冬の鳥取砂丘シリーズ No.15

怖いもの

このページはちょっと砂丘の話題からそれてしまいます。

人それぞれには、何かしら怖いものというのがあるものだ。
いや、私にはこの世の中には怖いものなど一つもない。という方も中にはいらっしゃるかも知れない。
断わっておくが、ここで怖いものと言っているのは、何も家に帰ったら奥さんに浮気がバレそうで怖いとか、職場の上司が何かにつけ仕事の落ち度を見つけだしては怒るので怖いとか、女性の方で目尻にシワが増え始め腰の回りの脂肪がボタつきはじめたのが怖いとか、そういったものを言っているのではない。
純粋に怖いものである。怖いというより「恐怖」と言った方がいいのか。
怖いものとして、どういったものがあろう。
例えばおばけとか。おばけと言えばさほどでもないが、心霊現象と言ったら怖い。説明不可能な現象とか言っても怖い。
尤も、心霊現象とか妖怪ものの類いはそういった現象を科学的に、もしくは非科学的にでも信じれるか信じられぬかによって大きく違ってくる。
私の場合は、子供の頃から怖いものばかりに囲まれて育ってきたような気がする。このページの読者は私がそんな事を言うと、私が神社仏閣に関連ある家業とする出身であるとかと思われるかも知れないが、そんな事はないのである。普通の一般的な家庭で育ったはずだと思う。
尤も、普通の人よりも臆病なのかもしれない。おそらくそうなのだ。

ここに、私が今現在憶えているものでざっと思いだせるものを記述してみよう。
おそらく読者の皆様には、私の個人的な体験などさして興味ないものかも知れない。
怖い怖いといってもそれは私だけのことで、全然怖くもなくクソ面白くもない話かもしれない。
あくまでも個人的な体験があってそれが強烈に心に焼きつき、それに今までの個人的な思い入れが絡み合って初めて怖いものだからで、怖いと思わなかったりそれを不思議に思わなかったら、それ程のものではないからである。




■■■ その1 ■■■


 私の姉は私が生まれてまもなく病気で亡くなったが、病院からの知らせをとっくに亡くなっていた母方の祖母が下宿に教えに来たことがあった。
私はその時は母に抱かれてあやされていたのでその事件には遭遇しているはずだが、生まれて1カ月もたたないくらいの私は当然覚えていない。
当時、私の家族は共同アパートの2階に住んでいた。部屋の廊下に面した壁には曇りガラスの入った窓があり、戸口の横にあることからも誰それが訪れてもすぐ判るような所だった。
その頃姉は病院でずっと小康状態を続けていた頃で、たまたま母はアパートに帰って私に乳を与え、これからまた病院に向かうための着替え等の準備をしている時だった。
泣く私をあやしながらふと廊下の方を見ると、曇りガラスの向こうに下駄を鳴らして人影が通ったのが、わが家の戸口のそばでピタリと止まったのである。
こんな安アパートのそれも2階にそうそう人が訪ねてくることもない。
誰だろうと思って、はいと言って声をかけども応えがなく、戸を開けてみても誰もいないのである。すぐ帰っていったにしても、廊下の端にある上り下りの木造階段はきしみが激しく、人が通ったのならすぐに判るはずだ。
病院からきた危篤の連絡を大家が知らせに現れたのは、それからしばらくした後のことだった。

後から母親が考えてみるに、その気配は人影といい下駄の音といい、どうも実家の祖母のものだったらしい。私の姉の病状を随分と気遣い、物言わずとも先年亡くなった祖母だったらしいのだ。
私は夏に帰省した折りなんかに母親に今でもその時の話を聞くが、怖いというより先祖に向かって手を合わせたくなる類いの話である。




