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コラム11.ダービー窯「芸術家」列伝


 ダービー窯は、その長い歴史の中で、幾人もの優秀な職人を輩出しました。彼らの中には、仕事上の名声だけでなく、生活ぶりや、ときには「芸術家」にありがちな奇行やスキャンダルで名を残す人もいました。彼らの作品については作品紹介のページでご覧いただけますが、ここでは彼らの個性的な逸話をいくつかご紹介しましょう。


(1)四天王

 ダービー窯の「黄金期」を築いた、私が個人的に「四天王」と呼んでいる絵付師たちです。風景画のボアマン、花絵のビリングズレイ、人物画のバンフォード、そして鳥・果物絵のコンプリンです。この四人が同時にダービー窯で働いたのは1791-94年という短期間ですが、この間は、まさにダービーの絶頂期、他窯の追随を許さない高水準の作品を次々と世に送り出した時期です。


@ザカライア・ボアマン(Zachariah Boreman) 1738年生まれ。ダービー在籍:1783-94年
 チェルシー窯出身の風景絵付師で、それまでのダービーにはなかった「風景画」という分野を確立し、ダービー黄金期の先駆けとなった大功労者です。彼はダービー窯に来た時点で既に40代半ばというベテランでしたが、さらに人格的にも優れ、名実ともに絵付師たちのリーダーでした。

 特に、20歳年下のビリングズレイとは気が合ったようで、彼に「自然を写しとる」ことの重要性を教えたと言われています。ボアマンとの交流が始まって以降、ビリングズレイは急速に絵付けの腕を上げており、ボアマンは「風景画の父」であると同時に「花絵の母」でもあったのかもしれません。また、磁器焼成技術をビリングズレイに伝授して彼の起業家精神に火をつけたのもボアマンだったとされています。

 そんな彼でも、やはり金の切れ目は何とやらだったようです。ダービー窯きっての「高給取り」で他の職人たちからは羨望の的だったにも関わらず、最後は「この賃金でこれ以上描くことはできない」と言い放ち、四天王の先陣を切ってダービーを後にしました。

関連作品:ダービー「D2-14」ダービ「D2-19」ダービー「D2-20」ダービー「D3-12」


Aウィリアム・ビリングズレイ(William Billingsley) 1758年生まれ。ダービー在籍:1774-95年
 英国磁器界きってのカリスマ花絵師です。四天王の中で唯一のダービー窯出身で、修行期も含めて20年以上の長きに渡って在籍しました。波乱万丈の後半生も有名ですが、それは他に譲るとして(例えば、和田泰志「アンティーク・カップ&ソウサー」p192)、ここでは彼がダービーで描いた「見習いの皿(Prentice Plate)」と呼ばれる有名な作品をご紹介しましょう。

 この丸皿には、縁部分にあらゆる方角から見たピンクのバラの花が連続して描き込まれています。中央部分にも同じようなバラの花がいくつか描かれています。この作品は、描かれて以来、1848年にダービー窯が閉鎖されるまで同窯の絵付け室に置かれ続け、代々の絵付師たちはこの皿を「手本」とし、そこに描かれたバラの一つひとつを繰り返し模写したと伝えられています。裏面に図柄番号(138番)が記されてはいますが、他に類例は知られていません。ビリングズレイがダービーを去る直前に、経営陣が必死に引きとめを図る中、せめてもの「置き土産」として描いたのではないかと見られています。

 ダービー閉窯時に一人の職人の手に渡ったとされるこの皿は、1856年にロンドンのとある店で売りに出ているところを発見され、今ではダービー美術館に納まっています。

関連作品:ダービー「D3-1」ダービー「D3-4」ダービー「D3-11」ダービー「D3-13」ダービー「D3-14」
ダービー「D3-16」ダービー 「D3-20」ダービー「D2-45(マンスフィールド時代)」 


Bジェイムズ・バンフォード(James Banford) 1758年生まれ。ダービー在籍:1789-95年
 ブリストル窯(Champion's Bristol)出身で、同窯が閉鎖(1781年)した後はロンドンの独立絵付け工房(ブラウン工房)で働いていました。その間に、ウェッジウッドのロンドン工房で絵付けをしていた女性と結婚しています。ダービー窯のロンドン店でリクルートされて、家族とともにダービーへ移ってきました。

 彼は、特に人物画で評価されていますが、四天王の中の役割分担から人物画が多く彼に回ってきたというだけで、実際には花絵でも風景画でも何でもこなす「万能選手」だったようです。しかし、経営者には文句を言い(高給取りのボアマンを名指しで「俺は、風景画以外はヤツより何でも上手く描ける」と不満を爆発させた手紙まで残っています。)、酒びたりで喧嘩も絶えない、典型的な「破滅型職人」だったようです。

