冬の鳥取砂丘シリーズ No.12

我が少年時代の思い出


このページでは、私の親父の書き下ろしたエッセイを紹介いたします。

 

今、テレビで人気番組になって久しい「何でも鑑定団」と言う番組。この番組は6年以上続いているそうだ。視聴者の手元に眠っている『お宝』を鑑定士のメンバーが値段を付ける番組だが、これが、なかなか面白い。
『お宝』持参の依頼人が「この品物は何百万円します」と言ったところで、プロの鑑定士が実勢市場価格としての値段を付けるのだが、これが時には何千円となり、また1万円や2万円となる。

反対に、依頼者が2万ぐらいに付けた物が、何と何百万円、甚だしい時には1千万円以上の値が付く事もあるのだから、これが結構スリルがあって面白く、こう言うところが、何年も続いている「長寿番組」となっている所以だろう。
私もこの番組が好きで毎週見ている。先日、この番組に凄いコレクターが現れた。それは、彼の有名な漫画の神様と言われた手塚治虫(故人)の、過去に発行された単行本を殆ど全て所有している人だった。鑑定士に言わせると、この所蔵する本(約2千冊)の値段は推定にして約1千4百万円になるだろうと言っていたが、これは、手塚氏が物故したから値段が上昇したか、また、そうでなかったにしても、この所蔵本はそれぐらいの値打ちはあるし、全国に存在するコレクターが囁から手が出るほど欲しい本には違いなく、状態の良いものなら1冊30万円から50万円はするらしく、時には「特にこれが欲しい」と言う人はそれ以上の値段を付けるだろうと言っていたから、これは本当に驚きである。
本によらず、全ての骨董品と言うか古美術品は、その希少価値がある故に売り手買い手の市場と言う事になる。つまり、市場にあまり出回っていない物ほど高くなるし、その少ない物を求める人が多いほど市場価格は跳ね上がる。オークション等でも、市場に回っていない物ほど高値で落札される。そうなると、他人の持っていない物を所蔵する人は『宝持ち』と言う事になる訳だ。
この番組はまだまだ続くし、日本国中まだまだ眠っている『お宝』はあるようだ。私が、かって少年時代に愛読した「少年倶楽部」と言う少年雑誌。この雑誌が、もし状態の良い本として存在したら、1冊1万円は出してもいいと思っていたが、この番組を見て、とてもそんな値段で買えない事が分かった。戦争中に発行された良品ならば、1冊30万〜50万の高値が付く事が分かったからである。この少年倶楽部、私が少年だった時代には1冊50銭で販売されていた物である。
それでは、私が小学校3年生だった昭和15年頃と言えば、50銭はどのくらいの価値があったかと言うと、まず、当時の映画館入場料金(小人)が10〜15銭、銭湯入浴料が4〜5銭、素うどん1杯が7〜8銭、(ちなみに、きつねうどん13銭)キャラメル1箱が5銭から10銭だったし、ローケン饅頭と言って今で言う蒸しパンが1包6銭、コーヒー1杯が店によって違うが20〜30銭と以外に高かったように覚えているが、これは、記憶としては正確ではないかも知れない。ちなみに、私が小学校4年生の時に、当時、鳥取駅前にあった丸由百貨店で買って貰った算盤が1円30銭で、また、4階の食堂で食べた洋食のフルコースが2円だった事をはっきり覚えている。
そうして見ると、当時の50銭銀貨は値打があったし、大いに幅を利かせていた事を思い出す。私が小学校の3〜4年生の50銭と言う大金は、そういっでも貰える小遣いではなかったのである。駄菓子屋に1〜2銭を持って行けば大きなアメ玉が何個か買えた事を思えば、50銭と言う金は私達のような少年には大金だったのである。そんな訳で、当時は付録がどっさり付いた少年倶楽部(クラブと読む)は50銭と高かったが、私は小遣いを貯めてはそれを買って読んでいた。当時の50銭は今の500円と違って大いに値打があった。私の少年時代はそんな時代だった。



鳥取駅から真っ直ぐ走っているのが本通り、更に若桜橋を渡って北に伸びているのが若桜街道である。現在は鳥取のメインストリートとなっているが、私が幼少の時には智頭街道が一番のメインストリートだった。鳥取市には昔から久松山を北に臨む3本の主要道路が存在する。西の方から鹿野街道、智頭街道、若桜街道となっているが、その昔、鹿野街道は市場通りとして栄え、智頭街道、若桜街道は商店が軒を連ねる商店街として栄えて釆た。丁度、私が幼少の頃は商店街は智頭街道全盛の時代だったように覚えている。
現在のように大型ショッピングセンターのない時代だったし、また乗用車の普及していない時代だったから、買物と言えば、智頭街道は大いに繁盛していたのである。鳥取市には昔から伝統的な大売り出しとして「誓文払」と言う大イベントが11月から12月にかけてあった。その売出しには、色々と特売品あったり、また各種の福引等がある事から大いに賑わっていたように覚えている。近郊の農家も、1年間の収穫代金が入った頃でもある事から、この時期には街に繰出して買物をしたのである。私が子供の頃には、母に連れられて商店街に出るのが楽しみだったが、母は私を連れて出る度に私の好きな物を買ってくれていたから、それが私のお目当てでもあった訳である。当時の賑わいは、とても今の若い人達には理解できない事だろうと思っている。

私の幼少の頃の市街地道路は今と違って歩道はなく、言うなれば、人間が歩く道と、たまに行き交う車(バス、トラック、公用車や医者の車、自転車、人力車、馬車、リヤカー、大八車等)が共用している道路だった。
そう言うものが1本の道路、それも、あまり広くない道路を共用していたのである。したがって、大売しのような商店街のイベントがある時は、大いに混雑したのである。自動車も今のようにスピードは出せない、人も車も同じ道路を使っていたのだから。それでも、何とか混乱なしに行けたのは、今と違って圧倒的に車が少なかったからである。鳥取の昭和10年代はそんな時代だったように覚えている。
昔は今のようなビニール袋とか立派な包装資材のなかった時代だったから、客は物を買ったら持参の手提げ袋に入れたり、または、大きな風呂敷に包んで持って帰った。誓文払ともなると、近郊から釆た農家の人達は大きな風呂敷包みを背中に背負ってバスや汽車に乗って家路を急いだ。当時は、「鳥取に買物に行く」と言えば楽しみだっただろうと思う。買物のついでに街で旨い物を食うのを楽しみにしていたと言う。この旨い物は鳥取には何でも揃っていた。小さな駄菓子から大きな菓子屋、街中至る所にあるうどん屋、ご飯のオカズや酒のつまみになる物を売る「つきだし足」もあったし、寿司屋から一杯飲み屋、カフェー、喫茶店もあった。

