度も繰り返すようだが、こういった大人の無思慮な茶番な行為が、いかなる形であれ子供や少年少女の前で提示されたり繰り広げられたりする事が、一番の諸悪の根源であると思うがどうだろう?
教師の立場として、そういった思慮は働かなかったのだろうか?
問題があるのは表面上は教師かも知れないが、そういった教師はおそらくそれまでの人生から得た結論から言動しているのであろうし、矯正するにも今に至っては遅すぎたり、はたまたその事自体には既に価値さえ無いのかも知れない。
これからもし可能な事ならば、そんなおかしな教師達の手に委ねられるまでに、うぶな純真なままの生徒達を救ってやりたいものだと思う。



話を元に戻すが、
亡くなられた広島の校長先生へも「可哀想にね‥」といった言葉がそこかしこから生徒達からの声で聞こえてきそうで、それが(それで)まかり通ってしまいそうで恐い気がする。
本来なら校長先生といった目上の方に対して、こういった事で同情を寄せること自体がおかしな事(とても不遜な事)なのであるが、それが結果としてまかり通ってしまうのである。
というか、この問題に対して、校長先生に対しての意見や思いといったものは、気の毒であるとかいった同情の語彙でしか(悲しいかな)そういった気持ちでしか言えないではないか?
問題に携わった教職者として、校長先生ともある威厳のある指導的立場にある地位や人格を、こんなつまらない事で地に落としてしまった事、大きな罪ではなかろうか?
そして、言うまでもなく校長先生は、間接的にも命を落とされたのである。
「天は人の上に人を創らず」と言ったのはかの福沢諭吉だが、その彼もそれと同じぐらいに組織においての地位や秩序やそれを尊ぶ精神といったものに対して説いておられる。
学府の長である校長先生の自殺。そこまでに追いやったこの罪。
私は重大な罪だと思っている。
そして、これは校長先生によりも、その学校の生徒さん達に対して申し訳なく思う。
何度も繰り返すが、もし出来うるならば、大いに反省して戴きたいものだ。
亡くなられた校長先生に対しては、同情するといった行為そのものがおこがましい事ではあるのは百も承知の上でありながら、校長先生には気の毒なといった、心より同情を寄せたい思いでいっぱいだ。


そして最後に。
君が代そのものの歌の意味やその歴史について様々に言われているが、私の考えから言わせて貰うなら、それ相応の手筈を踏んだり、正しい歴史的な考証を経て本当の意味で国民の意見を問うた結果なら、いかなる国歌に取って代わろうともそれはそれでいいと思っている。
別の日本情緒のある美しい歌や曲でもいいではないか。

私自身は君が代に対して懐かしい思い出は有るものの、特別にそうでなければならないという考えは持っていない。ただ、歴史を感じさせる典雅な調べをもつ曲であるだけに、無下に変えてしまうのも惜しいのではと思っている。
また、明治以降このかた、太平洋戦争を挟んできな臭いイメージを持っているという時代的な考証も理解しているつもりである。ただ、そんな事を言えば、国歌(国歌というよりも先に今でいう国家という概念か)などは明治維新を境にでき上がったようなもので、それから以降の国の発展は歴史を検証するまでもなく、侵略戦争やそれにあけくれた国威発揚に使われた歴史が多いのである。
そして私達は、危ういけれども戦後の50年続いた平和の中に暮らしている。
天皇制を肯定するかといった問題にも関わり、『君(天皇)が世』の歌詞の内容から言って、その意味ではいいところなど有りはしないのである。
そして、この問題を煎じ詰めれば天皇制の是非にまで話が行ってしまう。

久々に駆け足でこれを書き下ろす。

1999/3/22 Toru Okajima

 

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