冬の鳥取砂丘シリーズ No.17

愚かなる者達

 

古の時代から、人間は闘争に明け暮れ、殺し合いを続けてきた。この世に存在する生物は、弱肉強食の時代とは言え、なぜ殺し合いを続けるのか。人間の英知とは何か。それは、お互いの知恵を働かせて、お互い仲良く生きるための知恵ではなかったのか。殺し合いの歴史の果てのつかの間の休戦。この歴史の中で、一体どれだけの平和があったのか。この歴史は闘争の歴史なのか。それでは余りにも悲しい。この数千年の間、人類は一体何を学んだのだろう。何も学んではいないではないか。父や母、そして兄弟姉妹や祖父母を死なせ、涙を振り絞った闘争の歴史。人類は何を学んだのか。何も学んではいないではないか。釈迦もキリストも、そしてマホメットも、人類に心の平安を与えるために生れ、この世に出てきた。彼の先達は人間の正しい道、心の平安、心を清らかにするために、一心に教えを広めて、そして、役目を終えて神のところへ帰っていった。以来、千年以上の歳月が過ぎた今、人間の醜い心は一向に直らない。人類は目覚めていなかったのか。宗教の違いで、いとも簡単に人を殺す。殺人者は恥じないのか。人を殺せば神が喜ぶのか。人を殺せば神が賞でられるのか。人を殺せば平和が来るのか。人を殺せば自分が救われるのか。そんな事は地獄の沙汰ではないか。神であれ仏であれ、その教えは人の心の平安を得るものではなかったのか。徒に自分の領域を広め、自分の思想を頑なに守り、それに共鳴しない者を殺す。それでは山野に生息する獣と変わらない。しかし、自然界に生息する獣には、それなりの掟がある。それは、自分を攻撃しない者は襲わないという事だ。自分のテリトリーを犯さない者は攻撃しないという事だ。これは自然界に与えられた神の掟だ。これは動物も鳥も草木も同じだ。彼らはそれを守って生きてきた。彼らはそれを守ることによって種族の保存をはかってきた。彼等は神の掟を守ることによって栄えてきた。それでは人間はどうなのか。この地球上の一番の知恵者は人間だと言われた。人間は万物の霊長だと言われた。人間は数々の文明を持ち、言語を有し、あらゆる物を創出したとされた。しかし、その果てには、自分の志を別とする者を攻撃し、殺戮している。戦争とテロは、あらゆる手段で人類を殺戮する。人を多く殺したと言っては勝利だと言う。狂った人間の心。神は人を殺せと命じたのか。神は自分と違った考えを持った者を、殺せと命じたのか。そんな事を神が言われる筈がない。この世のあらゆるものを創造された神が、人を殺せと命令される訳がない。人類が生まれて何万年。人は食うために獣や魚介類を獲る。それは、ライオンが飢えを凌ぐために、鹿を捕殺して食うのと似ている。しかし、ライオンは満腹の時には、決して弱い者を襲わない。それは、自然界の掟を守っているからだ。それなら人間はどうか。自分の理念を押し通すために、それに従わない者を簡単に殺す。これほど神の摂理に反することがあるか。世界にあまた宗教があれど、その神髄となるものは、けっして闘争を説くものではない。人の平安を得るためのものだ。心の平安とは、生き物は全て同胞と思う暖かいものではなかったのか。宗教とは、けっして災いや闘争本能を起こさせるものではない。人類は悔い改めなければならない。多数の人間を殺すのが聖戦ではない。神の摂理に反する者達よ、天罰を恐れよ。殺戮を止め、不幸な歴史に終止符を打つ事をこそ、神仏の心に通じるものだと思え。

 

2001/9/21 Yuji Okajima

 

 

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