■■■ その2 ■■■


 子供の時、近所のドブ川に溺れ死んだ犬が何日もかけて腐臭を放ちながらゆっくり流れていったこことがあったが、悪ガキの私達は石を投げて遊んだことがあった。(何たること!)
何日もかけて少しずつ流れるので、下流の方に行くにしたがい、しまいには白骨になってしまう。
犬にしてみれば実に災難なことであったろうが、子供心とは実にもって残酷なもので、そんなものさえ興味の対象にしてしまう。まさに死者に石を投げうつ血も涙もない行為。
小さなドブ川は雨で増水したりする度に、蛆が湧いたり腐敗ガスでぷくっと膨れたり、浮かんだり沈んだり、そのうちには半ば白骨化してきた犬をゆっくりと押し流し、日に日にその場所を変えていく。
ある日は炎天下の中で浮かび、別のある日はしとしと雨の中で浮かび、緑藻にからまれながら蛆やアメリカザリガニの餌となりながら姿形や向きを刻々と変えていく。
ドブ川は学校の通学途中に沿って流れていたこともあって、私達はそれの一部始終を観察するはめになった。(市の衛生局はいったい何をしていたんだ?)

今になっても時々夢に見るあの光景。
ゆっくりと姿を変えつつ流れ行く、あの犬のおぞましい変容。
現在の私にダブって写るあの姿。
どうか神様、私の罪をお許し下さい。




■■■ その3 ■■■


 これも子供の時のこと。住んでいた市営アパートの近くに大きな鍵のかかっていない建坪30坪ほどの物置があり、当時の私達はこの物置が遊び場だった。(ちなみに他人様のものです)
材木が積み重ねてあったり、古い箪笥があったり、蒲団袋が積み重ねてあったりと薄暗いそこは隠れんぼするのに良し、中にある材木を使っておもちゃにするのに良し、宝物を隠すに良しなのだ。
悪いとは知りながら、興味本位に中のものを開けたり、木刀を削って作ったりするのに適当な板材を探したものだ。中はかび臭く湿っぽい空気が鼻をつき、すりガラスの窓からは淡い光が差し込んでいた。

ところが、ある日そこで遊んでいるうちに、血のりがべったりと一面に付着した古畳を偶然見つけた。何をして遊んでいたかはさっぱり思い出せないが、何かをしている拍子に古い畳が何枚か立て掛けてあったのが、おどろおどろしく倒れ掛かってきたのである。
まさに肝を潰すとはこのことである。
血のりはとっくに乾いて黒くなってはいたが、私達はほうほうの体で物置から逃げ出したのは言うまでもない。あれはおそらく、何かいわく付きの古畳だったのだろう。
私は今でもあの時の光景が目に焼き付いて離れない。
まるでスローモーションのように再現できる。
思うに恐怖というものは、何でもないことながら、このようにして脳のシナプスが強力な刺激により強固に結合されて、長くまで記憶されるものであろう。




■■■ その4 ■■■


 私は一時期、航空自衛隊という軍隊に勤務していたことがあるが、そこで遭った光景が今でも忘れられない。
山口は防府にある第一教育隊で明けても暮れても厳しい訓練でへとへとになっていた時期であるから、私が18歳の入隊時の頃である。
ある日のこと、教練や戦闘訓練の後にいつものとおり教習場で座学があった。座学と言うといかにも古めかしいが、学校の授業と同じである。これが体力を消費した後に時間割が組まれていると、とてもきつかった。
法規関係の講習、自衛隊の歴史とか道徳関連の講習、航空力学をはじめとする航空自衛隊ならではの航空知識、武術の机上講習、設営や実戦配備や索敵方法等の実戦講習、武器の分解掃除等・・・・が疲労と緊張の中おごそかに行われるのである。
ところが、そこの木造2階建ての教習場がかなりの年代物の建物で、特に、いたるところの白壁に昔の軍人さんの肖像画がじかに描かれていたのは怖かった。廊下は真昼でも薄暗いのだ。
描かれている肖像画の目が鋭く怖く訴えかけていて、私には正視できなかった。細かくひび割れたその壁の向こうから、鼓動が聞こえてきそうだったのだ。
座学は時には夜間にずれ込んで行われる時もあり、それはそれは怖かったな。
トイレなんかは鉄錆でまっ茶に染まり、大きい方は汲み取りであるうえに、がらんとした中に黄色い電灯一つだけなのだ。
これが怖くない筈がない。唯一の救いは、ある程度の人数(50人程)が周りにいたことだ。
でも私が怖いと思っていたのは、その教習場の2階である。

