冬の鳥取砂丘シリーズ No.18

博物館だった仁風閣


福部村方面を眺める。遠くに見えるのは駟馳山(しちやま)です。

つい2〜3年前のことになるけれど、盆休みに帰省した折りに鳥取県立博物館に行ったことがある。鉄筋コンクリートの非常に立派な建物で、常設展示は生物学、鉱物学、考古学、民族学、古美術など、期間限定の展示では美術ものとか化石展示ものが多い。珍しいものでは、IBMの大型コンピュータが来た事もあった。計算機の歴史を振り返った企画もので、主催はIBMとなっていたように思う。(???)
鳥取の博物館。
それはそれは、立派なものなのである。

鳥取市の久松山のふもとにあるこの博物館は、昔はこともあろうに仁風閣の中にあった。
仁風閣とは皇室のいわば別荘にあたるもので、昔の大正天皇、昭和天皇が行幸された折りに使われた、西洋風の洒落た館である。手元に資料が無いので詳しくは述べられないが、明治時代の高名な建築士の方が設計されたらしい。また、NHKのテレビや映画のロケに使われたことも幾度かある。
今では岐阜にある明治村(敷地内に昔の建物が多数保存されている)に移設されていてもおかしくない建物だ。
当時としては実にモダンな建物で、今改めて眺めてみると明治後年のルネッサンスの香りが感じられて非常に心地よい気持ちになる。
私はこういった文化の香りが好きなのである。





博物館に様変わりした仁風閣。様変わりしたと言っても、私にとってもの心ついて仁風閣を知るようになってからは、既に博物館だったような気がする。

木造二階建の白い建物で、三角屋根があって、柱には綺麗な装飾と御紋があり、広い庭とバルコニーがあったな。

あの頃(1970年頃の話)は博物館が遊び場だった。
近所の広場に行くみたいに、博物館が私達悪ガキ供にとっては公共の遊び場だった。悪ガキ供数人で自転車に乗って行ってはよく遊んだものだ。
そして、みんな市内の尚徳練武館に行っていたので、みんなが剣道の竹刀を持っていたものだ。秘密のアジトのような意味合いも多分に持っていた。
そして、驚くべきことに、そこが元皇室御用達の建物だったのである。

えっ?そんなところで遊んだの?と思われるかも知れないが、信じられないかも知れないが、皇室の別邸の中に土足で上がり込んで遊んだ事になるのである。

博物館といっても鳥取砂丘の模型や、やたらと息苦しくなるような部屋に鉱石の展示があったり、植物や昆虫の標本やら動物のホルマリン漬、はたまた人体の解剖模型があったりと、少々不気味だった記憶がある。
入館料など無く、鍵もかかっていなくて自由に出入りできたので、いつしか私達悪ガキ供のたむろする場所となっていった。

階段を上り下りするとみしみしいったり、古い建物特有の臭いにむせ返りながらも、何度も訪れたりしたものだ。
簡単な電気の実験装置が置かれていて(照明による色実験装置)それらを実験と称して触ってみた。
また、これは鳥取ならではと思われるものだが、全長が1メートル近いオオサンショウウオのホルマリン漬けを見て気味悪がったりもした。
私の母親も来たことがあるが、ニシキヘビのホルマリン漬の前だけは怖くて絶対に通らなかったのを今でも憶えている。

私達はいつしか、展示されている昆虫や石と同じものを採ってきては得意になったりしたものだった。悪ガキの頃は、自分が夢中になって山から採集してきた昆虫なり植物が、こういった形で説得力をもって提示されていたりすると、何よりも発奮するものであるし、博物館で公式に認められたものを持っている事は、仲間内では称賛の目で見られたものである。
あの頃の博物館とは、身近に感じられもしたし、本来の意味での役に立ち、子供達である私達に夢と好奇心を与えたもので、ある意味で学校の先生以上に重要な役割を示したのである。

そういった仁風閣も、今では重要文化財となって厳重に保護されている。私が中学校当時の1975年ぐらいから、そうである。ということは、かれこれ20年以上もたつ事になる。
建物もいくらか補修されたし、内装や家具も明治時代当時のものが再現されている。
「博物館としての使用などはもっての他じゃ」といった佇まいである。
したがって入館料も取るし、入館できる日も決まっている。生まれ変わってから2度程入ってみたことがあるが、明治情緒を強く感じさせる歴史的な資料館に生まれ変っている。昔の埃をかぶった物置みたいな博物館の面影は、もうどこにも無かった。
あの頃のモノクロ写真のような赤茶けた想い出は、もう心の中にしかない。