私が子供の頃にあった市内の映画館(俗に活動小屋と呼ばれていた)は、末廣通りの末廣座、川端通りにあった世界館、帝国館で、その外に瓦町にあった鳥取座と合わせて4館あったし、その外に芝居を上演するえびす座が寺町にあったし、同じく大黒座が今町にあった。昔は今と違ってテレビもビデオもなかった時代だったから、年寄りは芝居を見に、若い者は映画を見るのが楽しみであったので、盆や正月には何処の映画館や芝居小屋も満員だったと言う。農家の若い衆は、仕事休みの日には連れと一緒に鳥取の街に繰出し、カフェーに行っては女給さんと酒を飲んだりダンスを踊ったりしたし、特に金が有る連中は鳥取に何軒かあった料亭に上がって遊んだと言う。また助平方面が好きな輩は瓦町界隈にあった衆楽園(赤線)に行って女郎を抱いた。鳥取は、遊んだり飲み食いしたりの娯楽には事欠かない街だったようである。私らのような子供でも、市内の至る所にあった駄菓子屋で何でも旨い物を買う事ができたが、無いのは小遣いだけと言う、
そんな時代だったと言える。
鳥取市の台所を賄う食糧は鹿野街道の市場で扱っていたが、ここには毎朝近郊から集まる野菜類から魚介類、穀物、そして、ありとあらゆる食品の取引きで大いに賑わっていた。私も幼い時、母に連れられて何度か行った事があるが、道端に溢れるばかりの商品と、道路一杯の人で熱気に溢れていた事を今でも思い出し、古き良き時代を懐かしく思い出される。
鳥取駅から久松山を眺めながら駅前通りを200mほど歩くと交差点があり、その交差点を東に走っているのが末廣通りである。私がずっと幼かった頃には、この道は砂利道だった。末廣通りには旅館や髪結いが何軒かあったし、映画館が1軒、そして食堂、うどん屋から駄菓子屋と色々な商店が軒を連ねていた。その外にも、裏通りには飲み屋が何軒かあった事を覚えている。

その昔、鳥取は火事が多い街だった。特に末廣通りは火事の発生率が多かったように記憶にある。子供の頃、「すわっ、火事だ!」と言う時は何をさて置いても見物?に行った。今で言う野次馬である。当時は今のように耐火構造の家が少なかった時代だったから、一度火災が発生すると、必ず付近の家屋が類焼の憂き目に遭った。当時、末廣通りには鉄筋建てのビルが皆無だったと覚えている。何処の通りもそうだったが、鳥取は殆どの家が木造住宅の密集地であり道路も狭かった事から、一度火災が発生したら付近の住宅は類焼を免れなかったのである。当時、鳥取市に鉄筋コンクリートのビルが存在していたのかと言うと、それは僅かながら存在した。
現在、智頭街道の「わらべ館」が建っている場所に県立図書館があったし、駅前には山陰初のデパートとして丸由百貨店があった。また智頭街道には五臓円薬局(鉄筋3階建て)があったし、更に智頭橋たもとに丸丁百貨店(後に鳥取警察署、昭和27年の鳥取大火後に解体撤去)と、そんなものだったと記憶している。

さて、末廣通りの話に戻るが、この通りを東に真っ直ぐ行くと吉方・立川方面となり、更に岩倉方面へとなるが、その岩倉には、当時、陸軍の歩兵第40連隊があった。昭和の何年頃だったか、末廣通りは岩倉に至るまでコンクリート舗装され道幅も拡張された。その道を連隊の戦車が轟音を上げて行進する事があったし、時には兵隊さんが隊列を組んで行進した。私はそれを見ながら、その勇壮な姿に憧れていたものだった。私のような子供ばかりでなく、大人も勇ましいその勇姿に見とれていた。当時は、今と違って「兵隊さん」は国民の尊敬の的だったのである。
 鳥取駅から本通りを臭っ直ぐ歩いて行くと、やがて若桜橋に辿りつくが、その橋の手前を東西に伸びている通りがある。本通りを挟んで東側に延びているのが川外大工町(通称日進通り)であり、西側にある通りが瓦町新道(通称)である。その瓦町新道は本通りから斜めに瓦町ロータリーまで続いていた。その瓦町新道の中央付近にある我が家で私達兄弟姉妹は生まれた。我が家は、そこにいっ頃から住んでいたのかと言うと、何でも大正初期の時代からだと聞いている。この瓦町新道は、正式な町名は東品治町二区と言った。当時の鳥取市では、東品治町と言う町区はかなり広くて、一区から六区まであったと記憶している。例えば、一区は日進小学校付近だと聞いているし、本通りは三区であり、当時、棒鼻と言っていた町区は(今の駅南ジャスコ界隈)は六区となっていた。


当時、我が町内には西側に田中さん、東側に橋申さんと言う助産婦がいた。我が6人の兄弟姉妹は皆、この橋申さんに取り上げて貰ったと聞いた。我が町内には色々な業種の商店があり、ざっと思い出して見ても、おでんを売る店から材木屋、ガラス屋、旅館、一杯飲屋、洋服屋、米屋から、寿司屋、骨董屋、印判屋、自転車屋、さらに本屋、散髪屋、コーヒー足からカフェー、駄菓子屋、ミシン屋、そして豆腐屋から八百屋、ロータリーの近くには銭湯もあったし、うどん屋もあった。また、町内には医院が1軒あったし小さな料亭もあった。更に我が家の前には時計屋が1軒あったし、その外に、町内には大工さんから植木屋さんも居たと聞いた事がある。
特に変わったところで、○○と言うばくち打ちの親分が住んでいたと言うから、当時の我が町内は、真に特色ある通りだったと言える。
我が町内の北側には寺や墓地があって、子供の頃はよくそこで肝試しをやった。これも懐かしい思い出である。

町内には色々な店があったので一応の生活必需品は揃うのだが、それでもパン屋と菓子の専門店や酒屋、牛肉を売る店がなかったので、これは瓦町に買いに行ったが、鶏肉の専門店は我が町内に1軒あったので不自由はなかった。
そう言えば、我が家は「女髪結い」の看板を出していた髪結いの店であり、母と何人かの弟子が忙しく立ち働いていた。我が町内には他にも八木さんと言う店があったが、どちらも結構流行っていたのではないかと思っている。

