冬の鳥取砂丘シリーズ No.14

大地の歌

このページでは少し趣向を変えて音楽について考えてみたい。
レジャー地や市街地のどこでも、少なからず音楽がかかっていたり鳴っていたりするものである。ここ鳥取砂丘の場合だと、福部村側の土産売り場や観光バス発着所の辺りで昨年のレコード大賞に輝いた安室奈美恵ちゃんのキャン・ユー・セレブレイト?がかかっていた。
こういった場所ではポップスや演歌は最大公約数的なお気軽ミュージックで、いつ来てみても大抵の流行ものが鳴っている。まわりには音響を遮るようなものも無く、まさに天をゆさぶるが如くに音楽が鳴り響くのである。(そこまで大袈裟でないか)

音楽というか音響に関してのついで話なのだけれども、音響スピーカーの音響測定の実験だと思うが無限バッフルというのを聞いたことがある。ステレオのスピーカーは御存知のとおり何らかの箱に入っていて、箱の後ろ側に音響の波が逃げ込んだり、箱そのものに対して派生する定在波が原因して、実際のスピーカーユニットそのものの特性が測りづらい。そこでスピーカーを前面を残して砂に埋め、スピーカー前面(バッフル)を無限の大きさにするのである。(実際に無限というのはありえないが)まさに大地から発する音響。
音響メーカーが地掘り穴掘りして行うこの実験も、砂丘ではどこぞかしこ砂だらけなのでし放題である。(尤も話に聞いただけで実際には見たことはないが。本当かな?)


湘南の海岸を見てサザンオールスターズの音楽が自然と頭の中に鳴り響いてくるように、音楽の一情景が風景と密接にマッチする場所というのは存在するものである。また、その逆もしかりで、人それぞれによっては当然違いがあるものの、風景にマッチする音楽が存在するのも確かである。
というよりも、そういった音楽が作られているというか、はたまた感じる側の人間が強引にこじつけるのか、そういったことは往々にしてある。
その要因は、曲そのものがその風景を素材にして書かれたものであるとかは言うに及ばず、以前その土地を訪れた際にこういった音楽が鳴っていて感銘を受けたとか、以前別れた彼女とこの地を歩いた際、彼女との会話の中でこの音楽が話題にのぼったとか、実に他愛もないものである。
ポップスは私のテリトリーでなく、残念ながらこの鳥取砂丘にマッチした曲を知らないので、あえて純音楽というかクラシック音楽で考えてみたい。


私は以前、冬のスキー場のゲレンデで、またゴンドラの上で、シベリウスの音楽が頭の中でリプレイされ、その回想された音楽に酔った経験がある。
実際にCDを聴いた時にその音楽に酔いしれたのではなく、自然の情景を目の前にして頭の中で自然に鳴り響いてきた音楽に酔いしれたのである。
偉大な芸術作品とはそういった感動の仕方をするもので、音楽にも絵画においてもこういった経験はままあるものだ。

シベリウス(Jean Sibelius,1865-1957)はフィンランドの作曲家で、交響曲なんか標題のついているものでもないのに、なぜかしらフィンランドの森林の香りと張りつめた空気が、湖沼に写り込んだ残照のゆらめきが、その音楽の中に現れるという、交響的表現力の偉大な大家なのである。
ゴンドラ上から見た幾層にも連なる雪をかぶった峰々が、シベリウスの多層にもわたる楽想や音響とマッチして、シベリウスが音楽において表現したかったものいくつかが目からウロコが落ちる如く自然に納得されたのである。
あたりまえのことを言うが、フィンランドの峻厳な自然そのものが、日本のレジャー地から眺望される景色と同じものとは言えない。が、似たような要素をもった景色を前に、雪が吹雪けば、峰の遠くに薄日が差せば、それが頭の中ではフィンランドの雪原や森林に結びつくのである。
空想の上で、音楽の楽想とそこに描かれた景観なり情緒が、まるで総譜をさらうが如くに蘇ってくるのである。
音楽を鑑賞するうえで、これ以上のものはない。

では、ここ鳥取砂丘にマッチした音楽はあるのだろうか?
鳥取砂丘と言っても、夏の鳥取砂丘なら、グローフェ(Ferde Grofe,1892-1972)の「グランド・キャニオン」のような大自然を彷彿とさせる佳作がある。真夏の砂丘はまさにグランド・キャニオンほど雄大ではないにしても、情感はピッタリだ。
しかし、今回は冬の鳥取砂丘をテーマに考えてみよう。
鳥取砂丘は雪のゲレンデのような華やかさには欠ける。
あっても、ちと暗めの曲かな。