それにしても、なぜ仁風閣が誰も来ないような博物館として使われていたのだろうか?
かりにも天皇陛下の別邸である。あれは一時的なものだったのだろうか?
ことの経緯は私には知るすべも無いが、どうも今思うに鳥取市政の怠慢だったのではないかと思われる。(鳥取市政に携わっている方、お許しを。冗談です)
このこと、どう思います。
もし、このページをご覧になられている方で、鳥取出身の方で、あの当時の仁風閣を御存知の方がいらっしゃいましたら、ご意見をお聞かせください。

1998/3/7 Toru Okajima




重要文化財 仁風閣

※以下は仁風閣観覧の折りのパンフレットから転載しました。
 また、写真は1998年5月2日にデジカメで撮影したものです。


鳥取市は、元池田家鳥取藩主の居城のあった久松山(263m)を扇の要として発展した都市で、この城跡に立っている洋風建築が国の重要文化財仁風閣です。

仁風閣がこの位置に立てられたのは、明治45年5月のことで、元鳥取藩池田家の当主池田仲博侯爵が、宮内省匠頭であった片山東熊工学博士に設計を依頼し、工部大学校で片山博士の後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵工学士が監督しています。
片山博士は、明治洋風建築最高の傑作である赤坂離宮をはじめ、京都国立博物館など、数多くの有名建築を設計し、当時の宮廷建築の第一人者といわれた人です。

仁風閣は、全体にフレンチ型ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺二階建で、バロック風な軒飾りがほどこしてあり、正面右側には、らせん階段のために角尖型の塔を突出させて、この建築の特徴を打ち出しています。
また、室内マントルピースのための六本の赤レンガ煙突は、瓦屋根に云い知れぬ変化をもたせて、当時の建築様式を裏付けており、背面は、一・二階とも吹き放しのベランダを設けて、ルネッサンス様式特有の品格を表現しています。
ちなみに、仁風閣の建築は明治39年9月に着工して、僅か8カ月で完成し、建築費は4万4千円であったと記録されております。当時、市役所予算額は5万円でした。

明治四十年、完成と同時に仁風閣は、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行行啓の宿舎として使用されました。各室が、ご座所・謁見所などの名称で呼ばれているのは、そのためです。

仁風閣の名は、この時、随行した海軍大将東郷平八郎の命名で、今もその直筆が二階ホールに掲げられています。
また、仁風閣には、この時県下ではじめて電灯が灯され、室内のシャンデリアと、夜空を彩ったイルミネーションは、明治文明開化の到来を華々しく謳いあげたものであります。
大正年間に入って、この建物は市の公会堂、県の迎賓館などに使用されましたが、昭和18年の鳥取震災の際、屋上に突出した煙突が折損落下しスレート屋根に葺き替えられました。

昭和24年から47年までの約24年間は県立科学博物館として使用されましたが、この間、鳥取文化財協会を中心とした熱心な仁風閣保護運動が絶え間なく続けられ、昭和48年春に県立博物館の新築に伴い県から譲り受けた鳥取市は、同年6月に重要文化財の指定を受け、昭和49年から3カ年間、約2億円で修理復元を行ない、昭和51年、菊かおる文化の日(11月3日)から公開しました。

館内一階には、修理復元の資料・建築当時の洋風建築や明治大正時代の市民生活資料ほか、鳥取藩関連資料などの展示をしております。

なお、二階ベランダから眼下に見える庭園は、宝隆院庭園と云って鳥取藩12代藩主(池田慶徳)が、若くして未亡人となった11代藩主(池田慶栄)夫人宝隆院を慰めるために造った回遊池泉式庭園です。


国の重要文化財指定 昭和48年6月2日

鳥取県鳥取市東町2丁目121番地
(0857)26-3595






観覧料
児童または中学生=30円(20円)
高校生=80円(60円)
一般=150円(120円)
(カッコ内は20人以上の団体の場合)
休館日=毎週月曜日(祝日の場合は開館します)、祝日の翌日

御座所 謁見所 中央の階段から二階を見上げる


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