忘れてはならないものに「薪炭屋」があるが、これも町内には1軒あって繁盛していた。私が子供の頃、鳥取市にはガス会社があって、一応はガス(今で言う市ガス)を供給していたのだが、当時の一般庶民の家庭では殆どの家庭が薪炭を使って煮炊きしていた。この事は、昭和18年9月10目午後5時30分、鳥取地方を襲った震度6の烈震によって、折悪しく夕食の支度時間帯だったため倒壊した家屋に竃や七厘の火が燃え移り、市街地の至る所で火災が発生した。その時に、我が家も町内の旅館から発生した火事で全焼した。そう言う事もあって、我が一家は大正時代から住んでいた瓦町新道から外の町区に移り住む事になるのだが、再びここに帰って来る事はなかった。この通りは昭和27年の鳥取大火後の都市計画によって消滅し、町名も残存しない。したがって、私が生まれた東品治二区154番地と言う町名は、遠い昔の思い出として私の脳裏にあるだけである。

さて、再び兵隊さんの話になるが、鳥取の歩兵第40連隊は日本でも有数の健脚部隊として知られていたと言う。それは何故かと言うと、兵隊さんたちは鳥取砂丘で訓練を重ねていたからだそうだ。重い背嚢を背負って、足にはゲートルを巻いて軍靴を履き、肩には、これまた重い歩兵銃を担いで行進する兵隊さんたちを見て、幼い私は何とも言えない高揚した気分になった事を思い出す。「万乗(ばんだ)の桜か襟の色、花は吉野に嵐吹く、大和男子(やまとおのこ)と生れなば、散兵線の花と散れ!」と、これは戦時中の『歩兵の本領』と言う軍歌だが、兵隊さんたちはこの行進曲を歌いながら行進していた。私達のような子供は、これを見て憧れと共に何か眩しいものでも見るように眺めていた事を、思い出すのである。今の若い人たちに、こんな話をしても通じない。戦争は悪には違いないが、当時は国を守る兵隊さんとして国民の敬愛を集めていたのだ。
私は昭和7年生れだが、前年の昭和6年には、すでに日本は満州で中国軍との戦閲を開始していた。(満州事変)

私がもの心つくようになった昭和12年には全面戦争に発展し(支那事変)抜き差しならぬ状態になっていたようだ。
思えばこの戦争の延長線上にアメリカ、イギリス、オランダとの大戦に発展して、やがて敗戦を迎える事になるのだが、こうして見ると、実に15年間と言うもの、日本はのべつ戦争をしていた事になる。
私が幼少の頓には、周囲の雰囲気として日本は戦争をしていると言う切羽っまった状態ではなかったように思っている。まあ、私が幼かったせいもぁるだろうが、それでも大人の問にそんな緊迫感はなかったと思っている。
今と違って、当時の日本には徴兵制度と言うものがあり、男子は20歳に到達すると必ず軍隊に引っ張られた。例外として特別に身体虚弱の者とか、肺病持ちのような者は免除されていたようだが、殆どの若者は兵として国に動員され、名誉ある兵隊さんになって行ったのである。その陰で、身体虚弱で兵隊になれなかった者には「非国民」と言うレッテルを貼られていたと言うから、その家の人達にとっては真に肩身の狭い思いをしていたと聞いた事がある。

当時はそんな時代だったから、もちろん志願兵の募集もしており、有為な若者の「兵隊志願」もあったのである。私が高等小学校の時代にも、陸軍では陸軍幼年学校生徒の勧誘に度々軍の係官が学校に釆ていたし、海軍も海軍飛行予科練習生の勧誘に釆ていた。 私は飛行機が好きだったから、当然の事として海軍の予科練に憧れていた。太平洋戦争の末期になると、「若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨・・」と歌われた、いわゆる『若鷲の歌』は巷に流行し、私達のような少年は、この歌を聞いていると「血湧き肉躍る」と言う高揚した気分になったものである。「15歳になったら予科練に行きたい」と父に言っていたが、父は決してそれを許さなかった。二人の息子を兵隊に取られ、その上にも、三男である私までも国に差出して、もし戦死でもされたら一家の跡を継ぐ者がいなくなると言う、そんな読みがあったと思うが、結果として父の読みは当たっていた。
男子は私一人が生き残って、現在こうやって昔の思い出話を書いている。人生とは何とも数奇なものと言わざるを得ない。あれほど憧れていた予科練も、たとえ父が許してくれていたとしても、その願いを果たす事ができなかったのである。昭和20年8月15日、日本が米英を含む連合国との戦いに負けた時、私は13歳だった。戦争が早く終結?したお陰で、私は生き残ったかも知れない。この事は、将来ある何千何方の前途有為な若者の命を救った事になる。日本は15年間戦争をして負け、やっと平和になった。以来56年間、日本は戦争をやっていない。



さて、話は前後するが、私が子供の頃には、日本は中国と戦争を始めてから連戦連勝だと聞かされていた。父も言っていたし、学校でも先生がそう言っていた。鳥取の街でも「何処そこを皇軍(天皇の軍隊、日本では軍隊の事をそう呼んでいた)が占領した」と言っては提灯行列や旗行列をやっていた。「祝、南京陥落」と言うような大峨も登場していたから、国民は兵隊さんの大活躍に大いに上せていたと言う事だ。この光景は私にも記憶がある。今にして思えば、「勝った勝った」で喜んでいた愚かな日本人の陰で、中国では日本軍のために多くの兵士や民間人が殺教されていたのだから、何ともおぞましい限りではあるが、ともあれ当時の日本が侵略戦争をやっているなんて事は誰も思っていなかったし、口にも出さなかったようだ。
厳しい情報管制の下、私連日本人は知らせて貰えなかったと言う事だろう。
私達国民にある思いは、「日本は強いなあ」と、その程度の感慨しかなく、弱者に対する思い遣りがあったのだろうか。今になって、そう言う思いがする。また、我が町内の東側に立派な国旗掲揚台があった事を思い出す。今と違って当時は国旗(日章旗、日の丸とも言った)は国家の象徴として神聖なものであり、これを粗末にする者は悪名高い特高警察や憲兵(いずれも治安維持を取締まる役目をした。特高警察は民間人等を取締まったし、憲兵は軍人や民間人も取締まった。国策に反対し言動をした者を積極的に逮捕拘禁した組織)に引っ張られると聞いた事があった。
私が小学校に入学したのは昭和13年である。当時は今のように満年齢でなく数え年だったから、当時で7歳、今で言う6歳と言う事になる。私が入学したのは川外大工町を真っ直ぐ東に行った通りにあった。その学校は日進尋常小学校と言った。この小学校の正式名称もアメリカとの戦争に入ってから日進国民学校と改称され、終戦になってから日進小学校と改められた。小学校の名称にもこのような歴史が存在した。1年生になって嬉しかった。親から買って貰った新しいランドセルや帽子、新しい夏冬の制服、何もかも新しい「新1年生」は夢を膨らませて学校に通っていた。町内の上級生に引率されて学校に通った。新しいズック靴を履いて通っていたが、校内に入るとその靴を脱ぎ裸足になった。校内では靴の着用は許されていなかったからである。これは男女の差別はなく皆同じように扱われていた。
私達小学生は冬も夏も素足のままで過ごしていたのである。今では信じられないような事だが、当時は「子供は風の子、軟弱になってはいけない」と言う精神と言うか規則があったのか、とにかく私達小学生は、低学年の時からそのように厳しくされたのである。
当時は今と違って義務教育は無料と言う事はなかった。教科書の無料配布はもちろん無かったし、鉛筆から帳面と一切の「学習に必要な物」の入費は親の負担であり、また、現今のような給食は一切なかった。当時、親が学校に払った金が幾らか覚えていないが、制服や帽子と言ったものから、教科書や参考書、そして鉛筆から帳面や消しゴム類、更にズック靴まで合計したら、かなりの金額になるだろうと思ったものだ。恐らく当時の金額にして5円は下るまいと思った。昭和13年の5円である。当時の5円は値打ちがあった。表紙が布で装丁された立派な単行本が1円で買えた時代である。 