木製の手すりの付いたその2階に登る階段は、全てが木製の椅子が積み重ねられてバリケードが施され、鉄条網が何重にも張り巡らされていたのである。まるで、何かを隠すように。決して上に上がってはならぬというように、である・・・。
それが私達、新米隊員の間で噂にならないわけがない。
教習は1階であるのだが、その上の階にはいったい何があるのだろう?私達の間では、いつも気になっていた。特に夜間に真っ暗な2階を見上げると不気味でならなかったのである。

そんな中、幾日かたった後だったと思うが、私達の小隊の中で私とは別の分隊の同期生がついに2階に上ってきたと言うのだ。なるほど、鉄条網をかいくぐって無理に無理を重ねれば2階に上がれないこともない。
そいつが2階で見たものとは、これがまた怖い。

そいつが見て来たものとは、教官が立って講習する黒板一面に機銃で掃射したような壮絶な弾痕が残っていて、血痕と思われる赤茶けたものがあたり一面に飛び散っていたというのだ。
いくつかある机の類いも壮絶に投げ飛ばされて散らかり、同じく機銃で砕け散って血痕や肉片らしきものが飛んでいたりする。あたりは目を覆うばかりの光景。
なんでも十数年前のこと厳しい訓練に耐えきれずか精神的にまいってしまった隊員が、上官への腹いせに武器と弾薬をひそかに盗みだしては凶行に及び、自分も自殺したものらしい・・・と、そいつがもっともな顔をして説明するのである。(その説明はどこから仕入れてきたのだ?)
真偽のほどは、おそらく嘘ではないかとは思うのだが、私がこれを興味深く聞いたその日はなかなか寝つけなかった。
あの頃は走行訓練の途中で急死した仲間もいたし、脱柵といって基地外に脱走した者がいて捕まったような話が誠しやかに話されもし、実際に上官から通達があった時期である。
そこでは、例の隊員の話を信じてしまってもおかしくないような雰囲気があった。




■■■ その5 ■■■


先の話と同じく、私が航空自衛隊に在籍していた頃の話である。
教育隊も卒業し、とある基地に赴任し、資材在庫管理の仕事を行っていた頃の話である。
あの頃、日中は本業のデスクワークと何かしらの運搬作業とか清掃作業とか訓練に駆り出されて、毎日がかなり目まぐるしかった。
月に2〜3度は、増加警衛といって基地の警衛隊の支援に駆り出されもした。一番下っ端で若かりし私はそういった仕事に多く回されたのだ。そしてそれは、大抵が夜なのである。
実は、怖い話はこの増加警衛の任務に当たっていた午前2〜3時の話である。

ライナーを被り弾帯をして甲武装に身を包んだ格好でカービン銃を肩にかけ、懐中電灯と警棒とトランシーバを持って広い基地内の施設とか、外柵周りの不審な事象の有無を見回るのである。いわゆる歩哨なのだが、これが実に怖かった。
私が勤務していた資材計画の事務棟やコンピュータ棟は別段何でもなく、基地内の寮も遅くまで起きている人もいたりでその辺りを巡回する分には恐怖はないのだが、怖いのは保管倉庫とか整備倉庫である。