 こういう亭主を持った奥さんが苦労したであろうことは想像に難くありません。ウィリアム・デュズベリー二世に自ら手紙を書いて「自分は絵付けでウェッジウッドに雇われていた実績があるが、子供がいるので、自宅で絵付けの仕事をさせてもらえないか」と頼み込み、仕事をもらっています。しかし、これがまた、安価な女性労働力の雇用に反対する他の職人たちとバンフォードとの諍いのもとにもなっていたようです。


Cジョージ・コンプリン(George Complin) 1739年生まれ。ダービー在籍:1791-95年
 フランス出身で、チェルシー窯の絵付師だったようですが、経歴には不明な点も多く四天王の中では一番謎の多い人物です。1789年にデュズベリー二世がロンドンに滞在した際に採用面接を受けたようですが、「ロンドンからの移転費用を前払いでもらえないならダービーには行かないと」しばらく駄々をこねつづけ、結局ダービーで働き始めたのは1791年のことでした。しかし、ダービー到着後は、残業もいとわず勤勉に働いたようです。

 彼の作品では、フルーツと鳥を組み合わせた図柄がとても有名で、ビリングズレイのバラと組み合わせた作品などはコレクター垂涎の的です。彼も(バンフォードほど無遠慮にではないにしても)「多様な絵を描ける」と豪語していたようですが、他のジャンルで具体的にどんな絵付けを残したのかは、よく分かっていません。

 興味深いのは、彼が女性の雇用に寛容だったらしいことです。バンフォードの奥さんが「ビリングズレイさんとコンプリンさん以外はみな、私が絵付けの仕事をもらっていることで主人に厳しい目を向けています」と書き残しているのです。(なお、ここにはビリングズレイの名前もありますが、彼には女性雇用に反対する嘆願書に署名した前歴があります。)


(2)「ジョッキー」と「クエーカー」

 「四天王」が全て去った後、18世紀最末期のダービーを支えた二人の絵付師は、「あだ名」で呼び親しまれた個性派でした。


Dトマス・"ジョッキー"・ヒル(Thomas "Jockey" Hill) 1753年生まれ。ダービー在籍:1795-1800年

 チェルシー窯出身の風景絵師で、ダービーにはボアマンの後任として招聘されました。磁器という小さな「画面」に絵を描くというのに、なんと右手の親指から中指まで指が3本なく、絵筆を手に縛り付けて絵を描いたそうです。

 また、彼は無類の馬(及び競馬)好きで、たった数年しかダービーに滞在しなかったのに、牧場を借りて馬を30頭も飼っていたそうです。「ジョッキー」というあだ名は、彼がお気に入りのポニー(名前は「ボブ」)に乗って工場に通勤したことに由来します。何だかいかにも「ダービー」に似合いのエピソードですよね。それに、長いコートをひらひらさせながら馬に乗っていたことから「空とぶ絵付師(Flying Painter)」の別称もあるそうです。ちなみに、このポニーのボブくん、朝ご主人を乗せて工場まで来ると、ひとりで牧場まで帰っていき、夕刻になるとご主人を迎えにまたひとりでやってくるという、忠犬ハチ公なみの忠義さを発揮したそうです。

関連作品:
ダービー「D4-7」


Eウィリアム・"クエーカー"・ペッグ(William "Quaker" Pegg) 1775年生まれ。ダービー在籍:1796-1801年、及び1813-20年

 1796年に花絵の若きホープとしてダービーにやってきました。勤勉な性格で、修行期(於:スタッフォードシャー)には一日15時間の訓練を積んで、絵付けの技術を高めたそうです。

 もともと宗教心があつかったペッグですが、1800年にキリスト友会(Society of Friends. "Quaker"は同会信者の呼称)に改宗したあたりから、やや狂信的になっていきます。彼は、質素を重んじる友会の教義と、贅沢品である磁器への絵付けという自らの職業との間で精神的葛藤に苦しみ、ついに1801年には筆を折り、描きためたスケッチ帳なども焼いて、ストッキング工場に新たな職を求めます。そこでも、贅沢な絹製品は作りたくないとして、飾りの一切ない木綿のストッキング作りを担当するという徹底ぶりでした。さらに、より辺鄙な地に移って苦行のような生活を送りますが、あまりの貧困生活のため、1813年ついにダービー窯に戻り、絵付師としての活動を再開します。