金の事でちょっと思い出すが、昭和18年の鳥取大震災の時、普通の2階建ての家が千五百円で買えると言われた。恐らく中古の家だと思うが、それでも当時の千五百円は値打ちがあったように思う。私の記憶にあるのに米一升30銭がある。鳥取の地震まではその値段で買えた米が地震によって高騰したと母がこぼしていた事を思い出した。
ちなみに、私が学校に毎月持って行った学級費の金額が15銭から20銭ぐらいだったと記憶しているから(3年生の頃)、当時の金にして5円は大金だった訳である。そう言えば、私が小学校の時に50銭や1円と言う大金を小遣いとして貰った記憶はない。それぐらい当時は円と言うお金は威力があった事になる。

当時の日進小学校には、正門を入って直ぐ右に天皇陛下の御真影を収めていた独立した建物があった。私達小学生はそこを通る時には必ずその建物に向かってお辞儀(礼)をして通った。そのように厳しく教えられていたのである。したがって、それを励行せずに通り過ぎる児童は必ず先生に叱られる事になる。「天皇陛下のお写真を収めてある建物は神聖であり、それに対してお辞儀をして通るのは小国民(私達の事)の義務である」と先生は言っていた。先生は登下校の時の私達の動作を細かく監視していた。
当時、小学校での儀式(各祝祭日及び学校の創立記念日)では、我が学校の校長先生は、必ず御真影の建物から一巻の巻物を取り出して、それを、恭しく三方の上に乗せて儀式の行われる講堂(今の体育館)に持参して、これまた壇上で恭しく朗読した。私達はそれを礼をしながら聞いていた。
校長先生が読み上げていたのは、その昔、明治天皇が発布された教育勅語だった。教育勅語とは、広く国民一般の道徳と言うか、大日本帝国の天皇の臣民として守る事と言うか、国民統合の規範となる「天皇の教え」とも言うべきものだった。勅語とは、天皇の「こうしなさい」と言われる言葉のようなものと今の私は解している。この勅語には人として為すべき規範となるものが全て盛り込まれており、これを天皇が臣民に諭すものと言われている。私達小学生は、意味も分からぬままに暗唱させられたが、この勅語と言う代物は天皇家に伝わる苦言葉で語られているため、難しい文体となっていた。「朕惟うに、我が皇祖皇宗国を撃っる事広遠に・・・」で始まるこの勅語は、小学生の私には、何が何やら分からぬものだったが、ただ、先生の説明に成程と思う程度だった。私達のような小学生にとって、こんなものはどうでもよかったが、先生の言われるままに丸暗記していた。

教育勅語に関連した事を、もう少し書いて見たい。当時、日本では学校で児童・生徒に皇民教育と言う天皇中一心主義の教育を施していた。その中心となるものは、大日本帝国は天皇が興したものであり、国の隅々まで天皇が統治すべきものであるとされた。したがって、天皇に従う全ての臣民は天皇に忠節を早くさなければならないものとされた。だから、教育勅語の冒頭で「私の祖先は、国を興してこれを統治して釆た」と、書いてある。

そして、この勅語には「天皇に忠節を尽くせ。親に孝養を早くせ。兄弟は仲良くせよ。夫婦は仲良くせよ。朋友とは仲良くせよ。そして社会の模範たる行いをせよ」と書き連ね、更には、人の物を盗むなとか嘘をついてはいけないとか、目上の人には敬意を払えとか、その他にも色々と社会規範となるべき道徳的概念を説いているが、最後は次のような事が書いてある。
「国に一旦危急ある場合は、国民は身命を投げ打って国を守れ」とある。
教育勅語の神髄は実にこのくだりにあるのである。つまり「平時に於いては行い正しく礼節を重んじ、道徳を守って仲良く暮らせよ。しかし、国に存亡の危機が訪れた時(戦争等)には、国民は身を挺して天皇の国を守れ」と、説いているのである。

この事について思い出したが、前首相の森が「日本国の道徳観は荒廃している。教育勅語のようなものを教育の指針とする事も一つの方法である」と、このような事を言って物議を醸し、「今になって皇民教育を復活させようとする反動姿勢は絶対に許せない」と猛反発を食った事がある。また、「日本は神の国である」とも言って国民を呆れさせた。確かに、昔から我が国は天皇(神の子孫と称されている)が統治して釆た国であると同時に、天皇がその先祖の神を祭祀して釆た国であり、まさしく、臣民も日本の神を崇敬して釆た神道の国であった事は確かな事なのである。この意味では、確かに神の国であろう。しかし、一方では仏教の伝来に併せて国民の問に仏教も広まっており、我が日本国民は神道と仏教の共存している国に住んでいる国民、そう言っても過言ではないのである。
しかし、現今では国民の信教の自由は認められておるから、何を信じようと自由である。昔のように、天皇が命令を下す時代ではないのである。そう言う?事があるのに、森はあたかも皇民教育が復活するかのような発言(できる訳がない)をしたから、国民の猛反発を食ったのである。確かに、現今では国民の道徳観念、特に若い人達の道徳観念が皆無(そうでもない)に等しいと言われているが、そのために遥か昔の教育勅語を引張り出して学校で教えるとは、言語道断な事ではないか。