純粋に自然をスケッチした感じのものではないが、野性味を聴く意味では、ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky,1882-1971)の三大バレエ組曲なんかがふさわしく思えるがどうだろう?特に「春の祭典」なんかは、最初の出だしから聴く者のイメージする視点を大地の草いきれのむんむんする位置にまで誘い込んでしまうあたり(まさに大地の視点で表現した)、冬の鳥取砂丘の情感にピッタリなんだがどうだろう。
冬の鳥取砂丘を思うに、寂しさは一番の重要な要素だし。また、西欧風な情緒からは少し縁遠く思われる。そうしてみると、鳥取砂丘にふさわしい曲を探すに、西欧音楽を基本とするクラシックからはちと難しいのではと思われたのだが、有りました。探してみるものである。

前世紀末から今世紀初頭にかけて活躍した作曲家マーラー(Gustav Mahler,1860-1911)が9番目に作曲した交響曲「大地の歌」である。この楽曲を知っている方からはちょっと意外に思われるかも知れない。

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)
大地の歌(DAS LIED VON DER ERDE,テノール、アルトまたはバリトン独唱、管弦楽 1908)
第1楽章:現世の悲しみを歌う酒宴の歌(李太白による)
第2楽章:秋の日に独りありて(銭起による)
第3楽章:青春の歌(李太白による)
第4楽章:美しきものを歌う(李太白による)
第5楽章:春の日を酔いて歌う(李太白による)
第6楽章:告別(孟浩然および王維による)

このアルトとテノールの独唱を伴った交響曲は中国の詩がモチーフとして使われ、東洋的な色彩がことのほか強い。マーラーの曲だからオーケストラの咆哮や屈折した複雑な音響交叉は言うに及ばず、豊かな詩情もさることながら、土臭さや人の温もりといったものも持っている。

音楽的には問題をはらんでいる(らしい)ものの、まさにマーラーの一大傑作なのであり、私自身これを凌ぐ感動を容易に与えられる楽曲を他に知らない。
選択する上での考慮点である淡々しさ、寂寥感といったものも、クラシック音楽全ての中でも較べるものがない程のものを持っている。
それどころか6楽章あるうちの最終楽章「告別」は、作曲家のマーラー自身が涙ながらにペンを取り、この曲を聴いた人間には自殺者が出るかもしれないと弟子に語った程の作品なのである。

鳥取砂丘を述べる上で、見当外れの様に思えるかもしれないし、音楽の方を御存知の諸兄からは鳥取砂丘がそれ程のものかと、お叱りを受けるかもしれない。
特にこの曲の場合、最終楽章「告別」から聞こえてくる現世における哀愁や絶望や慟哭と諦念とそれらを包み込む寂寥を鳥取砂丘に強引にも結びつけようとするならば、鳥取砂丘とはとてつもなく悲劇的な広漠な大地と化してしまう。
また、マーラーの書いた卑近な屈折した楽想は、あまりにも大自然的な鳥取砂丘には合わないものかも知れない。鳥取砂丘の広大な自然を思うには、音楽で語られる対象そのものが、もっと純粋にパースペクティブに表現されていなければふさわしくない。
それに、マーラーは古典と前衛の狭間にいつつも、本質はウイーンの伝統を受け継いだ作曲家でもあるが、ウイーン情緒のような要素など鳥取砂丘には有りはしない。

別の問題としては、鳥取砂丘を構成するはずの一要素である海の楽想が、音楽の方には無いといった、仔細だが無視できないものもある。「大地の歌」は中国の歌詞を持つことにより既に表題化されてしまっているため、詩の中に海が登場しない限りは、海の要素や砂の要素が解釈として入り込む余地が無い・・・などの点が指摘されよう。

砂丘の峻厳な自然を思う意味で、バルトーク(Bela Bartok,1881-1945)の管弦楽や室内楽、無限の広漠とした砂丘を音楽的な表現で考慮してみて、無調音楽のシェーンベルク(Arnold Schonberg,1874-1951)の管弦楽曲の方が似合っていなくもないし、土臭い民族的な楽想を聴く意味では19世紀ロシア国民学派の作曲家の方が、民族色豊かな野性味のある曲を書いている場合が少なくない。このロシア的ユーラシア的な作品の中にも、鳥取砂丘にも相通じる要素があると思う。
何も異質な感がなくもないマーラーを挙げずとも、実際には、広大な大地を表現した音楽や、大自然やそこに住む民族的な情緒を表現した音楽は古典と現代を問わずいくらでも存在するのである。