 この時期の、以前にも増した奔放な花絵は他の追随を許さず、彼をしてビリングズレイをも凌ぐ英国磁器史上最高の花絵師だとする専門家も少なくありません。結婚もして表面的には安定した生活を得ましたが、内面における宗教心とのギャップは拡大する一方で、さらには片目を失明するなど、心身ともに病んでいきます。ついに1820年には完全に絵付けから引退します。ただ、ダービーの町を離れることはなく、そこで小さな店を営み、地元の貧乏な人たちへの奉仕を生涯続けたとのことです。

関連作品:ダービー「D5-7」ダービー「D5-9」


(3)天才モデラーとマスター・ギルダー

 ちょうど「四天王」が絵付けで競い合っていた時期に、フィギュアの分野でも一人の天才造形師(モデラー)が彗星のごとく現れました。また、作品の仕上げに責任を持つ金彩師(ギルダー)でも、「マスター」と称すべき人材がダービーの「黄金期」を支えました。


Fジャン=ジャック・スペングラー(Jean Jacques Spangler) 1752年生まれ。ダービー在籍:1790-1796年頃

 チューリヒ窯(スイス)出身のモデラーで、ロンドンで装飾時計を作っていたベンジャミン・ヴリアミー(Benjamin Vulliamy)の推薦でダービーにやってきました(ヴリアミー社は、ダービーから素焼き白磁(ビスケット)の人形を大量に購入して時計と組み合わせていました)。スペングラーは英語をほとんど話さず、契約書も読めないなど、当初からコミュニケーション面で問題がありましたが、それでも従来のダービーにはなかったロマンチシズムあふれる造形を評価したデュズベリー二世は、好待遇で彼を迎え入れました。

 しかし、彼の問題は言葉だけではありませんでした。生き生きとした表情の人物やリアルな動物など優れた作品を作り出す一方で、気が乗らないと全く仕事をせず、職場の規律も守らずに自堕落な生活を続け、1792年にはデュズベリー二世に借金をした直後にダービーから逃走し、すぐにロンドンで逮捕されます。デュズベリー二世は規律に厳しい人でしたが、不思議なくらいスペングラーに対しては寛容で、その後も悪癖を二度、三度と繰り返す彼を、その度に許して仕事に戻しています(もちろん、雇用条件はその度に厳しくなっていますが)。主力製品である人形や壺で競争を勝ち抜くためには、モデラーとしての彼の腕は捨てがたかったということなのでしょう。

 なお、Spanglerの"a"は、ウムラウト付きで、彼の英語名はJohn James Spenglerです。自分でスペルできたかは、甚だ疑問ですが。


関連作品:ダービー「D3-15」


Gトマス・ソア(Thomas Soare) 1757年生まれ。ダービー在籍:1770頃-1809年、及び1810年代中頃-退職時期不明

 ダービー窯出身の優れた金彩師で、デュズベリー一世の下で修行してチェルシー・ダービー期後半には既に主要金彩師になっていました。デュズベリー二世の下では金彩師番号の名誉ある1番を使用しています。キーンの経営下では絵付け・金彩部門の監督となり、その後一時ダービー窯を離れましたが、ほどなく戻り、ブルアの下で経営側のポストに就いています。

 現役金彩師時代には、四天王と組んで特注品などを多く手がけました。また、監督時代には、ある日"クエーカー"ペッグが見事なアザミのデッサンを持ってきたのに対して、ソアが即座に角皿を取り出して「これに描いてみろ」と指示し、有名な「アザミの皿(Thistle Dish)」が生まれたとのエピソードがあります。この皿は、ビリングズレイの「見習いの皿」と同様、後輩絵付師たちの手本として使用されました。

 生涯ダービー窯に忠誠を尽くしたように見えるソアですが、1809年に一度だけ同窯を辞し、ちょうどウェッジウッド窯が絵付け・金彩の監督を募集していたのに応募しています。何度かの手紙のやり取りがありましたが、ソアの自尊心とウェッジウッド側の傲慢さから雇用条件で折り合いがつかず、結局契約は成立しませんでした。当時のウェッジウッドは、初めての磁器製造に乗り出そうという変革期にありました。もしソアが雇用されていたら、同窯のボーン・チャイナの絵付けがどのようになっていたのか、歴史に「もし」はないとは言え、興味深いところです。

関連作品:ダービー「D2-4」ダービー「D3-8」ダービー「D3-13」ダービー「D3-14」ウェッジウッドの第一期ボーン・チャイナの作例はこちら


(2008年6月掲載)