森は敬けんな神道崇敬者であり、各種の神道団体に所属していると新聞か何かで読んだ事がある。しかし、一国の首相たる者の発言としては適切ではなかった。余りにも偏った思想だとして反響が大きいからである。あの発言が、単なる政治家としての発言なら問逝がなかった(そうでもないが)かも知れんが、これは、総理大臣たる者の発言としては不適切と言わざるを得ないのである。
「日本人は確固たる信念を持って信仰していない」と、外国人の目に映る理由とは?・・・・彼等に言わせればそうかも知れない。考えて見ても、新年になったら神社に初詣でに行くし、子供が生まれたと言っては神社でお稼いをして貰い、また、七五三でも神社にお参りに行く。結婚式は神前結婚が圧倒的に多いし、年齢の節々に行う厄除の祈祷も神社でやって貰う。
それから、靖国神社や各地にある護国神社のような戦死者を祭祀する神社もあり、また、全国各地に存在する色々な神を祀った神社も数え切れないほどある。日本は、まさに「神の国」なのである。
その反面はと言うと、日本では、人が亡くなった時、殆どの家庭がお寺の世話になる。つまり葬式の殆どは仏式と言う事になる。例外として神道とかキリスト教の葬式もあるにはあるが、それらは少数派である。死者を弔うセレモニーは殆ど仏式だと言っても過言ではない。何回忌と言う法要も必ずと言っていいほど仏式で行うのが日本人である。外国人の目で見て、何か奇異に感じるのは無理からぬ事だろう。
先生は「日本は万世一系の天皇陛下を戴く神国である」と教えた。私達は、日本は世界一の国であると教えられて釆たし、そこに住む日本人は世界に比類なき優秀な民族だと教えられて釆た。当時の教科書の中に「修身」と言う科目があったが、これは字を読んで分かるように「身を修める事」、すなわち日本人として最低限のモラルと言うか、いわゆる日本国民としての誇りと道徳を教える教科書だった。
この中にあるものは、およそ教育勅語の範疇にあるものを網羅したものだったが、勅語と違うところは、実在の人物を挙げて教えている事だった。
貧乏な家に生まれた子が苦学して立派な学者になった話や、親孝行をした息子が領主に褒められた話とか、同じく、貧乏でその日の糧にも困る家庭の子が、苦学して世界的な医学者になった話とか、それぞれに実在の偉人の例を挙げてあったが、先生はそれを噛み砕いては私達に分かりやすく教えていた。

また、先生は「家にあっては両親が親であるが、私連日本人にとっては天皇陛下が親となられるのだ。だから私達は天皇陛下に忠義を早くさなければならない。一番に天皇陛下、二番がお前達のご両親だ」とも教えていた。
戦前、日本は世界一礼節を尊ぶ国だと言われた。外国人が日本に釆てから先ず目にするのは、日本人の礼儀正しさだったと言う。これは、戦前戦中を通じての日本に於ける修身教育の賜と見るべきか、はたまた日本の皇民教育の為せる業かは知らないが、戦前の日本人は礼儀正しい国民であった事は確かだろう。私達は「天皇陛下は世界平和を心から願って居られる心優しいお方である。日本一億の民はもとより、世界中の人民が平和で心安らかに暮らせる世界、それを常に祈って居られる尊いお方である」とも教えられて釆た。
私達は、難しい事は分からぬまでも「僕達は日本人だ。神の国日本に生まれた世界に誇る民族なのだ!」と、目を輝かせて先生の言う事を聞いていた事を思い出す。
世界に誇る「礼儀正しき日本人」が、中国では何をやっていたのだろう。戦時中、厳しい報道管制の下で、日本にとって不利な事は一切公表されなかったが、日本は「満蒙(満州と蒙古、今の中国東北部と内モンゴル)は日本の生命線である」とのスローガンの下で中国に進攻し、他国の領土を侵略して多くの人民を殺教していたのである。もちろん、そのためには多くの日本軍人も戦死している。世界平和を祈る「天皇の軍隊」が悪の限りを尽くしていたとは。戦後になってこの事実が判明、多くの日本人は愕然としたのである。
「支那(中国)との戦争は正しい聖戦である」と言っていた戦争は、正に不正義極まる戦争だった事が分かった。これは、戦後間もなく開始された「極東国際軍事法廷」(戦争犯罪を裁く法廷、勝者が敗者を裁く裁判とも言われた)で明らかにされ、世界の目は一斉に日本に向けられた。あの、悪逆非道のヒトラーと並んで、東条英横率いる当時の戦争遂行に関与した者は、この裁判で裁かれた。その結果、世界から糾弾されたのである。
ここに釆て日本人の価値観は一挙に崩壊した。聖戦を信じて戦い、死んで行った兵隊や多くの民間人。また「日本は神の国だから絶対に負けない」と日本の不敗を信じていた人々。これらの多くの日本人は、今までの心の中に頼るものを失ってっ呆然とした。信じるものが無くなったからである。
だからこそ、終戦直後の世情は混乱したし、心の放浪を続けたと言えるかも知れない。
日本人はあるべきものを失い私達が少年時代に学習した日本人の価値観は脆くも崩壊した。平和を希求される天皇陛下の世(戦時中)にあって、果たして天皇陛下に軍部の暴走を止める事ができなかったのだろうか。
できなかったのである。
絶対的な権力を持つと言われた天皇も、国を正しい道に導く力がなかったと言う事になる。この事は、書けば書くほどキリがないが、歴史を紐解けば分かる事だ。一口に言って、私の幼少時代は、常に戦争と向かい合っていた時代だと、そう言えるのである。