ロシアの作曲家の一人、イッポリトフ=イヴァノフ(Mikhail Mikhailovich Ippolitov-Ivanov,1859-1935)の佳作に組曲「コーカサスの風景(Coucasian Sketches)」というマイナーな管弦楽曲があるが、これも鳥取砂丘にマッチしているように思える。
これはコーカサス地方の高地の風景や民族文化を曲に表したものだが、「大地の歌」と違ってあれほどの荒々しさは無い。
「大地の歌」は中国の詩をモデルにしただけあって、表現が大陸的というか中国的なのである。
言葉を変えて言うならば、情緒の表出が大仰とでも言おうか。
この特徴は、日本情緒のような少しばかり控えめな(単独よりも調和、造形よりも色彩、華麗より雅を尊重する文化)内に染みいるような要素とは、少しばかり懸け離れている。同じ東洋的な文化でも、あそこで情緒てきめんに表出されている中国のそれと日本のそれでは違うのだ。中国情緒とはいえ、そのモチーフを使って作曲したのはオーストリア人のマーラーなのだが、この人は多分に同質なものを持っていたのだろう。
大仰な大陸的中国的な情緒。
そこのところがユダヤ作曲者マーラーの特質とマッチしていたからこそ「大地の歌」は成功したのだと思う。慟哭と披瀝、現世に対する絶望と諦観。
あれが、日本の詩文を題材にしていたら、果たして今ほどに名声を得ていたかどうか怪しい。
そして改めて言うまでもなく、鳥取砂丘は日本における、あまりにも控えめな大自然なのである。そんな所にマーラーがマッチする筈もない。

でも、私にはマーラーの「大地の歌」こそ冬の鳥取砂丘の寂寥感と大地の香りには一番マッチするのである。なぜなのだろう?
これは、私自身の思い入れからのものでもあり、当然他者の意見とは異なることは百も承知である。
私自身、強力にこれを推す自信もない。
どうも私はこの音楽に感じ入るあまり、あの鳥取砂丘の大地までを、寒風吹きすさぶ人生の悟りの地にしてしまいたいらしい。
私の感じている想いと鳥取砂丘に通じるもの・・・?。
それには一度この曲を聴いてみるのがよろしかろう。
最後になるが、蛇足ながら指揮はワルターかクレンペラーで聴きたい。

1998/1/15 Toru Okajima


 

※ところで、先に挙げたシベリウスにしろマーラーにしろ、自然に対する描写力というものは凄いと思う。また、何もその音楽の中に自然描写だけがある筈もないのであり、色々な楽想が混在しているのは、一度でも聴いて頂ければ判ると思う。

音楽は絵画と違って表題的なものを描こうとしたら、それがどう聞き手に伝わるかが重要なところだが、これは視聴者にもそれなりの経験なり感覚を強要するものである。また、芸術家の方も簡単に自分の作品を事前に解釈されたらたまらないのか、表題をつけたがらない人もいる。

絵画ならそれがある程度ストレートに伝わったりするものではあるが(尤も最近の絵画においてはどこに主点を置いているのか判らないものが多いが)音楽の場合、それが聞き手に納得させられるかが重要な鍵となってくる。我々は絵画を見るにしろ音楽を聴くにしろ、自分が今までに培っていた経験をいくらか活用していてそれを理解するのであるが、そういったものを最大限に活用させているのがシベリウスとかマーラーといった先に挙げた音楽の大家だと思う。

この項では「冬の鳥取砂丘」というシリーズもので語っているせいもあってか、自然を語っている作曲家を取り上げているが、先に挙げた人以外にも素晴らしい作曲家は大勢いる。超有名な方を挙げるとW.A.モーツアルト。

モーツアルトの音楽には数知れない程の自然描写があると思う。それも生半可な描写力ではなく、そんな所をよくよく耳を凝らして聴いてみると自然に対する感受性と深い洞察に満ちている事がわかる。また、有名どころではJ.S.バッハの音楽はよおく聴いてみるとさらにその上をいくような気がする。

マーラーやシベリウスの活躍した時代は、色々な音楽やものの感受性が汎世界的にも商業的にも蔓延していて、それより一世代や二世代前の作曲家と同列に述べることは妥当ではないかも知れないが、私にはそのコラージュ的な手方そのものにもより大きな共感を得られるような気がする。マーラーの曲は他方では俗っぽいように言われている面もあるが、マーラーの残した言を借りれば、その俗っぽさに大いに浸ろうではないかという事であり、私も多いに共感するところだ。

例えばマーラーの楽曲で言うと、交響曲第4番の第2楽章を何度か聴いてみてから、近くにでもある林の中を枯れ葉を踏みしめながら散歩してみてごらんなさい・・・・。

2001/2/4 Toru Okajima

 

 

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