自衛隊のそれは、ここが何かの工場かある町全体が基地の中にあるのではないかと思うほど、それはそれは巨大なのである。
巨大な航空機部品や車両部品の保管倉庫、武器弾薬の保管倉庫、ありとあらゆる官品や食料物資の保管倉庫、ボイラー施設、通信施設に車両整備施設、給油施設、塗装施設。隊員の独身寮があればグランドもあり駐車場もあり、巨大食堂もある。売店(BX)や理髪店、大浴場に医療所、そして警衛所、警務所、消防署。そして当然のことながら基地司令棟があるのである。
ただ私が赴任していた基地は、広大な滑走路を含む飛行場が無かった。これが無いだけでも警衛勤務としてはかなり楽なものになるのは言うまでもない。
そして、それらをぐるりと外柵が取り囲む。
私はそれらをジープと歩きによって巡察する。
不審な事象を発見したらそれを確かめて報告する、不審な人物がいたら基地の内外を問わず(外というのは外柵周りのこと)誰何してこれも報告なのである。

その警衛勤務の最初の頃の話。
先輩(警衛が本業)と二人で回っていたりすると、突然先輩が、
「ちょっと、岡嶋二士(二等空士という階級ですね)、あのトイレと整備棟の○○の地点を見てきてくれないか」なんて言う。あたりは車両整備関係の大きな建物が大きくそびえ、遠くに屋外トイレがぼや〜っと暗闇の中に見えている。私は暗闇は苦手な方である。
先輩はここで待っていると言う。嫌だなあ。
私は仕方なくその箇所に向かい、懐中電灯であらかた照らし出し、不審な事象についての有無を確かめて帰ってきて報告する。
「岡嶋、あの物陰に何か見えなかったか?」
「いや〜ぁ、何も見えませんが」
「おかしいなぁ。よおく見てみろ。本当に何にも見えないのか?」
「ええ。大丈夫。異常ありません」
「そうか・・・。じゃ異常なしだ。次を回ろう」
「・・・???」
歩哨を終えて警衛本部に戻り先輩と二人で警衛隊長に報告を済ますと、「そうか、岡嶋は見なかったのか・・・」なんて隊長はひとり机上業務に追われている。

後でいろいろな先輩諸氏から話を聞いたのだが、あの基地、いたるところに人が事故で亡くなった現場とか、旋盤に巻き込まれた事故死の現場とか、防衛庁職員がノイローゼ自殺した場所とか、貯水タンクに人が落ちた場所とか、色々な恐怖の名所があり、夜間警衛に就く何人かの人間はわけの分からない現象を目撃するらしいのである。
ああ怖い。ああ何たること。
昼間に見る分はどういった所であろうと別段何でもないのだが、夜見るそこは風情が違うのである。いかにも出そうなのだ。
私は航空自衛隊を退官するまで、都合60回ほど夜間警衛に勤務したことになるのだが、怖い話の存在を聞くにつれ、その勤務が肝試しのように思われたものだ。
実に憂鬱なトホホな肝試し。
そういえば、警衛本部の仮眠室ではよく金縛りにあったなぁ。

尤もこれらは今では懐かしい想い出で、そうそう恐怖の体験ばかりしている暇もなかった。
自衛隊員は何よりもまず勇敢でなければならないのだ。そうでなければ、国の守りなどとてもできるものではない。
歩哨と立哨の勤務が交代となり警衛本部に戻ってからは、奥の部屋で先輩の真に迫るエッチな風俗体験話などを聞きながら、夜食のカップラーメンをすすったのを今でもよく憶えている。
警衛本部は街の交番と一緒で、外側から見える受付の部屋では誰かしら24時間中詰めていなければならない。夜中の2時だろうと薄明かりの中、外をまっすぐ向いて黙々と椅子に座っていなければならないのだ。いつ何時でも、自衛隊営門近くの警衛所でこういった風に待機されていると、外からは頼もしく映るものである。
しかし、薄寒の中でよく居眠りかけては隊長に叱られたのを憶えている。
警衛本部にいる分は、何かが起こったり夜間に要人が訪れたりする予定のない限りは、実に退屈だったのである
いずれにせよ、今ではよい想い出となっている。

1998/1/22 Toru Okajima

 

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