少々難しい事を書いたが、再び私の小学校時代の話に戻る。日本が米英薗と戦争に突入したのが太平洋戦争だが、これが昭和16年12月8日だ。西暦にして1941年の事だ。当時、私は4年生だったが、日本が敢行した真珠湾攻撃の戦果を聞いた時は大喜びしたものだった。私のような子供には、これから日本国民が苦難の道を歩むようになるとは、もちろん分かる事はなかったし、また、日本が今まで戦った相手で一番の強敵だと言う事も分かっていなかった。当時の大人の間でも「アメリカ何するものぞ」と、誰もが思っていたのではないかと思う。
日本が太平洋で米英と戦争をするようになってから、私達の授業にも何か緊迫したものが感じられるようになっていた。私達は相変わらず夏冬を問わず校内では裸足だった。夏はいいが冬はつらい。「先生寒いです」なんて言おうものなら、「何を弱気な事を言うか、寒ければ校庭を走って来い」と、どやされたものだった。
また、「お前達は寒いなんて言っているが、戦地に居られる兵隊さんは、もっとつらい目をして居られるんだぞ。それを思ったら贅沢を言ってはいかん」と言われたものだった。先生は普段優しい人だったが、時節柄、時折厳しい事を言う時があった。戦時下にあっては、将来を背負って立っ小国民を軟弱にしてはならないと言う、そんな気持ちがあった事と思う。
昔は、今と違って何処の学校の校舎も木造の建物だったから、私達は掃除の時は「小妨主が寺の拭き掃除をする」ように雑巾がけをやっていたが、冬の寒い時は本当に難行だった事を思い出す。学校では、氷点下にならないと雑巾がけ用の湯の支給がなかった。もちろん教室の中の暖を取る火鉢(当時は今のような石油ストーブは無かった)も出なかった。手が凍るような冷水で雑巾を絞り、板敷の廊下や教室の床を拭いていたが、これがつらかった。ようやく「給湯OK」が出た時は嬉しかった。その時には教室にも大きな炭火の火鉢も出る事になっているからだ。昔は今で言う給食は無かったから、持参した弁当箱(昔はプラスチックは無かったからアルミかアルマイトの弁当箱)を火鉢の縁に置いて暖めていたものだった。
私の記憶では、太平洋戦争が始まるまでは未だ生活物資に余裕があったと思っている。菓子屋には菓子があったし、パン屋にはパンがあった。米屋は未だ営業していて米の小売りをしていたし、その他に麦とか大豆も売っていた。アメリカとの戦争が始まる前から日本は本格的な経済封鎖に遭い、工業製品から重工業に必要な石油から金属類と、また、外国から輸入していた食料や嗜好品類は一切入らなくなってしまった。
嗜好品では、例えばコーヒー、紅茶から高級タバコ葉などもそうだが、その他にも香辛料等がある。
そんなものは無くても生きられるのが我々日本人なのだが、深刻な事態になるのが国の工業生産に必要な石油とか鉄、その他の金属類だろう。
第一、石油が無くては戦車も動かないし飛行機も飛ばない。世界第3位を誇る帝国海軍の軍艦も動かない。アメリカから石油や屑鉄を分けて貰って軍艦や戦車を造っていた日本がアメリカと戦争をする。これはおかしいではないか、と今になって思うのだが、当時は庶民の間にそんな事を言う者はいなかったようだ。いや、言いたくても言えなかった。国策に反対する者は、非国民とか売国奴だと言われるからだ。

戦争が始まった頃はまだ良かった。日本が勝っていた頃は、占領した東南アジアや中国から、砂糖や米や雑穀、果物や香辛料、日本にとって一番欲しい物の石油や鉄鉱石も日本に運んでいたが、昭和17年になってから、いわゆるミッドウエー海戦でまさかの敗戦を被ってから、日本はジリジリと敗退を重ねて行くのである。アメリカの潜水艦の出没により、海上輸送もままならぬ(撃沈される)ようになり、いよいよ日本はジリ貧状態となって行ったのである。やがて食糧は配給制度になり、日本は本格的な統制経済へと突っ走って行く訳だが、何しろ、50数年前の事とて私の記憶もあまり正確ではないかも知れないが、思うがままに書くとしたら、厳しい統制経済下の本格的配給制度となったのは、恐らく、敗色濃くなってからの昭和19年になってからだと認識している。農村での働き手は殆ど兵隊や徴用に取られ、やがて農家の働き手は年老いた老人と女子供だけと言う事になり、日本に於ける農業生産は激減したのである。
日本で収穫される米は、先ず軍需用として優先的に配分され、後は民間の配給用として振り分けられていたと聞いた事がある。私が小学校の4年生ぐらいまでは、それでも店に行けば何でも有ったが、アメリカとの戦争に負け出した途端に、極端に物が不足し出したのである。「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは!」と言う標語が流行し始めたのも、この頃だったと思っている。パーマネント自粛の運動も始まっていたようだ。
当時、横文字言葉は排斥される傾向にあったから、美容店のパーマネントウエーヴの事を電髪と言っていたが、この電髪もやがて排斥される羽目になる。当時流行した歌である。「パーマネントは止めましょう、見る見るうちに禿げ頑、禿げた頑に毛が三本‥」と、こんな歌が流行ったが、これなんかは、いかにもアメリか惜しで、全ての横文字の言い方は敵性語だと言っていた軍部(特に陸軍、海軍はそうでない)の狭い了見が、国の行末を誤らせたと思えば残念でならない。

物を売っている店は全て無くなり、米はもちろん砂糖も塩も雑穀からイモから酒、マッチまで配給制となり、何とも暮らし辛い世の中になって釆た。
それでも、私連日本人は「日本が勝てば必ず良くなる」と思って辛抱した。私達が通学するのに履いていたズック靴も姿を消した。ゴムは貴重な戦略物資であり、自動車や飛行機の車輪に使われると言った具合で、仕方なく、私達は草履や下駄を履いて学校に通っていた。学用品も例外ではなかった。
消しゴムは貴重品となったし、ノートも不足するようになっていた。有るとしても粗末なザラ紙のような物が出回り、この傾向は終戦直後まで続いた。皮革製品(靴、鞄、ベルト外)も街の店屋から姿を消した。兵隊さんが使うベルトや手袋、そして編上靴や短靴として軍に徴発されるため、私達のような民間人には回らなくなったと聞いた。小学校も高学年になると、着ていた服が小さくなる。新しい服を新調するにも、服は何処にも売っていない。外地から綿花とか、そう言う物が入って釆ないから糸ができない。糸が無ければ紡績業は成り立たないが、これも恐らく軍需優先だったと思っている。
何もかも不足していたと言うか全く物の無い時代で、私達のような食盛りの少年はひもじい日を送っていたが、そんな中でも、母はよくやり繰りをして私に弁当を持たせてくれていた。戦時下の事であり米は厳重な配給制だったが、もちろん、配給だけで食生活を賄える訳がない。郡部に買出に行っては闇値の米を買っていたようだ。10歳や12歳の頃は食盛りの頃である。とにかく腹が減った。食える物は何でも口に入れた。当時の弁当はと言えば、今のような幕の内弁当のような物ではない。白いご飯はとんでもない話で、麦半分米半分と言った物から、時には満州大豆を大量に入れて炊いたご飯の時もあった。この満州大豆と言う代物、内地産大豆に比べて粒は小さいし煮えも悪いのでゴツゴツしていた。しかし、こんなご飯でも当時はご馳走だった。

オカズは煮干を飴炊きにしたような物から、時には梅干1個という具合だったが、とにかく、何でも腹の足しになれば良かった。人間という者は、ひもじくなれば何でも食えるものである。そう言う事だから、寝ている時には食物の夢をよく見た。亀井堂のアンパンを頼ばっている夢から、白い飯を腹一杯食っている夢とか、時には湯気の立っているすき焼をフウフウ言いながら食っている夢を見た。「ああ、チョコレートやキャラメルが食いたいなあ」と、いっも頭の中には食物願望があった事を思い出す。

戦争も勝っているのか負けているのか分からなかった。軍部が本当の事を知らせないからである。「日本は確実に負けているな」と国民が確信し出
したのは、昭和も20年になって、敵のB29や艦載機が頻繁に本土空襲に来るようになってからである。国民が、物不足がいっまでも続くので、「日本は負けているな」と、思うようになったとしても不思議ではない。切迫した戦争末期はそんな時代だったと言える。食糧不足の折から、町内の空地でカボチャやサツマイモの栽培をして飢えを凌いだ。現在の千代川河川敷のスポーツ広場、あそこは、戦時中にサツマイモの栽培をしていた(各小学校校区別)報国農場だった。給食の無かった私達にとって、年に一度の「学校給食」と言えるものだった。
昭和20年になって、私は高等小学校の2年生になった。当時の高等小学校は久松山の麓の久松小学校の敷地内にあった。お壕に架かっている橋を渡れば、そこに鳥取一中(今の西高)があった。当時、家庭の事情で中学校に進学できない者や、出来の悪い者が市内の各小学校を卒業してここに通学していた。私も「出来の悪い者」の仲間の一人として通学していた。

昭和19年に、いわゆる学徒動員令と言うものが発令され、学窓で学んでいた大学生や専門学校生は、「最早や学校にいて勉強している時ではない」と、軍人として戦地に躯り出されていた。昭和19年ともなると戦局は益々逼迫しており、「一人でも多くの兵隊を戦地へ!」と、そんな時局となっていた。この戦争で、前途有為な青年達が多く戦死した事は史実が証明している。特攻隊とか、その他に多数の学生軍人が死んだ。
「この戦争は一体何だったんだ!」と、今でもその感慨を拭い去る事はできない。

さて、当時は緊迫した戦時下であり、私達のような学校でも例外ではなく、普通の勉強に併せて軍事教練もどきをやらされる事もあった。学校には、木銃と言って実物大の歩兵銃を真似た木製銃が置いてあった。これが軍事教練もどきで使われた。また、学校の正門側には軍隊の衛門と同じように歩哨所が設けられ、2年生男子が交替で歩哨勤務に付いていた。その当番になった者は誰よりも早く学校に行き、そこに立っていた。カーキー色の戦闘帽をかぶって顎ひもを締め、木銃を右手に支えて直立不動の姿勢で立っていた。生徒・児童は、歩哨の前を通る時には帽子を取って一礼するのるのが慣わしとなっていたが、校長先生や一般の先生が通る時は「捧げ銃」(ささげつつ)をして迎える事になっていた。これは下校する時も同じで、この歩哨勤務をする事によって、身が引き締まる思いをした事を思い出す。

昭和20年になると、日本各地は敵の空襲にさらされる事になった。前年の19年に、アメリカが開発した超大型爆撃機B29が中国から発進して北九州を襲っていたから、やがて日本本土は故に揉潤される事は分かっていた。日本は、相次ぐ敗戦の末に南洋諸島の拠点を失っていたから、やがてそこはB29の発進基地となって行った。そして日本本土は、敵のB29によって重要施設は片端から破壊され、大都市はもとより、中小の都市も目標とされるようになった。また空母から発進した艦載機が各地の空に出没するようになり、日本本土に大きな被害を与えるようになった。

この年の3月、B29の大編隊による東京空襲が敢行され、東京は火の海と化し、延ベ10万人以上が死んだ。アメリカは、卑怯にも、日本の一般住宅の大半が木造住宅である事に目をつけ、通常爆弾の代わりに膨大な数の焼夷弾を東京に散ら撒いたのである。これによって東京は火の海となり、多数の非戦闘員が焼死したのである。日本の空は、アメリカの飛行機が好きなように飛べる空となった。少数の日本戦闘機が舞い上がってアメリカ磯を撃墜しても、それは焼石に水のようなものであり、続々と来襲する敵の飛行機に日本は抗しきれなくなって行った。資源を持たない国が持てる国に挑戦した戦いは、初めから勝負は分かっていたかも知れないが、ただ、国を信じて戦った兵隊や銃後の国民には、何とも惨い事になった。結果、8月6日の広島、9日の長崎と、アメリカの原爆投下によって日本は降伏した。


さて、話は戻るが、私が高小2年生になってから、学校は何となく騒然となって釆た。ついに私達2年生にも「勤労動員令」が下ったのである。
切羽つまった時期で「勉強はもういいから工場で働け」と言う事になった訳だ。私達高小2年生は、県庁、市役所、郵便局、信用組合、国鉄とか、更に市内各所にあった軍需工場でお国のために働く事になったのである。

現在のリッチランド(ポウリング・スケート場)付近に、昔は鳥取家具と言う工場があった。戦時中になって、そこは鳥取航空と言う軍需工場になった。そこで飛行機のどの部分を作るのか知らなかったが、そこに、私と友人の遠藤君が派遣された。そこには鳥取一中から同じく派遣された2、3年生も居たが、その他にも何人かの女学生が釆ていた。そこでは、始業開始ともなると何十台かの木工用の旋盤が唸り、さながらに戦場のような様相を示していた。工員達の目は血走っており、何が何でも生産目標を達成するんだと言う気迫が破っていたように思っている。
そこで、私と遠藤君は最も過酷な持場とされるボイラー室に配属された。工場内で毎日出る膨大な削り屑を回収してボイラーの燃料にするのが私達の仕事だったが、その削り屑を回収するのにモタモタしていると、工員達は遠慮なくどやしつけた。当初は慣れぬ事もあって、毎日叱られに行っているようなものだった。二人は、それでも歯を食いしばって頑張った。
外は春の陽気でのどかだと言うのに、工場内はまるで戦場だった。私達は汗を流しながら上半身裸で働く事もあった。汗が出るから喉が乾く。毎日のように汗をかいては水をがぶ飲みしていた。


私達がボイラー助手として働いていた部署に、60歳になろうかと思われるような小父さんがいた。彼はボイラー係としてそこの責任者だった。
彼は優しく私達に接してくれるので、私達は大助かりだった。毎日汗だくで働く私達を見て、「まあ少しは休め」と言って特配に貰った米をボイラー室で炒ってくれ、それを私達に食わせてくれていた。食い盛りの私達にとって、塩を混ぜて炒った米はこの上もないご馳走で、私達は貪るように食べていた。また、その小父さんは「君達は汗をかいては水をがぶ飲みしているようだが、それでは体からどんどん塩分が逃げて行く。これを嘗めるがいい」と、皿に入れた塩を嘗めるように勧めていた。確かに、私達は毎日汗を振り撒きながら労働をしている。腰にぶら下げた手拭いが汗で濡れるぐらいだから、汗と共に体から塩分が出て行く。となると塩分の補給が必要となる。私達は「さすがだなあ、あの小父さんは」と感心していた。
小父さんは仕事には厳しい面もある人だったが、本来は優しい人だったと思っている。休憩時間ともなると戦争の話から一般の世間話に至るまで、話題には欠かない面白い小父さんだったと思っている。小父さんはこうも言っていた。
「普通なら君達は学校で勉強やっとればいいんだが、毎日このように追い使われて可愛相だが、これも今の状況では仕方がない。しかし体には十分に気をつけてくれよ。君達は日本の将来を背負って立っ小国民だからな。
まあ頑張ってくれよ。こんな事を言っては何だが、日本はやがて負けるだろう。日本国中あちこちでアメリカの飛行機が飛び回って日本を灰にしている。大本営がどう言おうと大方の日本人は「この戦争は負けだ」と思っているだろう。あと半年ぐらいかも知れんなあ。これはここだけの話だぞ。
お父さんやお母さんに言うなよ」と言っていたが、この小父さんの言う事は本当かも知れないと思った。そうなれば「俺達は何のためにこんな事をやるんかなあ」と、遠藤君と話した革もあった。


当時、鳥取航空で何を造っていたのか?どうやら木製飛行機の胴体の一部のようなものを造っていると言う話だった。当時、私は飛行機マニアの端くれの一人であり、木製の飛行機なんて代物は、かなり高度な精度を要求されるものであり、強力なエンジンでも装着せぬ限り、優秀な敵戦闘機のグラマンやノースアメリカンに対抗できる筈もなく、「こんな物を造って何になるんだ」と言う気持もあったが、もちろん口に出して言えるものではなかった。もう一つ噂で聞いた話だが、木製部品は確かに飛行機の一部分になると言う。しかしそれは飛ぶ飛行機ではなく、実物の飛行機を守るための囲の飛行機、つまり模擬飛行機と言うやつだ。そういう物になると聞いた。なるほど、そうなれば敵機が上空から見て「ジャップの飛行機だ」と見えればいい訳で、これなら信愚性があるわいと思ったものだった。
私は、この工場での作業工程の一部しか見ていないが、機械で板を削りそれを何枚か接着剤で貼付けて、「ムロ」と言う乾燥部屋に入れて乾かし、それを帯鋸で円形に切って旋盤に固定し、規定通りのサイズに削って行く。またフローリングされた薄い板を熱を加えて曲げ、それを接着剤で貼付けてムロで乾かし、それを更に加工して行くと言う具合で、どうやらこれは偽飛行機造りの方が当たっているようだ、と思った事がある。
当時、鳥取に於ける飛行機工場と言えば、私が通勤している鳥取航空と、賀露方面に日産航空があったし、現在は駐車場になっている、旧市民病院があった所に川崎航空があった。これは、私が当時知る限りの事であり、外にもあったかも知れない。もちろん、その他にも町の鉄工所が軍需工場として稼働していたと思うが、詳しい事は分からない。

5月になって、誰言うともなしに「ドイツが負けたらしい」と言う噂が広まった。三国同盟で知られるドイツ、イタリアは日本の友邦だったが、それぐらいの事は学校で習っていたし、外の誰でも知っていた事だった。
連合軍の猛攻の前に、すでにイタリアは降伏しているらしいと噂で聞いていたが、もちろん、当時の新聞・ラジオはそんな事を報道する訳もなく、私達国民は、毎日毎日「敵爆撃機何機撃墜」とか「敵空母や戦艦何隻撃沈」と言った、およそ景気のいいバカ気た報道を耳や目にしていた。もちろん、嘘っぱちもいいところで、その頃は日本はポロポロに負けていたと、後になって知らされるのである。

「今になって、こんな事を誰が信じるか」と父も笑っていたが、もちろん外に向かって言える話ではなかった。
 私が鳥取航空に通勤して貰った月給は30円だったと記憶している。
鳥取は、昭和18年の震災以降は物不足もあって物価はかなり上がっていたようだ。私が小学校の低中学年の頃に、銭と言う単位の通貨を使っていたが、当時はもちろん、そんな小銭で買えるアメ玉やキャラメルもある訳もなく、うどん屋や飯屋もなかったから、子供一心にも昔の単位通貨が使える(実際には使える)なんて思っていなかったが、この月給30円也は確かに私の記憶にある事である。



戦争が終わって昭和21年の事だと思っているが、私の所に返って釆た金が50円少しあった事を確かに覚えているから、昭和20年前後にはすでに流通する通貨の単位が円で動いていた事は確かだろう。
さて、当時、30円の月給の内訳として、差し引かれるものに軍事国債が10円、その他に学校に収める金とか色々なものを引かれて、家に持って帰るのが10円少しだったと記憶にある。10円也の大金?を持って帰ると母は喜んでくれたが、もっと喜んでくれたものに米の特配があった。
当時、勤労動員学生だった私達には普通の配給米とは別に1目5勺(1合の半分)の米が特配として支給されていた。母はこれを何よりも喜んでくれていた。食糧不足の折から、1升5合近く(今の約2kg)の米は貴重なものだ。母は「勇治が1か月働いて得た米と金だ」と言って、押し頂いて受け取っていた事を思い出す。その母も今は居ないが、改めてあの頃の情景を思い出しては懐かしく思う。

その後、日本は連合国に無条件降伏したのが8月15日。私の勤労動員生活は僅か4か月足らずだったが、貴重な経験をさせて貰ったと思っている。
私の少年時代を事細かく書けばキリがないので、これでジ・エンドにする。終戦直後の事は別に詳しく記しているので省略する。この戦争で広島の伯父と従弟は原爆で亡くなり、長兄は内地で戦死し、次兄は満州から消息を絶った。後にシベリアに抑留されていた事が判明し、22年頃に復員して家庭を持った後、病死した。やはり、極寒の地での作業が体に障ったかも知れない。かくして、我が岡嶋家の男子は私一人となったが、はからずも今年70歳になるまで生かして頂き、改めて昭和は遠くなりにけりと言う事を実感している。私の少年時代は戦争に明け暮れた動乱の時代だったが、これも私の運命だと思っているし、この動乱で亡くなった私の見や親戚の人達、さらに亡くなられた彼我の軍人や民間人の方々に改めて哀悼の意を捧げ、ご冥福をお祈りする所以である。

2002/2/12 Yuji Okajima


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